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知的障害者の自立

「知的障害者の自立」(三田優子著、『ケアされること』岩波書店)を読んで、一人暮らしができているなら自立しているのではないか、という私の発想が思い込みであったと気づくことができた。

なぜならば、この文章に登場する彼は自立生活だと思っている一人暮らしが「くたびれる」と言って毎日を過ごしていたからである。

自己決定、自己実現がされるはずの自分の部屋の中で、「掃除ができなければ自立ではない。」といった周囲の人の言葉に縛られて苦痛を感じていたならば、それは自己決定でも自己実現でもないはずだ。

このように、彼が生活を縛られていた原因には、「知る権利」を奪われていたと考えられる。

他の人がどのように生活し、どのタイミングで掃除をしているかを知らないまま、障害者だから掃除ができさえすればいいと教えられたのであるならば、彼は他の人の現状を知らないまま過ごすことになる。

特に、施設で生活をしていたなら情報も少ないと考えられる。

知的障害があっても、彼には人から言われた言葉を信じ、やり通す力がある。そんな人に、正しい情報と自己決定、自己実現の方法を知ってもらう必要があると思った。

文章中にもあるように、誰でも「楽をする権利、からだを気持ちよくする権利」「自分のやりたいことを、人を使ってやり、それを自分でしたことにする権利」がある。

障害者だからと言って、周囲の意向に沿う必要はないのだ。また、周囲の人はその人の自立を真剣に考えるのならば、生活の知恵を伝えていく必要がある。

私は、知的障害者が働くある就労の場で、小さなことではあるが自己決定がされる瞬間を目の当たりにしたことがある。

それは、屋外で働くときに防寒のため着ていた上着を「暑いから脱ごう。」と自分で行動に移していたり、休憩時間には何をするか自分で選べたりと本当に小さなことではあるかもしれない。

しかし、私には「こうしなさい、ああしなさい」と誰かに指示されることなく、自分の意志で動く姿がとても生き生きと映った。

その背景には、知的障害者が常に、「こうでなければいけない、ああしなければいけない」という行動の制限であったり、選択の自由を奪われている姿が浮かんでくる。

「暑いから上着を脱ぎなさい」ではなく、「暑かったら上着を脱ぐ」「晴れたら外で遊ぶ」「雨なら中でできることをする」といった情報をもとに自分で考え行動する力が尊重されたものであった。

「自分で考え行動する」とは、私も中学時代に先生から教えられた覚えがある。当時は言葉の意味もよく理解できていなかったが、自分で考えるとはどういうことか、と考えることから始まり、たくさんの情報から行動を選択する大切さを知っていくことができたと思う。

先日の講義で、橋場みちこさんは、「自尊心を持つことが自立につながる。」といっていたが、この「自尊心」が自立する第一歩であり、最も重要なことであると私は思った。

誰の指示に従うでもなく、自分の欲求を満たすことができたら、どんなに小さなことでも大きな自尊心に変わることができると思う。

障害者の自立には、自己決定、自己実現を主体的にできることが求められる。そのためには、障害者自身の主体性を引き出すとともに、環境や支援がその主体性を否定するものであってはいけない。

障害者自身の主体性は人それぞれである。

そして、知的障害者が主体性を持っていないものだとして行動を制限したり、選択の自由を与えない環境や支援は大きな間違えであると言いたい。

集団のなかのひとり、ではなく好き嫌いもあれば感情の起伏もある一人の人間として尊重することを、環境や支援の面では求められると考えられる。

(2010)

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