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ただ信じることは何より尊い

知らぬ土地に引っ越しして1週間弱。
眼前にぴきぴきになった無残な姿のgalaxyS8がある。不注意で落として(それも運悪く横断歩道に)車にひかれてしまったようだ。
未開の地で自宅から離れた場所で孤立という危機的状況。いつもなら焦って検索を繰り返したり、SNSに絶望ストーリーをあげてみたり、彼氏に連絡するけど、そうかそのスマホがない。

それに気づいたら、なんだか笑顔になった。わくわくしていた。
なんだか分散していた自分が今、この体に戻ってきて遂にひとりになった気がして、力がみなぎってくる気がした。
連絡をとること、ネット検索に公共個通機関の乗り換え、音楽を聴くこと、動画をみること、なんなら今が何時かさえスマホで確認していたのに今はそれが一つもできない。不便どころか生存が危ういというのにとても気分がよかった。

目的を達成できる確証はない。
でも、私は自分の考えを信じて行動することでしか今の場所から動くことさえできない。自分が自分の人生の主導権を握っている感覚。
踏み出す足も見える景色もすます耳も、すべてが私の意識のもとに働いていて目の前の世界は生きていた。
私は、ここ十数年で一番自分に責任を持っていたし自分を励ましていたし自分を信じていた。そして一番晴れやかな気持ちだった。

スマホをもっていなかった子どもの頃を思い出した。
覚えたての自転車に乗り限界のスピードにただ挑戦していた。誰もみていないのに、ただ自分は最高速度に到達できる、とひたすらに漕いでいた。だから例え酷く膝と肘を擦りむいて血が出ても、弟さえもがその遊びをやめても挑戦し続けていた。
多分沢山の子どもがやっていたことで、私よりいい自転車に乗っている子が、アクロバティックな動きをできる子が、速い子がいただろう。でも、私の世界では私はぶっちぎりのスピードスターだった。そこに嘘なんかなくて誇りだった。
いつしかスピードスターはいなくなってしまったけど、その時のことを今でもよく覚えているし、何をやってみるのも怖い大人の私を超スピードでぶった切ってくれる。

友達と遊ぶとき「土曜の2時にプールな!」って学校の中で約束して、その時間にその場所に集まった。友達が時間に来なくても遅れている友達をただ待つことができた。遅れるときは友達が自分を待っているからと走った、確信していた。
それが現実になると信じて疑わないでいられるその気持ちがどんなに尊いものか、今ならわかる。

もしかして、今を生きる子どもたちって想像の世界でも羽ばたいたり世界チャンピオンになったりできないのかな。
無条件に自分を信じることさえ、もしかしたらとても難しいことなのかもしれないな。

ただ信じること、ただ信じられることってきっと何より尊い。

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