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「自分との戦い」は誤解されている

マラソンやその他長距離種目は、本当に自分との戦いだろうか。僕はそうは思わない。あるいはこう言いたい。長距離種目は、序盤戦においてのみ、自分との戦いである、と。

自分との戦いって何?

マラソンやトライアスロンの大会などで「自分に負けるな」系の応援メッセージは定番。村上春樹の名言「少なくと最後まで歩かなかった」も支持されているし、SNSなど見ても、歩かなかったからこのレースは成功、みたいなコメントも多い。このような意味での「自分との戦い」は、いかに苦しみに耐えたかが焦点であり、肉体的な疲労が蓄積する、レース終盤における思想だ。

だが実際、こうして終盤に自分と戦って、PBなり好順位なりが達成できるものだろうか。僕の経験では、これは典型的な失敗レースのパターンだ。たとえばフルマラソンの場合、レース終盤は誰でも苦しいが、苦しい中でも力を尽くすのもまた、誰でも同じ(ビギナーは場合によるが)。苦しい中でさらにもう一歩踏み込んだ走りをできたとしても、トータルタイムは何分も変わらないだろう(一秒を削り出す、トップエリートたちは別かもしれない)。耐えられずに歩いたとして(戦略的に歩くのは全く別物)、それを根性不足とか、自分に負けたとか評するのもおかしい。たいていは単純に、序盤を頑張りすぎてガス欠なのだ。

ガソリンを入れるか、警告灯を破壊するか

肉体的苦痛に耐えることを、自分との戦いと評するのは、自動車を運転していて、警告灯と戦っているようなものだ。ドライブの途中、燃料警告灯が点灯したとする。まともなドライバーであれば、「そろそろガソリンスタンドに寄らないとな」と考えるだろう。警告灯を割ったり、ガムテープで隠したりして、燃料切れを回避できると考えるドライバーがいるだろうか??

肉体と戦うな

筋肉の痛みや、心臓の苦しさ、息切れなどは、身体というマシンに装備された警告灯にすぎない。警告灯を無視するのが良いことのはずはない。もちろん、ラストスパートや、ライバルとの駆け引きで、損害を覚悟した上で、警告灯を無視することはできる。その場合でもそれは、勝負のための選択であり、無視することに価値があるわけではない。身体の警告灯は、明らかに味方なのだ。戦う相手ではない。

敵は不安や猜疑心!

では、自分の中での戦いがあるとしたら、敵は何なのか。不安や猜疑心である。「痛み」は敵ではないが、「痛みが出るかもしれないという不安」は敵と思っていい。

序盤こそが精神戦

マラソンでPBを狙うようになってくると、目標達成のための平均ペースを意識するようになる。目標達成への思いが強いほど、作戦に保険をかけたくなる。いい例が、「序盤をこのくらいのペースで走れば、後半失速しても目標に届くぞ」という考えだ。この作戦は、(僕の経験だが)たいてい失敗する。「後半失速するだろう」という考え方がそもそも、自分を信頼していない。失速前提の作戦は、実際に99%が失速するだろう。作戦の時点で、すでに「自分に負けて」いるのだ。

レースが始まってからも、
「今日は身体が軽い。計画とは違うが、もう少しペースアップして稼いでおけば、後半失速したとしても・・・」
という思考はよぎる。いつも。これもやはり、目標達成を確実にしたいという欲望と、後半への不安が入り乱れた状況なわけで、冷静に考え直したい。たとえばこんな風に。
「今日は身体が軽い。予定通り抑えて走れば、後半に入って大きくペースアップできるかもしれない」

僕の考える、自分に負けない走り、とは、序盤~中間点あたりまでを、「冷静に、力を抑えて、目標達成を信じて走ること」である。これができたレースはだいたいPBが出るし、そうでなくても、悪い結果になったことはないし、レース内容に満足できている。

後半も失速しないと信じられるからこそ、前半のスピードをセーブできる。この、信じられるかどうかこそが、自分との戦いだ。後半の自分は、実はかなり強い。ただしそれは、後半の自分を信じて、十分な燃料を託してあげた場合に限るのである。


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