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Cafe Sati | カフェ サティ

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2024年2月の記事一覧

ジャーナリング(書く瞑想)のやり方|効果|私のジャーナリング体験|ジャーナリング講座

プロフィール名前:永井 陽一朗 私はマインドフルネスの源流であるヴィパッサナー瞑想の実践者です。約2年間ジャーナリングを続けてきました。ジャーナリングは自分の心に光を当てる行為です。マインドフルネスで言う「無意識の意識化」が起き、自己理解を深めることが出来ます。 ジャーナリングについて 「ジャーナリング」とは自分の頭に浮かんできた思考を紙に書き出すことで、 可視化し、客観視する為の手段で、「書く瞑想」とも呼ばれています。 ジャーナリングのやり方紙とペンを用意します。頭に

サティとサマーディ

ヴィパッサナー瞑想は・・・ 気づきながら集中するのじゃ。 サティ・・・サマーディ・・・。

「サティが入らない」とサティを入れる。

GPTとの会話。 私の発言 サティが入らない。妄想が止まらない。止めるのを諦めるか。妄想が湧くままにしておくか。消える消えないにこだわるのはやめるか。「サティが入らない」とサティを入れる。「サティが入らない」のを認知する、観察する。「サティが入らない」ありのままの状態を見る。サティを入れるのを諦める。←最後のも合ってる? ChatGPTの発言 サティ、つまりマインドフルネスや意識の在り方に関して、あなたが経験している困難は、瞑想やマインドフルネスの実践においては珍しく

ジャーナリング講座、始めました!

1年以上、ほぼ毎日ジャーナリングを行ってきた。日々のジャーナリングによって、数々の気づきを得たり、心のもやもやを解消したり、思考を整理したりすることが出来た! 思考の癖、思考パターンに気づこう! 自動的に頭に浮かんでくる思考を「自動思考」と言う。その自動思考には思考の癖や思考パターンがある。それに気づくことで、その思考の癖をやめることが出来る。どうやって気づくのか?ジャーナリングによってである。 思考の癖に気づく。ジャーナリングによって、私は思考の癖に気づくことが出来た。

サティを入れて思考の後続切断

対象→六門→識→受→想→尋→行 原始仏教が説明する認識のプロセス。 対象と六門(五感+意門(頭の中のイメージや思考を捕える感覚器官があるとブッダは説いている。))と識(認識する作用)が触れ合って受(感受作用)が生まれる。感受した内容から、概念やイメージが想起される。これが「想」。そしてより深く対象にフォーカスし(尋)、対象がなんであるかを知る。カラスの声を聞いたなら、「想」の段階で、「音」と分かり、「尋」の段階で、「カラスの声」だと分かる。そして「カラス嫌だなあ・・・」とい

仏教と量子力学の関係について教えてってGPTに聞いてみたよ。

仏教と量子力学の関係について聞いたところこう返ってきた。 仏教と量子力学との関係についての議論は、主に哲学的および概念的なレベルで行われています。これら二つの分野を直接結びつける科学的な証拠は存在しませんが、仏教の哲学と量子力学のいくつかの原理との間に類似性を見出す試みがあります。ここで議論される類似性は、主に以下の概念に関連しています: 不確定性と非決定論: 量子力学では、粒子の位置や運動量を同時に正確に測定することは不可能であるとするハイゼンベルクの不確定性原理があり

サティを入れる | 人間の認識のプロセスを原始仏教が説明

サティを入れる。 「サティを入れる」とは「意識的に客観的に気づく」ということだよー。「サティ」はパーリ語で、和訳は「気づき」。英訳は「マインドフルネス」だよー。 ヴィパッサナー瞑想には、マハーシシステムやゴエンカシステムなどがあるよー。世界中で最も広まってるのはこのふたつだよー。 マハーシシステムではサティを入れるのにラベリングという技法を使うよー。ラベリングとは自分の心や体の状態を客観的に捕らえて言語化することだよー。 例えば、考えていることに気づいたら、そのことに

放てば手に満てり

「放てば手に満てり」 道元の言葉で正法眼蔵に出てくる言葉だ。まずはこの言葉の意味をGPTに聞いてみたので載せるよー。 「放てば手に満てり」という言葉は、禅宗の開祖である道元禅師によって語られたもので、『正法眼蔵』に記述されています。この言葉は、禅の教えの核心を象徴するものであり、非常に深遠な意味を含んでいます。 この言葉を直訳すると、「放すと、手に満ちる」となります。ここでの「放つ」とは、執着や欲望、先入観などを手放す、すなわち放下することを意味します。一方、「手に満て

「集中出来た」はジャッジじゃない!?マインドフルネス瞑想の核心

「瞑想中、集中出来たという客観的事実をジャッジせずに、ありのままに見る。」 「集中できた」ということに善いとか悪いとか価値判断を加えることなく気づき、ありのままに見る。また、「集中できなかった」ということに対し、善いとか悪いとか価値判断せずありのままに見る。 「集中できた」とか「集中できなかった」というのは客観的事実であり、瞑想中は、淡々とその客観的事実に気づけばよい。その客観的事実を認知するに留める。観察するに留める。 「集中できた」というのはそれだけでは、単に客観的