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そらとぶ、れんしゅう【ショートショート】

宮野さんは一風、変わった娘だ。
ほっそりした指を空にかざし、爪先ばかりを見ている。
爪が気になるのかな、と思ったが、そうではなかった。
指の先が透明になり、大気と混ざりあい、うっすらと青空に溶けていた。
彼女は指と空をかわるがわる凝視めながら、
「なんで指が空になってるのさ」
と気持ち良さげに言った。
指の消失を認めながらも、さほど悲しそうではなかった。
「この世から消えてなくなるんだよね? きっと」
彼女の声は驚くほどすっきりとし、陽気でもあった。
さらに宮野さんは言葉を紡いだ。
「空を飛ぶ、天使的な練習なんだろうと思う」
宮野さんは、ここでようやく寂しそうに笑った。

小鳥のさえずりがする。
朝だけど、部屋にはまだ夜がところどころ残っている。
ここはマンションの一室で西向きの窓を開けると、ベランダに出ることができる。
でも今はカーテンに閉ざされ、ベッドの中で毛布にくるまり、夢とうつつの昏い水際をさまよっている。
朝が少しずつ打ち寄せ、ほのかに意識に明るさが増してくるが、依然、うつらうつらしているひととき、小鳥の声が近い、とても。
じょじょに接近してくる。
いくつも、いくつも声が重なり、まるで小さなきらきらした石をばら撒いているみたい。
ちょん、ちょん、と飛び跳ねながら僕のそばへとやってくるのだ。
窓ガラスに隔てられているっていうのに、どうして部屋に侵入できるのだ?
ベランダには陶器の白い小皿があり、そこにペットショップで売っている小鳥の餌を入れていた。
なので彼らは毎朝、ここで食事する。
だけど、それにしても近い、近すぎる。
いよいよ僕の胸の上で二羽以上、いや、もっと数は多い、小鳥たちがさえずり、というか騒ぎだし、うるさいったらありゃしない。
ベッドの上で小鳥の声が鎖となり、僕を縛りつけ、身動きが取れない。
やがて否応なしに朝がくる。
やっと目をあける。
すると、そこに一羽のスズメがいた。
黒いつぶらな瞳ふが僕を見ている。
目と目が合った。
一瞬、静寂。
見つめあうスズメと僕。
と、驚くスズメ。
音が戻り、羽ばたきが鼓膜を打つ。
スズメは宙に浮かんでいた。
僕もまた翼がないというのに意識そのものとなり、飛んだ。
気がつくと天井を抜け、スズメと一緒に青い朝の大気圏に舞い上がる。
空だ。
つられて飛翔し、空にいる。
思わず下方をうかがった。
マンションの屋上が小さく見えた。
顔を上げる。
曙光だ。
青と緑がまざった山の稜線から朝の光線がまっすぐに貫き、僕を、スズメたちを照らしだす。街中のありとあらゆるものの影が長い。
「これが空飛ぶ、練習?」
と訝しんだとき、僕は目撃してしまった。同じように空に浮かぶ、おびただしい人の姿を。
死んだ人もいれば、生きている人もいる。
体を丸め、ぐっすりと眠るお寝坊さんもいれば、決然としたまなざしを宇宙に向けている人もいる。
そうした人々の合間をスズメたちが翔け抜けてゆく。
「あ!」
空中の人々にまぎれ、草色のパジャマを着た宮野さんがいた。彼女はふわり、髪を風に気持ち良さげに泳がせている。
「宮野さん?」
彼女は僕に気付いたようで小さく手を振った。
夢でもみてるのだろうか? 
それにしてもリアルすぎるけど。
でもわかったことは色々あって、小鳥たちが人々の魂と慕わしげな関係にあることだった。だってスズメは人々に翼の操り方を教えてくれていたり、さかんに歌をさえずりながら  空中散歩を丁寧にサポートしてくれていたからだ。

僕は知った。空飛ぶ練習をしている人々が意外に多くいることを。

「おはよ、宮野さん」
「あ、おはよ」
朝の校庭で挨拶する。
と、彼女は癖になっているのだろう。指を空に向かって突き出し、泳がせるようにかざしてみせた。
「あ」
驚く僕。指は空に溶けていなかった。
「空とぶ練習はやめたの?」
と訊いた。
「うん」
彼女は少し残念そうに答えた。
そして僕を伏目がちにうかがうと、頬を赤らめるのだった。

おしまい


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