オーケストラの想い出

小学校にはオーケストラがあった。

女性のとても元気な先生が教えてくださっていた。

毎朝7:50から、放課後は毎夕18:00まで練習があった。土日も、夏休みも、冬休みも。コンクール前には夜中まで練習が及ぶこともあった。学校の授業はオーケストラのついでに行っていたようなものだった。
今はもう時代が変わったから、小学校でこのような活動はできないだろう。

そのオーケストラの存在に対して、いろんな事を部外者が言っていた。すばらしい演奏だと誉められることもあれば、指導が独特過ぎるナとか、練習時間がクラブの範疇を超えているとか。
しかし本来なら鼻水たらして校庭で鬼ごっこをしているはずの10歳のこどもたちを、たった一ヶ月でステージにのっけるのだから、余程の練習をしないといけないわけで。はじめは満足に楽譜を読めない子どもばかりだった。なのでまず、パート譜にえんぴつで階名を書きこみ、歌うことができてから初めて楽器を奏でるという練習方法であった。
そのやり方は、【本物の】クラシックをやっている人の目には奇妙に映ったかもしれない。そうでなくても、マーチングバンド、地域の祭、公会堂の記念式典、パーシモンホールの落成式、虎ノ門ホールでのこども音楽コンクールや管楽器演奏会、NHK教育テレビなどに年がら年中出演するから目立つ。出る杭は打たれるって言うことか。

いろんなことを言われながらも、67名のこどもたちは、青春というにはまだ早い「なにかいいもの」がそこにあったから、毎日練習しに体育館に集まった。
過酷な練習についていった者だけが見られる景色はどんなものだったのだろうか。

それは、奏でられるオーケストラの音の層が【人間の営みそのものにも、森羅万象にも感じられる】経験や、行ったこともない【ロシアのキエフの大門をなぜだか容易に想像】できたりとかいうこともあった。
こんなにすばらしい経験をしてはいたが、こどもたちは長じて音楽家になることはほぼなく、そもそもそう簡単にはなれないものと皆判っていた。(中学校で音楽の部活に入ったものは数えるほどしかいなかった。)
しかし11才前後のこどもが自分達のオーケストラが奏でる音から【フィンランドの民が抑圧されてきた苦しく重い歴史】などを自然に感じ取れるようになるという経験は、その後の人生を豊かに彩っていくことに他ならない。

年に一度のコンクールの前日は、先生も指導に熱が入り、遅くまで練習が行われた。体育館の回りには迎えに来た親が人だかりを作っていた。「うちの大事な娘をこんな時間までクラブ活動で残して・・・💢」という顔で最初は戸口に立っているのだが・・・。オーケストラの本番前夜の合わせは、相当に張りつめた雰囲気のなか行われていた。先生の怒号が飛び、ミスをおかしても涙を流すことさえ許されない緊迫感が場を支配していた。先生も厳しかったが、パートリーダー達もそれを受け止めるだけの根性と厳しさを持っていた。下級生の私たちもそれを受けて、ただのガキんちょから、やるときはやるガキんちょへ、一皮剥けたのではないかと思う。
親達が遠巻きに見守るなか、何度も同じ小節からやり直しのタクトが振られる。時計の針が22時を廻り、最後の一回が通しで演奏された。
12歳の少年が奏でるトランペットのファンファーレの輝かしさに、(親父達の)少年の日の思い出に強く訴えかけてくる哀愁漂うオーボエのソロに、鬼気迫る第1ヴァイオリンの旋律に、腹の底に響くユーフォニウムやコントラバスの重低音に、雷鳴のようなティンパニの連打に、呑まれた保護者たちは、誰も演奏を中断させるようなことはしなかった。
お腹が空きすぎると人はケンタッキー・フライドチキンのような匂いを幻覚(嗅?)のように感じるのもこのころ知った。今考えると飢えてるのでは?ヤバイのではないか(笑)。



ある年、すぎやまこういち先生が我々の目黒公会堂のコンサートに来てくださることになった。現役の小学生にOBを加えたメンバーで(私はその時は高校生なのでOG)『ドラゴンクエストⅢメドレー』を演奏した。
はじめは楽譜も読めない者も多かったと先述したが、その一方でオーケストラを卒業後、音大へ進みプロの演奏家になった者も少数ながらいた。彼らが柱となり、ドラゴンクエスト序曲が厳かに奏でられ始めた。トランペットのファンファーレは格好いいので、 男子の間で取り合いだった。王宮のロンド・・・歴代コンミスの中でも抜群にヴァイオリンが上手な女の子がソロの旋律を奏で、皆うっとりと心酔した。またとりわけ昭和50年代生まれのOB達のドラクエへの熱の入りようったらなかった。演奏は急にうまくなったりしないのだが、かつて少年だった者達の「あこがれ」が集まり、なんか良い演奏をしたんだと思う。
我々は憧憬の思いと共にアリアハンの城下町で身支度を整え、天空を飛び、幽霊船に震えた。最後の『そして伝説へ・・・』のメロディを奏でていると、懐かしさに鼻の奥がツンとした。小学生の私が、毎週お昼の放送の導入で流していたのは、まさにこの曲だったな、と演奏しながら、今さら思い出すのであった。

そんな演奏者の方が感極まったドラゴンクエストを、客席の真ん中で ニコニコとすぎやまこういち先生が聴いてくださっていた。椅子に深くもたれず背筋を伸ばして耳を傾けている様子が印象に残っている。

最後にOBオケの団長Sくんが、色紙を握りしめて、すぎやま先生にサインをお願いした。いつもひょうきんな彼が、襟を正して何度も深くお辞儀をし、先生の手を包み込んで握手をしていた。少年時代の思い出の象徴である『ドラゴンクエスト』を作ったその人が目の前にいるということに、だれもが感激していた。

それから二十年以上の月日が経った。

オーケストラの目標は3つ【気付くこと・はっきりしていること・優しい子であること】であった。果たして私はそんな人になれただろうか。


母校の周りには、もう知り合いは誰も住んでいない。転勤族の家庭ばかりの地域なので、一緒に居たのはオーケストラをやっていた、あの2年だけなのだ。

大人になっても、未だに夢に見ることがある。
忘れ得ぬハーモニー。全然上達しないヴァイオリン。顎あてに溜まる汗の水溜まり。黄金の痣。蛍光ペンで彩られたスコア。
水色と白のペンキで塗り分けられた、少し古ぼけた大きな体育館。
窓から見える白樺の樹がいつも風にのって流れてくる音楽の調べを聴いていたかのようだったこと。
青春というにはまだ早い、今となってはおとぎ話のような、わたしたちの想い出である。

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