#47 忍者になれる

 壁が薄い。耳を澄ますと笑い声やテレビの音が聞こえてくる。右の部屋も、左の部屋も女の人が住んでいる。


 見たわけではないけど、確かに女の人の声がするのだから女の人が住んでいるんだと思う。知らずに入居して、知ってしまったその時から生活に緊張してしまう。アパートの近くには専門学校が多いらしく、通話と思しき声や、なんとなくの寝る時間からおそらく学生であろうということも、おそらく分かった。

 お風呂に入ることも、ゲームをすることも、窓を開けることも、歩くことも、座ることも、寝ることにも音が鳴る。何が聞こえていて、何が聞こえていないのかは分からないが、あまり聞こえていて欲しくない。周りを、常識を気にせずに暮らすガサツな男が、隣に住んでいると思われたくないからだ。こちらに聞こえる分には良いけど、こちらから聞こえるのは嫌だ。性別がどうこうではなくて、たとえ男の人の生活の音が聞こえても、聞こえる分には良い。ただ、女の人の生活の音の方が男の人に比べると多少不快さがなく、許せるというのは事実ではあるが、男女関係なく、聞こえてくる分にはいいのだ。僭越ながらここで、左右に住んでいる(おそらく)女の人を、聞こえてくる音から判断して紹介したいと思う。


 右の人

 右に暮らしている女の人はよく誰かと電話をしている。声の高さや、話しているテンションから、おそらく歳の近い学生だろう。前に二、三度程、部屋から男の人の声も聞こえたので、その男の人は彼氏なんだろうなと思った。基本的に笑い声ばかりでその他の音は聞こえてこない。たまにテレビの音、たまにコンセントを挿す音。たまに壁をゴンとされるが、それは…?


 左の人

 左に暮らしている女の人もまた誰かと電話をしている声が聞こえることが多い。女の人は電話をするのが好きなのだろうか。それとも僕がほとんど電話をしないだけなのだろうか。僕の部屋のお風呂とトイレは左側にあるのだが、おそらく壁を軸にして対称になっているので、左の部屋のお風呂とトイレは僕の部屋側にある。そのため、水を流す音やお風呂のドアが開けられる音が聞こえることが多い(勘違いしないで欲しいのは、聞こうとしているわけではなく、聞こえてくるということなのだが、いくら説明しても実際にこの部屋で過ごすこと以外には証明できないので、諦める)。これまた変態チックに思われてしまいそうだが、おそらくベッドの位置も隔てている壁の近くにあるのだろう、深夜に寝ようと目を瞑っていると、隣からいびきらしき音が聞こえてきたことがある。女の人もいびきをかくんだと思った。


 これほどまでに左右の音が聞こえてくるのは、聞こうとしているのではなく、静かに生活しようという気持ちがあるからだと思う。僕自身、無音で生きることに気を使っているようで、実は大きな音を発してしまう方がストレスになるので、今のところは健康に過ごせている。うっかりモノを落としてしまった時、イヤホンで分からなかったけど予想以上に大きな声を出していた時、そして、注意勧告なのか壁に何かが当たってしまったのか、ドン! という大きな音が隣から鳴る時、僕はたった一人の広くも極端に狭くもないこの部屋でキュウウウウウと縮こまってしまい、居心地が悪くなる。「隣に人住んでるの? いないんじゃね?」が理想ではあるが、まだまだ修行が足りていない。


 ピンポーンの音は意外と大きいし、はいはい、もう分かってるから、から二回は鳴る。うるさくて長い。宅配便を注文した覚えがなければ基本的に居留守を使ってしまうのだけれど、それでもドアのあの小さい穴から確認するまでは、もしかしたら、があるのでゆっくりと玄関に向かう。スリッパに、足をいっぱいに貼り付け、踵から爪先にかけてぺったりと足を床に乗せる。

 ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。ぺったり。その十歩が長い。し、うるさい。居留守を使おうとしている人間が、家の中にいてはいけない。留守でなくてはならないので、慎重に玄関に近づき、悪いことをしているようにあの穴を覗く。緊張して覗く頃には、ほとんどいなくなっていることが多い。

 『全日本忍者大会 抜き足差し足忍び足部門』があれば一位になると思う。このドアの前にいる人には、それが勧誘だろうが重要な連絡であろうが、どうか僕の生き方を許して欲しい。音を出したくないのだ。堪忍ニンニン。

 これが言いたかったから、ではない。将来は爆音で音楽を聴けるような部屋に住みたい。常にリモコンを握って、音の大きさに合わせて大小をいじらなくていいような部屋に住みたい。でも、緊張しながら聴く音楽も、観る映画も、そんなに悪くない。むしろ、このひっそり感を楽しんでいるのかもしれない。

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