見出し画像

DEAR. Donna Williams 「自閉症」というものの捉え方


自閉症というものの捉え方について考察すると以下の日本語の題名に私は違和感を覚えている。
「豊かな世界」と位置づけることは一見すると分かりやすく自閉症について明るい印象を与えるものであるがしかし、その「豊かな世界」の具体性はなく、ただ自閉症について前向きに捉えればいいかのように受け取ることも出来る。
そうした具体性のない名前をつけることで幻想のものになってしまうのではないか。
他者からの認識の偏りではないかと考える。

 「自閉症の豊かな世界」
(ドナ・ウィリアムズ:2008”The Jumbled Jigsaw: An Insider’s Approach to Treatment of Autistic Spectrum ‘Fruit Salads’”)


本来の英語訳は直訳すると、「バラバラのジグソーパズル。フルーツサラダとしての自閉症スペクトラムに対する内側からのアプローチ」となる。

内容は、自閉症の人の脳の機能、思考法はバラバラのジグソーパズルのように混乱している状態と似ているということ、ひとつの具材に絞ることなく様々な果物が混ざり合っているフルーツサラダのように自閉症は単一の症状に絞ることのできないものであるといったことが書かれている。

決して自閉症全体を「豊かな世界」とは示していないはずだ。それにもかかわらず、「豊かな世界」と位置づけることは前述した「幻想の中に孤立」させる行為そのものではないかと私は思う。

なぜ、違和感を覚えたのか、「Nobody Nowhere“自閉症だったわたしへ”」についても同じようにいえる私の考えを著者へ向けた手紙として扱う。


<手紙>
『Nobody Nowhereについて、「自閉症だったわたしへ」と日本語での題名が付けられましたがそれについてウィリアムズはどう考えますか?
私は違和感を覚えました。まず、自閉症は過去形にできるのかということです。ウィリアムズの創り出した世界観は「自閉症」によるもので、ウィリーやキャロルについても、アメリカなどでよくハリケーンに名前が付けられるように、自身の思考パターンに名前を付けたものであると解釈しました。それが精神分裂病や人格障害と少し異なる点です。ウィリーは、世の中とウィリアムズを結ぶ役割をします。キャロルは、世の中に合わせようとするキャラクターでウィリアムズが創り出し、実際に演じているものです。ウィリアムズが精神分裂病でないように、ウィリーもキャロルもウィリアムズです。そんなウィリアムズが、ウィリーとキャロルに別れを告げるのも、自閉症と「さようなら」したわけでなく「こんにちは」をしたのだと思いました。ウィリーやキャロルが自閉症なのではなく、ウィリアムズが自閉症なのです。なのに、なぜ「自閉症だったわたしへ」と言わなければいけないのでしょう。
 Nobody Nowhereの意味は、「ウィリアムズ以外に誰もいない」ということなのか、「世の中と関わりがうまく持てないウィリアムズの様子」を指しているのか、どちらにしても、自閉症のウィリアムズはいるはずです。
 「自閉症だった」とは言えないように、ウィリーやキャロルに頼らないウィリアムズは、自閉症と向き合い、世の中と向き合い、世の中を歩こうとするとき、世の中の複雑さと自分がそれを受け入れていかなければならない困難さに苛まれるはずです。「世の中」と「自閉症の世界」とを行き来する葛藤が生まれます。
 次に、”The Jumbled Jigsaw: An Insider’s Approach to Treatment of Autistic Spectrum ‘Fruit Salads’”も日本語出版で「自閉症の豊かな世界」となっていますが、私はこの題名にも違和感を覚えます。最初、店頭で目にしたときには、この本の題名のわかりやすさから手に取りましたが、中身を読み進めると次第に違和感が増しました。たしかに、空気中のチリやホコリを万華鏡のように思い、人々の動きを人とも思わず人形劇のように捉えることもあります。しかし、それのなにが豊かなのでしょうか。自閉症の人が感じている世界観は、大多数の自閉症ではない人が障害なく行う脳機能の働きだったりすることに障害が生じている状態です。その状態は、誰もが通過している一瞬であると私は考えています。ウィリアムズの語りは、とても豊かであることに変わりはありません。
ただし、「だった」にしても「豊かな」にしてもどこかで自閉症を見下している感じを受けるのは私だけでしょうか。自閉症は生涯付き合っていくものであり、自閉症のある人は、自閉症をふまえた上で「世の中」で生きていかなければならないのです。』


 
 この手紙の中で私は、自閉症に対して「だった」という過去形を使うこと、「豊かな」と位置づけることに違和感を覚えている。理由としては、自閉症が過去形にできるようなものなのかということと、本当に豊かなものなのかということが私の中にある。自閉症が病気ではなく障害ということからも、症状の改善が見られたとしてもその障害はつきものであると考えられる。また、一部の症状や特徴だけを指して豊かであるということは何を根拠にすればいいのだろうか。どちらにしても、このとき社会性というフィルターを通して自閉症を判断しているのではないだろうか。
 もしも、社会性というフィルターを外してみたならば、内在的な根本原因を探り、ありのままの自閉症と向き合うことができるはずだ。一般的に、社会性のなかで生きている人々にとって、何が社会性にあたるのかを意識しづらく、社会性のフィルターを外すことは容易ではないかもしれない。重要なのは、社会性というものを通して自閉症を見たとき、観察者バイアスのように、自分の意味にとっての理解になっている可能性が指摘できるかどうかにある。そのとき社会は、自身の性質を知ることが必要となってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?