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3828→6383 前編

はじめに

ご無沙汰しております、渡辺颯介です。先日陸上競技及び十種競技を引退したので自分が十種競技を通して、陸上競技を行って感じた事を長々書いてみます。もはや自分が後から思い出せるようにする事が一番の目的ですがぜひ読んでみてください。

上から4番目記録は3828点

私が初めて十種競技をしたのは2016/11/5でした。
ここから全てが始まりました。

高校編

高校一年生の冬、陸上競技を初めて7ヶ月ほど経つ頃に東京大学記録会で十種競技に出場しました。混成競技の高校規格は八種競技ですが、埼玉県で八種競技が出来る記録会が無かったので東京大学記録会に参加しました。

結果として110mHが記録なしの為、九種目で3828点という記録になりました。記録だけを見ると特筆して輝かしい物ではありません。トップレベルの十種競技者であれば一日目の五種目で到達するような記録です。

しかし、渡辺少年は棒高跳びで2mをクリア出来た事、いくつかの種目では自分より身体の大きい大学生よりも良い記録が出せた事などによって非常に満足した二日間を過ごしました。合計点数なんて気にしてません、一つ一つの種目が楽しく、ワクワクに包まれていました。自分自身の無限大の可能性を信じて十種競技をやり切りました。

2016年 東大記録会

高校時代には計5回十種競技に出場しました。4回目の十種競技は高校三年生の埼玉県選手権で5489点を記録しました。大学生や社会人がいる中で高校生ながら二位となり関東選手権に出場することができました。ちなみに八種競技は高校三年時に行われた北関東大会での4981点・4位が最高成績となりました。混成競技では3位までがインターハイに出場できます。

2018年 北関東

八月に行われた関東選手権で高校陸上を引退し、大学受験に向けて勉強しました。志望校は立教・早稲田・順天堂・東海の四つで特にセンターの対策と立教と早稲田の赤本を解いてました。八月までろくに勉強せず、なんならAO入試の結果が出る十月まで勉強に身が入らなかったお陰でセンター方式・一般入試において不合格、唯一の合格は東海大学の競技スポーツ学科でした。(センター得点率は3科目で77%という微妙な結果)

志望校の一つである東海大学に合格できた事、他の大学に入学するために留年するのではなく、東海大学へ進学し十種競技が出来た事は私の陸上競技生活及び人生におけるベストな選択だったと考えます。

大学編

私の大学陸上競技の目標は全国大会出場でした。高校から陸上競技を始めて二年と四ヶ月しか経ってない、種目の多い混成競技、大学からは二種目増える。これらを考え、自分の可能性を信じて高校時代に叶えられなかった全国大会への出場を果たすべく大学生活がスタートしました。

大学一年生 関東新人出場…?

大学一年生の目標は関東新人に出場する事でした。関東新人は5800点以上の記録保持者12人で行われます。5/4に行われた国士舘記録会では5067点と高校生の時より約400点下回る結果になってしまいました。それもそのはずです。部活を引退してから入学するまでは一度も競技場での練習をせずに受験勉強と最後の高校生活を楽しんでいました。また、記録が出ない事ももちろんですが思い通りに動かない身体・周りの大学生と比べて体格的に劣っているといったような事が悔しさと焦りに繋がりました。

そこからシーズン最後の試合までは基礎体力を取り戻す事、新たに増えた棒高跳びと円盤投げを重点的に練習しました。特に棒高跳びの記録が伸びたこともあり秋頃には関東新人の標準記録である5800点を突破することができました。残念ながら上位12人の記録では無かったので出場できませんでしたが、10/19に行われた国士舘大学での試合で再びベストを更新して充実した大学一年生のシーズンを送る事ができました。来年さらに自己ベストを更新するためにも冬季練習へのやる気も十分にありました。

2019 国士舘大学combined challenge


大学二年生 絶対ベスト出る!のに。。。

大学二年生の目標は関東インカレの標準記録6300点を切ることでした。あと300点は冬季練習でのベースの底上げと春先で向上した基礎体力に伴って各種目の技術力の洗練をすれば達成できると感じていました。
三月までは、、、

過去の記事にもありますが、新型コロナウイルスが流行しました。それに伴って大会が中止になり、部活動が解散になってしまいました。約四ヶ月間は各自で練習する形になりました。
ここで大会のない、ウエイトが持てない、技術練習のできない、陸上競技に飽きてしまいました。もちろん運動は続けていたのですが、暇すぎて買ったスケートボードで右足首をかなり重めに捻挫してしまいました。

今でも覚えているのですが、捻挫した直後その場にうずくまるほどの痛みでこの先陸上競技なんてできる気がしませんでした。歩くだけで痛みが出て、全力疾走なんてもってのほかでした。
自分で調べてリハビリをして、痛みが引いてきたタイミングで家の近くの競技場が使えるようになりました。最初はジョグ程度でも痛みがありましたが徐々に強度を上げていき、ケアとリハビリを続けたおかげか痛みはなくなりました。
足首に負荷がかからない程度にフリーウエイトをしては競技場で走る日々でした。

