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【繁体字翻訳版】国際女性デーに考える、着物を着ていると感じる抑圧について 婦女節思考:穿着和服感受到的壓力



こんにちは、着物コーディネーターさとです。
先日書いた記事を読んでくれた香港のお友達のKiriさんが、
私の記事を繁体字に翻訳してくれました。
(Kiriさんありがとう!)

noteには香港や台湾の方はあまりいないかもしれませんが、掲載させていただきます。
翻訳の匙加減について、Kiriさんは「自分の気持ちへの偏り」についても自己申告してくれたのですが、
彼女は私の良き友人で、私の気持ちもよく知ってくれています。
承知の上で掲載したので、言語のニュアンスの違い等はご理解いただければ嬉しいです。


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こんにちは、着物コーディネーターさとです。
今日は「国際女性デー」ですね。

各位好,我是和服配搭師Sato。今天是婦女節呢。

「フェミニズム的」な日だと思っている方や、起源が気になる方は是非検索してみてください。
Googleのトップも国際女性デー仕様。

如果第一時間腦海裏想到 feminists 這個詞語的話,各位請去Google上面搜索一下什麼是婦女節吧。

Instagramでもタグを使っての投稿数がとても多いんですね!正直びっくりしました。
「あんまり意識高い系の事を言うとSNSでは倦厭されがちかな?」
と思っていた時期もあったけど、私も投稿してみました。

就算是Instagram上面都有很多人使用這個 #hashtag ,自我意識過剩的事情放上網會不會招人厭倦呢?雖然有這麼想過但還是想寫一點東西。


なんでわざわざ今日この日に、この投稿をしたのかと言うと、
着物=おしとやかな日本女性の象徴として扱われる事が多く、
それを「当たり前の事」として扱われる事に対して、

為什麼偏偏要揀今日去發這篇文章,是因為和服等於溫柔嫻熟的女性象徵這種意識實在太多,甚至已經變成了理所當然的事情。

違和感だったり、自分の気持ちとのギャップを感じる回数が非常に多いからです。

對於這種印象有違和感、和自己的感覺有落差的情況實在很多吧。


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これを読んで下さっている方の中には、着物を着たことがない方もいるかもしれないので、
あんまりネガティブキャンペーンをしたくないのですが

閱讀本篇文章的各位讀者之中、沒有穿過和服的朋友可能都存在。我不是想給大家負面的印象,但是由於穿着和服的時候體驗過「跌入地獄一般」的感受,所以我今天盡量嘗試不要加入太多個人感情去分享給大家我的意見。


着物を着ていることによって経験した「地獄」もあったので、
今日は私の「お気持ち」に寄り添い過ぎないように書いてみようと思います。

念のために書いておくと、私は「着物を着てお上品な振る舞いをする事」には何とも思っていません。
私はそうじゃないなぁ、と思っているだけです。

這麼說吧,我不認為穿着和服就要做一些非常優雅高級的事情。我只是認為我不是這種人。


着物を好きでいる方の中には
「着物を着るといつもと違う自分になれる」
「着物を着ると身のこなしが上品になる」と感じる方もいると思います。
そういう方々を否定する気は毛頭ございませんし、
好きの気持ちは千差万別だから、「みんな違ってみんな良い」んです。

喜歡穿着和服的人當中,感覺「穿着和服的時候和平常的自己變得不一樣」、「穿上和服連行為舉止都變得優雅」的人是一定存在的。我絕對不是要否定他們的想法。

因為每個人喜歡的東西和想法都有千百樣分別,「大家不同大家都開心」就最好。

平たく言えば、他者から「お上品」を強要されるのは違うよね?
という事です。

反過來說,「被他人強行要求要變得優雅」這種想法就不一樣了吧!



