akira_fujino

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名護屋城跡

豊臣秀吉が唐入り(文禄、慶長の役)の拠点として現在の佐賀県に築いた名護屋城。短期間にこれだけ広大な城を築いた秀吉の力を思い知らされます。現在は天守閣跡や石垣が残っています。また、名護屋城及び唐入りの歴史的位置付けをどう捉えるか、微妙というか、難しいテーマで、論評も余りされていないように思います。其れもあってかこのお城をご存知ない方も多いように思います。先ず、目的は朝鮮征伐でなく明国を攻めるための出兵です。動機は秀吉の野望も有ったとは思いますが、当時のスペイン、ポルトガルによる

    • 119代光格天皇と皇位継承問題

      写真は天明の大飢饉(1783-1788)に困窮した民衆が、幕府は頼りにならないと京都御所にお参りする天明七年(1787)の御所御千度参りの絵です。最初は10-20名だったものが、同年6月11日には5万人あまりに膨れ上がり、光格天皇を神に見立て神社の様に御所に賽銭を投げ入れる者が跡を絶たなかったそうです。御所からも切飯、お茶、りんご3万個がふるまわれたといいます。 この御千度参りの結末は光格天皇が幕府に蔵にある米を出すように要請し、それを幕府が受入れ、天皇は政治介入してはならな

      • 何故、帰化人は渡来人と言われる様になったのか。

        現在、2022年1月ですが、大体50歳以上の方は、古代日本に朝鮮半島から日本に来た人々の事を帰化人と教わり、その後、渡来人と呼ばれるようになったのを覚えておられる方が多いのでないでしょうか。 そもそも帰化とは、中華思想に王の支配や文化が及ぶ地域を化内(けない)、及ばない地域を化外(ケガイ)と呼び、化外から王の支配地に自ら望んで王の民となる事を帰化と言いまして、こちらの影響を受け、日本でも使われ始め、律令体制になる頃にはハッキリと帰化という言葉が使われているそうです。現在でも帰

        • 沢山あるぞ東京の史跡⑥切支丹屋敷跡

          2016年にマーティンスコセッシュ監督により映画化された遠藤周作の名作「沈黙」(1966年)。その題材になったのが1708年に屋久島に上陸したイタリア人宣教師シドッチのお話。当時はキリシタン弾圧下にあり江戸に送られたシドッチはキリスト教の棄教(転ぶ、という)を迫られ、激しい拷問を受け抵抗をします。勿論神に祈りますが、神は沈黙を続け、ついに転びます。そして日本人女性と結婚し、この切支丹屋敷跡で日本人として生涯を終えます。シドッチは新井白石とも面会をしており、それをまとめた書が西

        名護屋城跡

          沢山あるぞ東京の史跡⑤九段坂の高燈籠

          東京メトロ九段下駅から九段坂を登ると左手に有名な日本武道館があります。その入り口に立つ巨大燈籠がこれです。 高燈籠(常燈明台)と呼ばれ明治四年に靖国神社(当時は招魂社)の燈籠として設置されました。 高さ16.5m、九段坂の上にありましたので、当時は品川沖からも見え灯台の役割も果たしたそうです。 明治時代に描かれた九段坂に版画にも高燈籠が見えます。 その後大正年間に当時とは道の反対側に移され現在も立ち続けています。 大正年間には九段坂には路面電車が走っていたそうです。 今か

          沢山あるぞ東京の史跡⑤九段坂の高燈籠

          沢山あるぞ東京の史跡④大手町将門塚

          大手町に佇む平将門の首塚と言われる将門(ショウモン)塚。2021年4月に周辺はリニューアルされてます。桓武平氏と言われるように桓武天皇の五代後が平将門です。平将門の乱は935年ですが現代の大手町に首塚が残っているのは奇跡的です。 時折り前を通るとお参りしている方を見かけます。東京に来た際にはちょっと寄り道してお参りしても良いんじゃないでしょうか。 #歴史 #日本史

          沢山あるぞ東京の史跡④大手町将門塚

          沢山あるぞ東京の史跡③

          九段坂を登ると見えてくる靖国神社の大鳥居。それをくぐると明治維新十傑の一人、大村益次郎の銅像が見えて来ます。 この銅像の製作者は彫刻師大熊氏廣ですが、製作に当たってわざわざ彫刻研究のため欧州留学して我が国初の西洋式銅像として製作されました。 なんで大村益次郎かというと彼が東京招魂社(現、靖国神社)の用地選定に関わり同地を訪れたと言う記録も見え靖国神社創建に貢献したというのが背景にあるそうです。 建立されたのが明治26年で100年以上経っていますが、左手に双眼鏡を持ち、上野に立

          沢山あるぞ東京の史跡③

          沢山あるぞ東京の史跡②桜田門

          1860年大老井伊直弼が水戸藩浪士により江戸城桜田門で殺害された、という日本史上有名な桜田門外の変。 桜田門は現在誰でも通れまして皇居ランナーも大勢走っています。 実は、当時この桜田門は外桜田門と呼ばれておりまして、 「外桜田門外の変」と言えなくも有りません。 有楽町駅から徒歩10分位です。散歩がてら行ってみましょう。 #日本史 #幕末 #皇居

