蓮の花を諦めて
日常の身辺で自分が感じたことを撮影することが多い。自分の感性のアンテナのようにカメラを使っている。自分が感じる光景と出会えると嬉しいが出会えないからといって無理に撮影することはない。
ある日、家から車で10分程度のところで蓮畑を見つけた。お盆に蓮の花を出荷するために管理されているところで、人気もなく、ゆっくりと蓮を見ることができる。
蓮の花を見た瞬間、美しいと思った。心惹かれた。それから幾度かこの蓮畑に通ったが、感じたような写真が撮れない。何が違うと思いながら蓮畑に通った。
自分の写真に違和感があった。自然な感じがしない。
自分で蓮の美しさを勝手に定義して、それに当てはめようとしていた。
無理に写真にしようとしていたのだ。
もっとゆっくりと蓮の花と向かい合い、蓮に動く自分の心を感じないといけないのに、焦ってしまう。それほど、蓮の花は美しい。
あれから3年蓮の花を撮影していない。
昨年自分の心にかなう枯蓮を撮影することができたので、もう満足したのかもしれない。
歳を重ねると咲く花よりも、散る花に心が動く。