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私は着物を自分のファッションとして自己決定しているだけです。

我只是把和服當成自己喜歡的服裝。

ただそれだけの事なのですが、
販売している側の人間から「日本人はやっぱり着物よね」と言われたり、
着物を着ているだけで「お酌して欲しい」と言われたり。

明明就只是這樣一件簡單的事情,賣衣服的人會說「日本人果然還是着和服」、甚至是穿着和服的時候才會被要求「請幫我斟酒啊」。


私は知らない方をおもてなしするために着物を着ていないですし、
「着る」というのはただの作業ですから、
「えっ?日本人じゃなくても着られるよね?何言ってるの?」って思っちゃうんですけど、正直言ってこれが現状なんですよね。

我不是為了服務不認識的人去穿着和服,穿着衣服只是單純的穿着衣服。「不是日本人都可以穿着?你說什麼?」雖然會有人這麼想,但似乎這就是現在的狀態。


着物はおしとやかで上品な日本女性のファッションであり、おしとやかな日本女性は「和の心」で着物を着用し、着物を着ているのだからサービスとしておもてなしをするが当たり前なんです。

和服是成熟穩重溫柔端莊的日本女性的服裝,這些日本女性因為有「和心」所以穿着和服。着想和服理所當然就要為他人提供服務吧!

え?冗談じゃないわ。
私はおしとやかじゃなくていいし、下品で結構です!

と思い、ここ数年「そういう」言動や振る舞いをしていたら、
おもてなし的な事を要求されることは少なくなりました。
でも、全体数で見たらどうでしょう?きっとあまり変化していないと思います。

下?不要講笑吧。
我並不溫柔端莊、我很地道的。
雖然我是這麼想,這幾年就「這樣」活着,終於要求服務大家的事情也減少了。比較全體數字如何?恐怕沒有什麼轉變吧。

着物って着用している人が極端に少ないので、
旅館の女将さんや仲居さん、銀座のナイトクラブの女性など、
おもてなし要員のお仕事の方々のイメージが相まって、こういった現象が起きるのかもしれません。
おもてなしがお仕事の方はそれでギャラが発生してるのですが、
私は勿論ノーギャラですしね。笑


穿着和服的人其實極端稀少,旅館裏面的主人和服務生、銀座的俱樂部夜總會的女性等等、要提供服務或者是工作的印象催化了這種現象也不可知。

但如果是因為工作要提供服務是會有報酬的,我絕對是沒有酬勞的吧!(笑)


じゃあ着物を着用する人が増えたらどうなるのかな?と考えた事もあるのですが、このままだと多分増えないですよね。
着るのも面倒で生きるのも面倒な服なんて、他にないと思います。

好吧如果穿着和服的人增加的話會怎麼樣呢?我的確有這麼思考過,不過按照目前情況應該不會怎麼增加吧。穿着又麻煩生存又麻煩的這一種服裝,沒有其他了。


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日本の女性は美しい、和の心は素晴らしい、
色々な着物の宣伝文句を聞きます。
では、「おしとやかな着物の女性像」は本当に美しいのでしょうか?
私にはそうは思えません。
このままでは、息苦しくて社会からの圧も強い着物は、「抑圧」の象徴になってしまいかねないのでは?と思うくらいです。

日本女性美麗、「和心」很優秀、各種和服的宣傳語句我都聽過了。那麼「溫婉嫻熟的和服女性印象」是否有真的美麗呢?

我不這麼認為。

再這樣下去的話,連帶着喘息都覺得辛苦的社會壓力代表—和服,豈不是會變成壓抑的象徵呢?

着物は難しい衣服です。
それは着付けが難しい、保管が難しい等も勿論あるのですが、
他者の自己決定を軽んじ、無責任に口を出す人達の対象になりやすいからです。
私は自分で自分の好きな服を選んでいるだけなのですが、
現状、それが自由に直結しているとは言いがたいと感じる局面が多いです。
着物は日本の伝統だし、日本の民族衣装です。
でも、過去の女性像にド直結させるの、もうやめませんか?
伝統だからって古いまま変化しなくていい、なんて事は無いと思うんです。

和服真的是很困難的衣服。
穿着的方法困難,保存很困難等等固然理所當然。因為他人而看輕自己、還會成為喜愛隨口胡說的人輕視的對象。
我只是選擇自己喜歡的服裝,但卻要面對和自由這東西連結起來的局面。
和服是日本的傳統、日本的民族服裝。但是把過去的女性形象和和服直接聯繫起來,這種想法可以放棄了嗎?

因為是傳統所以就要把以往的古代思想完全不作任何變化保留下來,我並不認同。


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