          沢山あるぞ東京の史跡②桜田門

          坂本龍馬と近江商人

          近江商人という言葉は知っている方も多いでしょう。三方よしを旨とし、天秤棒を担いで行商に出ているイメージです。 近江の物産を関東東北で売り、関東の物産を京都で売ります。売り手と買い手と地域社会の発展に貢献すると言う三方よしを旨としました。 近江商人の中でも五個荘、日野、八幡出身が多くそれぞれ活動範囲や取り扱い商品が異なりました。 意外と知られていないのが、函館、小樽、札幌は近江商人によって開かれたといっても過言では無いそうです。近江商人によってもたらされたニシン、鱈、昆布

          坂本龍馬と近江商人

          和気清麻呂を知ってますか?

          毎日毎日皇居ランナーが行き交う気象庁前にある和気清麻呂像。769年称徳天皇が道鏡を天皇にしようと画策したのに対し、宇佐八幡宮から神託を持ち帰り道鏡の天皇即位を防いだのが宇佐八幡宮神託事件 その後和気清麻呂は、称徳天皇に大隈国に流されますが、称徳天皇崩御後、京に復帰し、桓武天皇に長岡京から平安京への遷都を進言したのは和気清麻呂と言われています。 #日本史 #歴史 

          和気清麻呂を知ってますか?

          勘合貿易と島津氏、そして幕末へ

          勘合貿易とは三代足利将軍、義満の時代に始まった、というのはご存知の方も多いでしょう。またその後の応仁の乱では、堺商人の利益代表が細川氏、博多商人の利益代表が大内氏で貿易の利権を争って戦った、と言う所までは知ってる方も少なからずいらっしゃると思います。 さて、勘合貿易に薩摩の島津氏が関わっていた、と云うのは殆ど知られていないと思います。勘合貿易は当初、京都から瀬戸内海、博多、五島を経由し明に向かっていましたが、大内氏との対立で瀬戸内海ルートを使えなくなった細川氏が、高知沖から薩

          勘合貿易と島津氏、そして幕末へ

          沢山あるぞ東京の史跡①1878年紀尾井坂の変

          ここは赤坂見附にあるホテルニューオータニ のすぐ目の前にある清水谷公園です。明治11年(1878年)維新三傑の一人、大久保利通が暗殺された場所で、この大きな哀悼の石碑が立っています。この石碑が建てられたのは1888年で、既に130年以上が経過してます。東京にお住まいの方ならこの辺りを通った事はあると思いますが、意外とこの石碑を見た方は少ないのではないでしょうか?近くを通ったら行ってみましょう。 #歴史#日本史#幕末#鹿児島

          沢山あるぞ東京の史跡①1878年紀尾井坂の変

          日比谷門跡

          東京の日比谷公園のこの辺りは、伊達政宗終焉の地でもあります。

          日比谷門跡

          何故会津藩は京都守護職なのか

          戊辰戦争の悲劇とも言える会津戦争。 そもそも何故会津藩松平容保が京都守護職なのででしょうか。京都守護職でなければ悲劇は起きなかったかも知れません。 その起源は桜田門外ノ変(1860年)にあります。変後、容保は水戸藩への融和政策を進言し、水戸藩との調停に努めました。これが将軍家茂から評価され、京都守護職への抜擢につながるのです。その後の公武合体政策の建議など、容保の幕府での発言力は増していきました。 しかし、1866年、薩長同盟の成立、将軍家茂の死去、第二次長州征伐の失敗、孝明

          何故会津藩は京都守護職なのか

          何故肥前は幕末の雄藩なのか

          幕末の雄藩は「薩長土肥」とよく言われますが、何故、肥前(現在の佐賀県)なのでしょうか。 きっかけは1808年のフェートン号事件です。 フェートン号事件は、ナポレオン戦争で、オランダ船拿捕をミッションとしたイギリス戦艦フェートン号が長崎港に入港した事件です。経過は省略しますが、結果長崎奉行の佐賀藩松平康英は切腹、藩主鍋島斉直は逼塞処分に追い込まれました。 以降佐賀藩主、斉直の息子鍋島閑叟は洋式軍備強化に取り組み、戊辰戦争で活躍したアームストロング砲の開発に漕ぎ着け、戊辰戦争を勝

          何故肥前は幕末の雄藩なのか

          福岡藩は何故維新に乗り遅れたのか

          福岡藩は佐賀藩と同様に長崎警護を担当し、1852年事前に黒船来航の情報を得ていたが、財政的な理由から洋式軍事技術導入に消極的であり佐賀藩と対照的な意思決定下した。又、第一次長州征伐後、高杉晋作を説得し太宰府に五卿を庇護するという見事な調整役を果たした福岡藩であるが、長州寄りの尊攘派を弾圧、処刑し、これを以て維新の表舞台から降りたのである。

          福岡藩は何故維新に乗り遅れたのか