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鉄道員(ぽっぽや)~ネタバレしない映画感想文

雪に閉ざされた、北海道の僻地。かつては炭鉱として栄えた、単線鉄道の終点の小さな町。人生(戦後~現代)を丸ごと、不器用に、愚直に、鉄道員(ぽっぽや)として生きた、ひとりの男の物語。

20年くらい前、TVで映画CMをしていたのを覚えているが、結局当時見ることはなかった。それが最近になって、noteのタイムラインに流れてきたのがきっかけで、Amazonビデオで見ることになった。

佐藤乙松(高倉健)のキャラクターは、以前僕が憧れていた姿だった。一言で言えば、寡黙。決して、必要以上に多くを語らない。周囲が「今こそなにか語ってくれ」と思う時に限って、何も言わない。
彼をよく知らない人であれば、ぶっきらぼうで無愛想で無感情な人間に見えるだろう。
彼をいくらか知っている人は、彼が真面目で愛情のある人間であることを理解しているだろう。
彼のことを詳しく知るひとは、実は彼は人一倍感情豊かだが、それを言葉に出せない(あるいは出すことを良しとしない)のだと知っているはずだ。うつむいて唇を噛み締める姿、震える瞼や頬から、彼の内面を察するのだ。

沈黙は金なり、という言葉がある。僕もそれを信じて、寡黙でありたいと思っていた。人は余計なことを言うから誤解を招き、敵を作り、面倒に巻き込まれるのだ。なぜ自分は黙っていられないのだろう、と自己嫌悪になったことも少なくない。だが、歳を重ね、だんだんと、「ありのままの自分を受け入れるしかないのだ」ということがわかり始めた頃、憧れは小さくなっていった。

なんと言っても、僕はずっとしゃべっていたい人間なのだ。表面だけ沈黙を装っても、内面のおしゃべりは止むことがない。それは(汚い表現で恐縮だが)尿意に耐えているようなものだ。遅かれ早かれ膀胱炎になる。僕と乙松とは、表面的な態度以上に、内面的な構造が違うのだ。乙松はおそらく、感情は豊かであっても、それを内面で言語化しないタイプの人間なのではないか。言語化された感情は、いずれは、言葉として発せられる運命にあると思うのだ。残念ながら、「内面での言語化」は、自分の意志とはほぼ無関係に進行する現象であって、僕の経験では、止めることが不可能だ。

「ずっとしゃべっていたい人間」は、本人が自覚しているかどうかはともかくとして、わりと多いと思う。その中でもいろいろなタイプがいるわけだが、僕はその中でもかなり厄介な部類に入ると自覚している。
即ち、「相手がちゃんと聞いていないと不満を感じる」うえに、「しゃべりたいテーマが重すぎたりマニアックだったりする」という・・・

結局の所、僕がこうして文章を書く、一番の理由はそこなんだと思う。僕のしゃべりたい願望に完全に付き合える人間はあまりいないと思うし、倫理的にも(笑)、付き合わせるべきではない。だから穴を掘ってそこにむかってしゃべる。王様の耳はロバの耳・・・。あれ?あの話だと最後は王様にバレてヤバイことになるんだっけ・・・w

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