実名を晒す時は。
筒井康隆の言葉であれば僕は、きちんと真剣に向き合うのだ。いや、誰の言葉であっても真剣に向き合うことを僕は常々心掛けているのだけど、氏のそれについては別格だ。
実際に、自身の作中の表現を巡りてんかん協会とのやりとりの末に出版社らの姿勢に不信感を抱き断筆宣言までして最終的に表現の自由を勝ち取った彼が言う、「表現の自由」と「匿名による表現への疑念」の言葉は大変に重い。
1993年9月に断筆宣言、そして翌1994年の4月にはメルクマールとも言える「筒井康隆断筆祭」が行われ、氏が再び筆を握ることになったのは1996年だ。
再び作品を発表するようになった氏に対し「なんだ、また書き始めたのか」とヤッカミ交じりの所感を抱いた当時の僕だが、苦渋の決断の後からの3年間に氏が抱いた様々な心象に思いを馳せることもできなければ、そんな感想を持った人々も多かっただろう。場合によってはそのまま本当に、筆を折りっぱなしでも本人は構わなかったはずだ。
そんな筒井氏が、今はTiwtterを全く見ていないと言う。あの、表現の自由の荒野とも言えるツイッターランドをだ。ましてや、匿名性を排除せよと言う。
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インターネットから匿名性を排除せよ、という意見に対しては、こうしてペンネームで書いた文をオンラインで公開している僕としては極超絶大反対表明をせざるを得ない。
かわいそうランキング最下位の独身おっさん「さすらい狼」のミームをインターネットに遺したいがためこれを書いている僕だが、僕の実生活を知る人々に、僕がオンラインでこんな文を垂れ流しているということは知られたくない。なにより僕は、これによるゼニカネを頂いていないのだ。リスクマネジメントのバランスがとれない。
そもそも、作家だってペンネームを使う。その理由をとやかくと責め苛んだり、ペンネームでなく実名で書けと言う人はまず聞かない。ならば、作家ではない市井がペンネームで意見表明をすることも、本来ならば問われるものではないはずだ。
冒頭で紹介の記事中、氏は言う。
ツイッターランドに限らず、例えば氏が「朝のガスパール」という、署名を必要とした意見公募を基に話が展開するという作品を手掛けた際も、投稿される言葉が過激になる傾向があったという。
僕も以前に少しnoteで記したが、相手の反応がリアルタイムではないメディアでの意思疎通は、自分の意図が相手に理解されたかどうかを知りたい、という欲求が過大に膨らむ。おそらく、常にコミュニケーションの根底に横たわる不確実性や不安が、非リアルタイムなメディアでは余計に刺激されるのだろう。
では、そんなメディア上で、相手を否定する意識・気持ちが伝わったことを確認したいと思ったら、どうすればいいか?───そう、相手がアカウントを消す、社会的立場を失う、あるいは死ぬまで追い詰めれば、確証を得られる。
TV番組「テラスハウス」へ出演したことが契機と思われる、プロレスラー木村花さんの自殺は、社会に大きな衝撃を与えた。その大きな要因のひとつに、匿名性SNSつまりツイッターランドで1日100件にも及ぶ誹謗中傷が寄せられたことが挙げられている。
聞けば、彼女の自殺が伝わると同時に、彼女への誹謗中傷を行ったツイートを慌てて削除するアカウントが多数あったそうだ。さもありなん、今でも、匿名であれど誹謗中傷をすれば身元を突き止められ罪に問われる場合があることを、みなわかっているのだ。
「そんなつもりはなかった」ではない、「そんなことになっても構わなかったが自分が罪に問われるのはイヤだ」となぜ正直に言わないのか。
死ね死ねと思いながらTwitterで彼女への罵倒を繰り返し、果てに相手が本当に死んだと知った瞬間には喝采を挙げたのだろう?
それがヒトだ、という諦観もあり、それでこそヒトだという好意もある。
だから、そんなのはヒトではないという"断罪"には僕は抗うし、筒井康隆氏にもまだ強く抗って欲しいとも思う。
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しかし、非匿名=実名と、短絡で解釈するものでもないだろう。
様々なサービスでも既に似たことが行われているが例えば、公的な署名システムを作り、Twitterやブログなどで投稿する際にはそのシステムに参照をする、という仕組みだ。利用者はシステム中で複数のペンネームを保持でき、あちこちで使い分けることもできるが、権利を持つ者が参照すれば紐付きの本人情報に容易にたどり着ける。
これであれば、表向きには匿名を維持しつつ、本人にはその匿名が自身そのものの情報を示すという事実を認めざるを得なくなる。必然、カジュアルに人の死を望むような投稿は減るはずだ。
カジュアルに人の死を望みたいなら、小説を書け。
小説内なら、いくらでもカジュアルに人を殺し放題、犯罪し放題だ。差別だってできる。なんなら世界征服をし酒池肉林、全ての人民を豚扱いもできるのだ。
もちろん、その作品が人々に認められるかは別問題。作品を読んで傷ついたという人々にも向き合う必要が出るだろう。もし現実を基に構築した話であれば、名誉棄損などの訴訟にも発展する可能性はある。だが原則、小説の中なら思う存分、誰にも気兼ねする事なく自身を解放できる。
表現の自由とは、ガス抜きでもある。鬱屈した思い、渇望する願い、世界への冷笑、腹の底から湧き上がる憤怒、そういった心を表現により解き放つ。だから、表現の自由が奪われた世界では、それらの心はいずれ社会に向けて放つしかなくなる。
この先もまだ、日本が匿名での表現が自由にできる社会であって欲しい、と僕は思う。
長らく報道機関や出版業界、各種マスメディアが牛耳っていた「表現の自由」を、インターネットという技術により、ようやっと僕らがその手に握ったのだ。しかも月々数百円~数千円の通信費という超ローコストで、だ。
ただ、そのカジュアル性が、カジュアルな誹謗中傷を産み出している要因のひとつであるのは皮肉だが……
……うん、僕もいつかは、小説を書かないとならない。
フェミニストやポリコレラー、右翼左翼傍観主義者政治家神父学校の先生その他大勢の実直な生活者らが、みな泡を吹いて倒れそうなモノを書きたい。
そういうのが書けたら、やっと「ミームを遺せた」と言えるかもしれないし、その時は実名を晒そう。(´・ω・`)
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