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ヴィパッサナー瞑想備忘録

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#サティを入れる

エゴ感覚を薄める。

2年半くらい前にマインドフルネス瞑想を始めた。瞑想教室の1日体験コースに行ってきたのだ。それから瞑想を習慣にした。3ヶ月目に入ってから間も無く、それまで私の理解の及ばなかったフランクルの言葉を理解することができた。 「私たちが人生に何を期待するかは重要ではなく、むしろ人生が私たちに何を期待しているかが重要なのです。」 理解できたと言ってもあくまで私の解釈ではあるが、この言葉に対する私の解釈を説明することは難しく、不可能であると言える。一応、説明を試みるが、期待しないでいた

「妄想」とサティを入れても妄想が消えない時は、妄想が消えない現実をありのままに見る。

妄想が湧いている時。 「妄想」とサティを入れる。 それでも妄想が消えない時は 「妄想が消えない」とサティを入れる。 妄想が消えない時は、妄想が消えない現実をありのままに見ればいい。 妄想をジャッジせず、嫌悪せず、妄想が消えない現実をありのままに見る。 もし、妄想を嫌悪しているならば、 「妄想を嫌悪している」 「嫌悪」 などとサティを入れればいい。

マインドフルネスとマインドレスネス。その言語表現の難しさ。

マインドフルな状態でいたいと思った。 だが、それが既にマインドレスネスな状態(思考や妄想に囚われた状態)を嫌悪して排除しようとしている心理状態でもあった。 現在のありのままの心の状態を承認して、気づいている状態。それがマインドフルな状態、サティを入れた状態である。 妄想があると、ただ気づいている状態。妄想を嫌悪して、排除しようとしていない状態。 なんだか妄想を承認するとか受け入れるとかいうと、なんで妄想は断じて悪いものなのに受け入れたり承認したりするの?って言語上の矛盾にぶち

発達障害の苦しみに満ちた人生が、ヴィパッサナー瞑想の実践によって、劇的に変化した話。

妄想と精神的不調に苛まれた人生 私は発達障害(自閉スペクトラム症)である。20歳の時から強い被害妄想に襲われるようになった。現実との区別はついていたが、妄想の臨場感が強く、荒唐無稽な妄想であってもリアリティーが感じられた。 18歳で高校を卒業してからニートの期間と派遣の仕事の期間を繰り返していたが、仕事は長続きすることがなかった。妄想が強く、メンタルの調子は悪く、生活は不規則だった。 20代前半の頃、元々、生き方や人生に関する哲学に興味があった私は仏教に興味を持ち、お寺

サティを入れる|ヴィパッサナー瞑想

「対象に気づく。→対象をラベリングする。」 この一連の過程を「サティを入れる」と言う。 対象が妄想であれば、妄想に気づいて、意識を現実に、今に、五感の感覚に戻す。そして「妄想」とラベリングする。 常に気づいている。常に気づいているように気をつけている。

「サティが入らない」とサティを入れる。

GPTとの会話。 私の発言 サティが入らない。妄想が止まらない。止めるのを諦めるか。妄想が湧くままにしておくか。消える消えないにこだわるのはやめるか。「サティが入らない」とサティを入れる。「サティが入らない」のを認知する、観察する。「サティが入らない」ありのままの状態を見る。サティを入れるのを諦める。←最後のも合ってる? ChatGPTの発言 サティ、つまりマインドフルネスや意識の在り方に関して、あなたが経験している困難は、瞑想やマインドフルネスの実践においては珍しく

サティを入れて思考の後続切断

対象→六門→識→受→想→尋→行 原始仏教が説明する認識のプロセス。 対象と六門(五感+意門(頭の中のイメージや思考を捕える感覚器官があるとブッダは説いている。))と識(認識する作用)が触れ合って受(感受作用)が生まれる。感受した内容から、概念やイメージが想起される。これが「想」。そしてより深く対象にフォーカスし(尋)、対象がなんであるかを知る。カラスの声を聞いたなら、「想」の段階で、「音」と分かり、「尋」の段階で、「カラスの声」だと分かる。そして「カラス嫌だなあ・・・」とい

サティを入れる | 人間の認識のプロセスを原始仏教が説明

サティを入れる。 「サティを入れる」とは「意識的に客観的に気づく」ということだよー。「サティ」はパーリ語で、和訳は「気づき」。英訳は「マインドフルネス」だよー。 ヴィパッサナー瞑想には、マハーシシステムやゴエンカシステムなどがあるよー。世界中で最も広まってるのはこのふたつだよー。 マハーシシステムではサティを入れるのにラベリングという技法を使うよー。ラベリングとは自分の心や体の状態を客観的に捕らえて言語化することだよー。 例えば、考えていることに気づいたら、そのことに

ヴィパッサナー瞑想の実践による気づき

妄想を嫌悪して排除しようとして苦しんでる俺にある先生が言ってくれた。「妄想を排除しようとしない。」これを聞いた俺はそれから数ヶ月後、自分が妄想をジャッジして嫌悪して排除しようとしていることに気づいた。そして、妄想をジャッジせず、価値判断せず、ありのままに見た。すると妄想が1秒以内にスーッと消えていったのである。妄想が溶解していった。 心を落ち着かせようと瞑想をするのは間違った態度らしい。渇愛らしい。ありのままを観察する。「怒ったら怒った。」「妄想したら妄想した」それだけ。ジ