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#46 2020

 色々ありすぎた一年だった。忘れないとは思うが、忘れないように書き残しておく。


 世界が、そして日本が、このような状況になったのはいつからだったのか、覚えていない。三月の初めの段階では普通に旅行に行っていたし、カメラロールを見ると四月の上旬頃まではまだまだ異国の物語くらいで、五月にはもう既に、という感じだった。


 僕にとって去年の日々のほとんどは、普通を目指して過ごしていたように今は思う。誰しも損はしたくないもので、それでも楽して手に入る得は少なく、リスクのある得よりは、つまらない普通を求めてしまうのではないだろうか。「得」というと金銭的であったり、策略的であったりするようなイメージがあるので、「ハッピー」という言葉に変えると、アンハッピーは嫌だけど、無理をしてまでハッピーにはなりたくなくて、まあ結局普通でいいかな、みたいな。何でもない日の連続を「普通」と思うことができて、普通に過ごせることは一番幸せなんですけどね。

 多くの人が言っているように、普通の有り難みが分かった一年でもあったのかもしれない。かもしれない、というのは僕がこの一年無頓着に生きすぎていて、大きな事件も、イベントも変化も、あまり覚えていないからである。家から出られなかったり、楽しみにしていたライブは中止になったり、というのはあったけど、それは自分に限ったことではないし、みんな同じだよね、というほとんど諦めで、だからそこまで「普通」に対する感謝の気持ちはなかったように思える。「普通」に甘えすぎでしょうか。

 なんてことは置いておいて、普通の有り難みが分かったのは、この分からない世界において何かを分かりたかったから、何かを手にしたかったからかなとも思った。お金や労働など、それなりの対価を支払ったものに対しては何か見返りがないと損になってしまう。ほとんどの場合、結果的に自分にとってハッピーになる要素が見込めるから、物凄く当たり前かもしれないけど、支払いが成り立つのである。そこにもしハッピーな見返りがなかった場合、例えば高いお金を払ったのに食事が美味しくなかったり、目的地に向かっている途中で予定がなくなったり、した時は「経験」や「運命」のような曖昧なものに変換させ、その瞬間はどうにか見返りを手にし、見かけ上はハッピーな状態にする。でないと、やっていけない。

 アンハッピーな状況で始まった去年は今まで普通に過ごしてきた「普通」を求めて必死に生きた。「必死に」なんて大袈裟かもしれないけど、紛れもなく「必死に」だった。周りの人よりも幸福を求めて、少しでも幸福な状況でありたくて、多くの人が、買ったもの、行った場所、食べたもの、観たもの、読んだもの、恋人のこと、友人のこと、家族のこと、をシェアする。SNSを使用していく中で、以前までは興味のある人の投稿以外は何も考えずに流し見していたが、色々と制限された環境においては一つ一つの投稿が羨ましくもあり、負けたくないような気もするし、腹立たしい気持ちさえした。いかに「普通」に過ごしているのかを見せつけられているようで、だから自分も、必死に普通を目指して過ごしていた。


 悲しい世の中はもっと悲しいニュースで溢れた。今まで凄く身近な人の死に直面したことがないので、死んでいくことにあまり実感がないというか、まだ当分生きているような自信もあるし、死んだらどうなるのかというワクワクがないわけでもない。ただ、それは死んでしまいたいということとは違う。生きて、生きて、生きた、その結果に待つ「死」を指している。マックのポテトだって何回も食べたいし、「LA LA LAND」は何回も観たい。「ONE PIECE」がどうやって終わるのかも気になるし、最近買った木瓜の花が咲くところを見たい。大きな夢や目標もそうだけど、すぐ手が届きそうな欲望、願望こそが「生きていたい」という気持ちを強くさせると思う。それでも自ら死を選ぶ人もいる。僕はおそらく死にたいと思ったことはないので、その人たちの気持ちは分からないだろう。どんなに分かろうとしても、ずっとずっと続く暗闇を手探りで進むような、そんな気持ちになるだろう。芸能人の訃報に対して、人の死とはいえども違う世界の話のようで、あまり考えることはなかったが、去年はどうしたって考えずにはいられなかった。特に、好きでよく聴いていたバンドの方が亡くなった時には、心臓からゆっくりと濡れていくような、そんな怖さがあった。悲しみや驚きよりも怖さが勝ったのは、表舞台に立つ芸能人も僕らと同じように人間で、どういった理由かは僕なんかに分かるはずもないが、きっかけさえあれば自分を守ろうとする本能さえも超えてしまうということに、しっかりと気づかされたからだと思う。本当はみんな弱くて脆いのに、強がっているだけなんだろうな。

 自ら死を選ぶことは決してしてはならない。本当にどうしようもない僕が言えるようなことではないが、逃げたくなっても、強がって、強くなっていかないといけないのだろう。半歩先くらいに楽しいことを考えて生きていこう。生きていくためであれば、自分より下の人間を見て心の中で、安心したり、時には馬鹿にしたりするのもありだと思う。無理して綺麗に生きる必要はないし、実はみんなそうして生きている、のではないだろうか。分からないが。


 この忘れ難い2020年をどうにか生き抜いた僕たちは、きっと少しは強くなっているだろう。こうしてパソコンに向かって文章を書くことは容易いので、どこまでが僕の心からの気持ちで、どこまでが誰かに見せる用に取り繕った言葉かの区別がつかず、怖くなることもあるけど、きっと本当の僕は、ハッピーという言葉では支えきれないほどの幸せが、それがどんなに小さいものでも、みんなに訪れたらいいなと思っているに違いない。普通が幸せだと感じなくなるくらい普通になればいいと思っているに違いない。

 ただ、確かなのは、人の幸せを願うよりも前に、誰よりも自分の幸せを願っているということ。これからもそうして生きていこうと思う。まずは自分、そして誰かを。

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