見出し画像

自閉症スペクトラムの可能性

・ガラス張りの世界について
 「ガラス張り」と例えられることについては、私自身も共感する感覚である。まるで、自分の周りにガラスが張られているように、周囲の音が聞こえず動きだけを見ていることや、逆に、周囲の音が騒音として耳に入ってくるために動きを読み取れないでいることがある。ときには、音も動きも強調されて自分の許容範囲を超えてしまうことがある。いずれにしても、周囲と自分とはまるで別世界にいるようなのである。自分の感情・感覚がなく、客観的に周囲と自分とを照らし合わせている時間とも言える。
 「ガラス張りの世界」というのは、自閉症によって、自分の感情、感覚、相手の感情、行動など周囲の状況といったさまざまな情報を処理しきれずに時が止まってしまったように感じることであると私は考える。普通の人にとって無意識に処理できる多くの情報も、自閉症によって滞りがあるのである。
 
・KYについて
 空気が読めない人を「KY」と呼ぶように流行ったことがある。そこで、自閉症の人の「KYさ」と自閉症ではない人の「KYさ」の違いは何か。自閉症の人はコミュニケーションを自ら働きかけることが少ないという点で、相手にしてみると、「コミュニケーションがとれない」となり、相手がコミュニケーションをとろうとしていても自分はとろうとしない、とれないことが問題である。自閉症ではない人はコミュニケーションというものを理解しながらも自分の意志でコミュニケーションをとろうとしない、拒否しているというのが「KYさ」である。
 さらに、自閉症の「理解していないKYさ」と自閉症でない人の「理解しているKYさ」の間に、「理解できないKYさ」というのがわたしはあると思う。自閉症スペクトラムで言うと、言語的には問題がないにも関わらす、コミュニケーションに障害のあるパターンである。主にアスペルガー症候群が当てはまる。一方的に自分の話しかできない、相手の言っている意味がわからないといったことが起きている。これは自己中心的な考えというわけでなく、自分の中の情報処理に問題があると考えられる。相手の情報と自分の情報をうまく照らし合わせることができないのである。
 自閉症特有の相手に関心が向いていない「理解していないKYさ」と、自閉症ではない自己主張としての「理解しているKYさ」と、自閉症スペクトラムに入るもしくは近い状態の本当に空気を読むことのできていない「理解できないKYさ」がある。
 世間で流行った「KY」には、後者2つのKYさが言われている。後者2つにはKYという点で表面的には同じように見えても、内面的には異なっている。また、自閉症のひとの理解していないKYさには、そもそもコミュニケーションを取ろうとしていない様子が浮き彫りとなり、後者2つとは表面的にも異なることがわかる。自閉症においては、このように普通の人と表面的な違いが目立つために異質なものであると見えることもある。
 
・「自分探し」との違いについて
 若者が直面する自分探しと、自閉症の人がする自分探しの違いは何か。このことについては、私が若者であり自閉症者でもあると仮定(事実?)している。若者の直面する自分探しは、自分の能力ややりたいことなどに主体性を持たせることを探しているのではないか。それまで何かを支えにしてきても、自分一人の力で立とうとして立てなかったとき「自分とは何か」と考える。自閉症の人の自分探しには、先に述べた「自己認知」に関わることがいえる。自分というものの「こころ」「からだ」すべての情報をまとめなくてはいけない。普通の人が、支障なく行う情報処理に滞りがあり時間がかかるのだ。自閉症の人の「自分に関する情報」はよく細分化されていて、普通の人よりも鈍感であったり、逆に、敏感であったりする。自分の情報を集め、自分の声に耳を傾けるという点で、自閉症の人は、情報が細分化されている分、普通の人よりも自分の情報についてわかりやすいのかもしれない。
 私自身が、若者であり自閉症であるということは、まず、自閉症の問題に取り組まなければならないということだ。自閉症の特徴が、自分の情報をまとめ切れていない状態にあるので、まず自分の情報をまとめなければいけない。自分の情報を良く知り、特徴を知り、やっと普通の人と同じスタートラインに立つ。次に、若者として「自分探し」の旅に出ることとなる。このことは、自閉症を克服できたというわけでなく、自分の情報があまりにも細分化され、かつ壊れやすいものであるため自分の状態を知ることは常に行っていなければならないのである。
 
・細分化されている情報について
 私が「細分化されている」というのは自閉症スペクトラムの症状を表すことができると考えるものである。綾屋・熊谷2010のなかで、アスペルガー症候群の症状を「つながらない身体」として紹介されている。
特徴とされるそれらの現象がなぜ生じるのかを、私の内側からの感覚で言えば、「どうも多くの人に比べて、世界にあふれるたくさんの刺激や情報を潜在化させられず、細かく、大量に、等しく、拾ってしまう傾向が根本にあるようだ」という表現になる。(綾屋・熊谷2010)
 自閉症スペクトラムにおける社会性の障害には、自分の情報や相手の情報などが多くのものに細分化され、処理しきれないために起こりうるものであるといえる。処理しきれるのであれば問題はないのである。
 
・私が自閉症である可能性について
 表面的に顕れる自閉症はなくても、自閉症が発達障害といわれるように、私の発達過程に遅れがあったことは事実である。今、普通に社会生活を遅れているのは、発達に遅れがありながらも成長してきた証なのである。自分の情報を少しずつだがまとめる力をつけてきたのである。
 
・自閉症スペクトラムである可能性について
 「障害者」と言われなくても、自閉症スペクトラムという括りには誰でも入る可能性がある。脳の機能に何らかの問題は、一人ひとりの顔からだが違うように誰にでも起こりうることなのである。そのことを考慮すると「障害者」「自閉症」「自閉症スペクトラム」と「普通」といったことの線引きは難しい。
 
・「普通」について
 普通という基準はどこにあるのか。異質なものに映りがちな自閉症の行動の何が「普通でないのか」明確な基準はあるのだろうか。そう考えていくうちに、私は、自閉症の子どもたちに押し付ける「普通の社会性」というもの事態に疑問が浮かぶ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?