名護屋城跡
豊臣秀吉が唐入り(文禄、慶長の役)の拠点として現在の佐賀県に築いた名護屋城。短期間にこれだけ広大な城を築いた秀吉の力を思い知らされます。現在は天守閣跡や石垣が残っています。また、名護屋城及び唐入りの歴史的位置付けをどう捉えるか、微妙というか、難しいテーマで、論評も余りされていないように思います。其れもあってかこのお城をご存知ない方も多いように思います。先ず、目的は朝鮮征伐でなく明国を攻めるための出兵です。動機は秀吉の野望も有ったとは思いますが、当時のスペイン、ポルトガルによる明国の植民地化、そして、次の標的日本を守る、という目的は余り語られていません。当時の明国の人口は日本より少なかったという説もあります。
有名な秀吉の1587年伴天連追放令も原文(一部抜粋、大意)では「(大名などよりも)下の身分の者が思いのままにキリスト教徒になることについては八宗九宗と同じで問題にならない。」「 中国、南蛮、朝鮮半島に日本人を売ることはけしからんことである。そこで、日本では人の売買を禁止する」とあり、信仰の自由は許し、日本人の奴隷売買を咎めています。キリスト教の禁止ではなく、ポルトガル、スペインの宣教師(伴天連)は出ていけ、というだけの話です。
唐入りに関しては、当時破竹の勢いの豊臣秀吉による唐入りは、必勝間違いなし、と思われていて徳川家康を敢えて連れて行かなかったのでは無いでしょうか。それが結果が伴わず、思いがけず、徳川に政権が転がり込んできた、というのが本当の所では無いでしょうか。
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