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貧血と眩暈は違う(4月9日(土))

昨日寝た時間  :25時
今日起きた時間 : 6時半

せっかく沢山寝られる土曜日なのに、6時半に目が覚めてしまう。
お腹の調子が悪かったので、そのままトイレに行く。

朝、ご飯を食べてから長女の歯科検診に一緒に行く。長女は咬合で、昔からマウスピースによる治療をしている。乳歯が全て永久歯に生え変わったら、恐らく矯正へと変わるのだろう。

診察台に寝そべる長女を見ると、とてつもなく大きくなったことが改めて分かる。診断の途中で過去の歯並びの経過を見させてもらったが、ここ2年位でぐっと顔からあどけなさがなくなり、成長していることが分かる。ちなみに、くせっけの度合いもこの2年で増している。

長女が診察を受けている間、金井美恵子の「愛の生活」を読む。朝の女性の寝起きからの情景が刻々と書き綴られる。これは今の、小説を読む筋力が落ちてしまった僕でも読めるものである。

途中で、「朝起きて、胃が空っぽの状態で煙草を吸うと眩暈がする」と書かれている。貧血ではなく眩暈、と著述することが小説家の要素なのだろう。
眩暈、と書くことで幾つかの状勢を呼び覚ますことができる。たった、こんな言い換えだけで、世界の取られ方の印象が大きく変わるのだ、と感心する。

歯医者から帰ってくると、土曜日の僕の恒例となっている水回り関係の掃除を始める。トイレ、ふろ場、洗面台、皿洗いとシンク洗いが僕の最低限の仕事だ。ただ、掃除中は自由に音楽をスマートフォンから流して大丈夫なので、この時に誰にも邪魔されることなく、音楽のチェックをすることができる。色々なものを聞いても自分の気分にはなかなか嵌らず、ずっと試聴を繰り返すこととなってしまい、結局「これだ!」という様な興奮や義務感は何も僕には発生しなかった。

適当に流していたなかで、エド・ハーコートという人の曲がかかる。

僕は、この曲を聞いて不意に泣きそうになってしまった。理由は分からない。僕は自分が思っている以上に傷ついているのかもしれない。何にかは分からない。ただ、そんな気がしながらこの音楽を聴きながら、トイレ掃除をしていた。

昼ご飯はつけ麺を食べた。

お昼を食べた後、少しゆっくりする。何か音楽を聴きたくなって、パウロムニツをかける。

これを聴きながら、甘酸っぱい気持ちと眩い陽光で満たされた部屋を思い出す。確かこれは、結婚する前に妻といった沖縄旅行のなかで聞いていたのだ。ホテルの部屋にはCDプレーヤーがあって、そこでパウロムニツを聞いていた。たしかそして、そのままだるい午睡を少ししたのだと思う。

夢にも意志があれば、僕はそこで幸せな夢を見ていたのだろう。覚えてはいないけど。

僕には秀でて何かできる、ということはないけれど、その音楽をどこで聞いていたのか、ということは割かし覚えている。大したことではないし、誰かの話すことも殆どないけれど、それは僕にとっては稀有で大切な能力だと思っている。

音楽があれば、何とかやっていけると改めて思った。セルジュ・ゲンズブールのファンの言葉を借りれば「セルジュ、僕も君と一緒で音楽を通してではないとうまく世界を理解できないんだ」という感覚。ただ、音楽を通しても殆ど世界は理解できていなくて、ただ自分にフィットした自分の視界だと思い込めるだけだ、音楽があれば。

無性に、イーサンホークの「I've never been in love before」が聞きたくなる。


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