延期されて10月に行われた埼玉県選手権では100mの自己ベスト(高校2年生ぶり)をはじめとして4種目でベストを出す事ができました。(二日目に棒高跳びでNMをかましました)
そして10/31に行われた国士舘記録会で6118点の自己ベストを出せました。
冬季練習と個人練習で基礎体力の向上を重きにおいて実施できたおかげで練習量が減ったり、怪我をしても記録は伸ばす事ができました。

2020 国士舘大学combined challenge



大学三年生 どんどん悪くなっていく記録

この年は自分の甘さがでた一年だと考えます。

陸上競技を始めてから「怪我せずに正しい練習を積むこと」で絶対にベストが出ると信じきってました。練習してもベストが出ないなんて事は考えられず、今までベストを出して来た自分のやり方を盲信的に信じてました。

こう考えるのは陸上競技の競技特性が強く関係していると思います。陸上競技は個人種目であり、かつ非接触のスポーツです。つまり記録に関係する要因に仲間や相手が与える影響が少ないです。特に十種競技は試合を行う中で出場選手との関わり方が特殊で、試合中に励まし合い高め合うといった場面が多くみられます。

これらから、主体的に物事に取り組む意識が必要であると言えます。というのも様々なトレーニングがある中で自分自身に適したものを選ぶ事が「正しい練習」へと導いてくれます。そしてその「正しい練習」を徹底すればベストが出ることが当たり前だと考えていました。

話を戻します。大学二年生から三年生にかけての冬季練習は年明けまで順調でした。一つ上に混成ブロックの先輩がいなかった事から三年生ながら混成ブロックチーフとなり、メニューを決めてました。去年のメニューは偉大なる森口先輩が考えてくださった素晴らしいものだったので大きく変える必要がありませんでした。去年行った事を参考にしつつ先輩や同期と話し調整しつつ、メニューを決めていました。

年末年始には箱根駅伝のお仕事があり同期や先輩と楽しく年明けを迎えました。そして練習が始まって数週間たった頃に右膝に違和感を感じます。長脛靭帯炎(別名ランナー膝/膝の外側の炎症)になってしまいました。普段から練習量に対する睡眠・食事・ケアを考えていましたが年末年始の不規則な生活や練習再開後すぐに強度の高い練習を実施してしまったことなどによって疲労が抜けないまま練習を続けてしまいました。

高校時代から慢性的なシンスプリントに悩ませられていたいました。疲労が溜まってケアが追いつかなくなると痛みが出るという状態でした。しかしそこまで重症化せず、負荷がかかっていると認識することである意味いい調整ができていました。ですが今回の痛みは走れなくなるほどの痛みであり、以前の捻挫と違い慢性的なものでの経験は初めてでした。

この経験は自分にとってショックが大きかったです。というのは練習ができなくなる事より、今まで得意だったコンディションの調整ができてなかったと分かったからです。当時は、今まで積み上げてきた経験が一気に崩れた感覚で自信を失ってしまいました。(今思えば全くそんな訳がなく、ソールがすり減った靴で練習していたり、負荷のかかりやすいカーブでの練習が多かったり、自分の身体の構造上ストレスがかかりやすい事を知らなかったりなど、シンプルに知識と経験不足でした。)

復帰してから再発することはありませんでした。シーズン初戦の試合に向けて練習を積み、沖縄合宿にも参加させていただきました。
万全の準備をしたと思われる春の試合で関東インカレの標準記録を切ることはできませんでした。

去年の目標である関東インカレの標準記録を切れず、どの種目も思うように記録が伸びず、陸上競技から離れる事はなかったものの、現状維持という名の緩やかな衰退を続けていました。以前感じていた陸上に対する感情「楽しさ・悔しさ・焦り・やる気・自信」がほぼ無く、初めて棒高跳びの試合で跳びたくないと感じたのもこの年です。

当時、春に棒高跳びのベストを更新して4mを跳べました。神奈川県選手権では参加標準記録が4mなのに対して最初の高さが4m20でした。この4m20mに挑戦するにあたり、今までよりも長いポールを使って競技を行いました。そのポールを曲げることは出来ていたので跳べる可能性はありました。しかし、一本目を跳ぶ前になぜかいつも以上に緊張して、試合から逃げ出したくなりました。そんな中で跳べる訳もなく、記録なし。なぜか試合後にほっとしている自分がいました。この時

「長いポールで競技できたからよかった、自分にはまだ跳べなくて当然。」

私の中で合理化という名の諦めが見られるようになりました。

その後神奈川県選手権を二位で突破し、関東選手権で三位入賞できましたが記録はひどいものでした。

記録の推移

まだ途中ですが最近の記憶ほど鮮明に、詳細に覚えている分ボリュームが多くなってしまいます。すでに4000字を超えているので大学三年生の冬季練習から大学四年生の分は後編に書きたいと思います。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。

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