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Giveで成り立つ社会

私たちは資本主義経済に生きている。
社会の一員として労働し、その対価を元に消費財を購入し、質の良い生活をする。

時に何か自然に背いているような、違和感を感じる時はないだろうか。

自身の労働が属している組織、社会からの搾取としか思えなくなった時。
当たり前に購入しているその消費財の向こうの人が見えなくなった時。
当たり前に消費する生活によって自分を取り巻く環境にどんな影響が出ているのかを見て見ぬふりをしてしまっていると感じた時。
質の良い生活をすることに固執した時に言いようのない喪失感を感じる時。

ウィズコロナと言われて久しいが、もはや生命に脅かされることから遠のいていた社会に生きていた私たちに改めて生命とは何かを突きつけられる事態に晒されたことで、ふとした違和感がふと急に手触り感のある現実的な課題として降りてくる感覚があった。

資本主義の最大のイノベーション、株式会社の勃興はリスク分散・回避から始まったらしい。そうだ、いつしか、私たちはリスク分散で責任から逃れることで、自分たち自身の「生」まで責任を持つことができなくなったのかもしれない。

野生の森や山を訪れた時の不思議な既視感、偉大な自然との一体感、途上国と言われる国での物乞いを目の当たりにした時の何とも言えない罪悪感・無力感。

私たちはかつては農耕民族として助け合い、贈与し贈与されながら生きてきた。

今でも地方出身者が田舎に帰ったとき感じるむず痒さはここから来ると思う。お節介の関係に息苦しさを感じ、自由を求めて都会に出る話は今でも共感できる話である。

でも何か忘れていないか?自由を求めた先に見えてくる未来はどんなものなのか?

一時的には自らの快楽や富を求めることが生きがいだと思うのかもしれない。でもその先に待っているのは、ギブアンドテイクのテイカーとしての価値観が定着してしまい孤独感や倫理的喪失感に苛まれる未来なのかもしれない。
インセンティブとして働いているのは何をテイクするのかである。

それを何をギブするのか、という起点で考えたらどうなのか。
ギブすること自体がテイクすることにはなり得ないのか。

岐阜の名所、白川郷では今でも「結(ゆい)」と呼ばれる文化が引き継がれている。
厳しい自然の中で伝統的な家々を守るには、相互協力が不可欠だという。大切な暮らしを守るために、互いの家の屋根を葺き替えたり、生活の知恵を共有したりしながら、助け合って生きている。
「結」は、農村社会であった古くから見られる慣行で、そこには書面の契約も貨幣も介在せず、あるのは相互の信頼感と個々の責任感。
これを現代に復活させようという動きがあるらしい。

無責任論者の私は、すぐにこういった風習にむず痒さを感じてしまうのだが、私はそこで責任感よりも、貢献感が大事なのではないかと感じている。

現在、幸福度ランキング低位につけている日本の若者は、自己肯定感が諸外国に比べて低い。(https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/ishiki/h30/pdf/s2-1.pdf)政治参加度が低いのもこれが背景であると指摘する人もいる。

ウェルビーイングは、人と繋がりを感じた時や感謝の言葉をかけられた時、自分が相手に何かをすることで少しでも役に立ったと感じた時感じられる。
「結」の意義は、自分が責任を果たすことで、少しでも相手の役に立った、社会の役に立ったと感じられる暮らしが本質なのではないか。

相手のふとした笑顔を見た瞬間。社会の中での自分という存在を実感する。
ギブし合うことで成り立つ社会。私はそれを目指したい。


(参考)
【深井×鈴木寛】大学入試と高校教育は、ここまで変わった
https://newspicks.com/news/6376097/body/
3分でわかる白川郷/白川郷観光協会
https://shirakawa-go.gr.jp/highlights/
町村長構想/茨城県桜川村長 飯田稔/全国町村会 
https://www.zck.or.jp/site/essay/5365.html
我が国と諸外国の若者の意識に関する調査 (平成30年度)/内閣府https://www8.cao.go.jp/youth/kenkyu/ishiki/h30/pdf/s2-1.pdf

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