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あの日、少女だった。(再掲)

あの日、少女だった。
思えば、本の虫だった。

図書館の本を年間で100冊以上読むと表彰してもらえると知った小学校低学年のある日から、わたしは本に取り憑かれて行った。

とはいえ、動機はただ賞状というものが欲しいだけのことだった。

最初はどんな本が好きか分からなかったため、『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』から入った。

正直、退屈だった。

フンコロガシについての衝撃しか残っていない。

おかげでシリーズを読み進める途中から、読むことはただの「ポーズ」になった。

そんな自分をなんとなく俯瞰しながら、「今日のおやつはなんだろうな」なんて考えているのがほとんどだった。

何やってるんだろ。

わたしは、方向を変えることにした。

『パディントン〇〇へ行く』シリーズと出会ってからはとにかく「物語」に夢中になった。

気づけば、本棚の物語は端から端まで読んでしまっていた。

100冊なんてあっという間だった。

でも、ある日困ったことに気づく。

物語を読むと文字で頭がいっぱいになるのだ。

本から離れているというのに、全ての行動が頭の中で文章となって読み上げられてしまう。

「わたしは靴を履く。昨日まーちゃんと走り回ったせいか、少し汚れているがお気に入りの運動靴だ。」と言った具合に。

とにかく苦しかった。

でも、本は読みたい。

そこで手に取ったのがノートとえんぴつだった。

楽しかったこと、嬉しかったこと、悲しかったこと。

日記のみならず、わたしは思うがままにノートに「物語」を広げた。

その度にすーっと何かが消えていくような感覚を味わっていた。

軽くなるような、無になるような感覚。

それがパソコンで打ち込むようになり、携帯になり、今に至る。

描くことはわたしの日課であり、お守りみたいなものなのだ。

何が起こっても「これでリセット出来るよ」って言う。



思えばよく生きてきたものだ。

本当に飽きずに死なされずに、今でも生きているものだ。

我ながら可笑しくて感心してしまう。

大したもんだ。

今、枕元には小さな娘の眠るベビーベッドがある。

繰り返される彼女の呼吸はとても優しくわたしを包み込む。

同時に少し、安堵するのだ。

奥の書斎では夫が仕事をしている。

彼には本当、頭が下がる。

よくこんなわたしを見つけ、引っ張りあげ、寄り添ってくれたものだ。

多分、彼はそんじゃそこらの学者先生たちよりよほど偉い。

わたしの救世主、スーパーヒーローだ。

そう思えるだけで全て無敵なのだ。

たとえ本当は違っていても。



わたしはこれからも書いて行く。

描く方がきっと性に合っているのだ。

「よく生きてきたな」

自分への労いは同時に「大人になったものだ 」そう、いつかの少女へと繋がる。

少女もまた、大人へと巣立って行ってしまう。

いつかは。

決してキレイではないけれど、ごろごろ歪なままわたしは生きる。

書く。

描いて、逝く。

近くない遠くない何時かに、必ず。

そんな清々しい明日が来ればいい。

新しい命と。

時に抉られながら、傷ついて流血しながら、瀕死でも尚、ありったけの砂をエンドレスに噛まされながら。

これこそがワタシ。

いつかくだらない物ものからも脱せた時、わたしの日々は完結するのかもしれない。

でもそれはまた別の「お話」。

それでいいんじゃないかな。
なあんて。

(2019/02/24 00:34)

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