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日記 2月27日(日)

昨晩寝た時間  :24時45分
今日起きた時間 : 7時30分

朝起きると、今日もリビングに長男だけいた。長男は、チャレンジタッチで本を読んでいて、そこで得た知識の幾つかを僕に披露してくる。フクロウの首は270度回る、それは目が動かないのでその代わりに多くの首を回せるようにしているからだ、ツバメの巣を作れるツバメは一種類だけなのだ、といったこと。

朝はフランスパンを切り(切ったのは妻)、そこにあんバターを載せてトースターに入れて焼いて食べる。おいしい。しかし、それにもいつしか飽きたので、スライスチーズを載せて、塩コショウをふって、焼いて食べる。「スライスチーズは焼いても溶けないんだよ」と妻に言われて、えーそうなのーと、僕は多分、今日それを初めて知る。でも、正直、これを書いている今でも本当にそうなのかなあ、と思っている。

その後、風呂を洗って、皿を洗って、出張の準備をする。明日の朝からの用事に備え、今日中に目的地の和歌山に入る。でも、今日の多くの時間を仕事のために費やすのに、実質移動するだけだから、休日の残業手当とかは別につかない。僕はこれはおかしいと思っているのだけど、判例で見てもこれはおかしいということではない。でも、仕事時間中の移動時間は仕事時間になるのだから、正直やっぱり納得いかない。でもそれを言い出すと、通常の出勤時間も労働時間なのか、となればそれは違うので、休日でも移動だけだから、たとえ遠隔に赴くだけであっても働かなければそれはただの移動。

妻にどこに「行くんだっけ?」と聞かれて、もう何回も伝えたと思うのだけど、和歌山だよ、と言う。和歌山って遠いから大変なんだよ、というと「えっ遠いの!?」と少し驚いていて、そうそう、新大阪からさらに特急で1時間はかかる、と伝えると「えー新幹線で一本でいけるのかと思っていた」とのことだった。僕もあまり新幹線とか飛行機とか乗らないので、この様な日本各地への行き方みたいなものにとんと疎い。妻もなんとなくそうで、もしかしたらそういう世の中の常識の様なものをお互い身に着けていないのかもしれない。ただ、そういう未熟というのか幼さの発露みたいなものを共通して持っていることは僕は結構好きだったりする。

むしろ、旅行にめちゃくちゃ詳しかったり、移動手段を優れて熟知している人が苦手だったりする。こなれていて、自分の移動に対する自負心や聡明さを披露しがちな気がするので。デカルトが方法序説に「旅をし過ぎるのは良くない。自分がどこにいるのか、わからなくなるから」といったことを書いていて、僕は大学生のときにこれを読んだのだが、それから20年近く経ってきて、人生のなかで旅や交通自慢をする人の話を聞くたびに、この言葉を深く反芻してきた。でも、なぜかこの文章は方法序説にはなく、僕は方法序説に書いてあったと思って何回も探しているのだけど、ずっと見つけられていない。誰が書いた、どの本に書かれているのだろう。そういえば、僕は40歳になるまで、自分のお金でタクシーに乗ったことは片手足りるくらいしかない。酔って寝過ごして遠くまで行ってしまったときと、家族で旅行に行って、荷物が多かったときに最寄り駅から乗って帰ってきたときくらいだ。タクシーに乗る人を見ると、大人だ、といい中年なのに、いまだに思う。

東京発の新幹線は16時半発だったけど、仕事が溜まっていたり、出張の諸準備が必要だったので、12時半くらいに一度職場に立ち寄り、15時40分まで仕事と準備をしていた。誰もいないオフィスは、ただでさえ機能性のあるものしか置いていない状況が無人によって拍車がかかり慰霊室みたいに暗く、静かで生気がない。そこで僕はマスクを外して、3時間くらい仕事をした。これは休日出勤というものではなく、これからの当面の自分の作業段取りを考えると、到底手が追い付かなさそうだったので自主的に自分の時間でやっただけだ。しかし、そんなときにまだ上司から、「これもやっといて」的に簡単に、指先一本でポーンと投げられて仕事の連絡が今日来ていて、憤怒で数分包まれ、誰もいないオフィスで凡そその場に不適切で荒々しい言葉を僕は吐く。

その後、予定通り15時40分にオフィスを出て、16時半発の新幹線に乗った。出張のお供として持ってきた滝口悠生「長い一日」を読み始める。滝口悠生が僕にとって特別なのは、優れた小説であること以上に、優れて僕のこれまでの記憶をスポッと引き抜いて思い出させてくれるからだ。夕方、夕日に包まれながら小説を読むなんていつぶりだろうか。しかも、福居良「my favorite tune」という優れたBGMとともに、何というか自分の時間が戻ってきた気がする。

僕は、夕日のなかで、この本を読み、100Pほど読み進めたなかで少し疲れたので、目を閉じていると、20年近く前に、大学の卒業旅行で一人旅に出たことを思い出していた。当時、既に今の妻とも2年近く交際していたし、連れともいえるような友人たちも何人かいたので、なぜ一人で卒業旅行に行ったのか、はっきりと思い出せない。ただ、友人たちについては、一人は留年、一人は就活中、一人はまだ卒業ではなく、一人はもう卒業していた、という状況だった気がするので、友人での卒業旅行というのは企画すらされていないかもしれない。妻は確か友人とアメリカに卒業旅行に行って気がする。妻は大学時代にわりかし海外旅行に行っていて、僕が知っている限りでもアメリカ以外にもイタリアと韓国、あとどこかに行っていたと思う。
僕の卒業旅行は、尾道→萩→津和野→島根→鳥取→福井→金沢、だった気がする。当時、父が単身赴任で金沢にいたので、そこを最終目的地にぐるっと山陰地方を回っていったと記憶している。当時のノートを探せば、その道程とか少し書かれたものが見つかる気もするけど、今は新幹線のなかなので、それは叶わない。尾道スタートだったのは、大林宣彦の映画なんて殆ど見たこともないのに、「尾道」という舞台の名前に憧れがあったからだと思う。正直、この卒業旅行で何を見聞きしたのか、覚えていない。今でもそうだけど、あまり食べ物に興味がないので、夕ご飯もご当地のおいしいものを食べたりもせず、ショッピングセンターで食べたり、スーパーやコンビニで買ったものを宿泊する部屋で食べたりしていた。朝ご飯も、民宿やホテルで一人で食べるのも侘しく感じていた。宿泊費を抑えるために安いホテルや民宿に泊まったのだが、その多くが土壁みたいな部屋だったことをなんとなく覚えている。宍道湖の夕日や、真っ白で吹雪く鳥取砂丘や、新幹線が尾道に入る瞬間に見た大きなクレーンや、朝、女子高生が溢れる電車のなかで聞いていたコリン・ブランストーン、旅先で買ったカエターノとガル・コスタの「domingo」とか、尾道の大きな白い有害図書のポストとか、そんな景色の断片でしか覚えていない。

父と二人だけで過ごした時間では、後にも先にもこれが最長だ。それは明確に分かる。多分3泊か4泊、父の単身赴任のライオンズマンションに泊まった気がする。金、土、日、とか木、金、土、とかウィークデイと休日が入れ込んだ日程だったはずだ。というのも、父の仕事帰りに父の行きつけの寿司屋に行った記憶があり、休日に能登に行った記憶が残っているからだ。能登にいって、当時僕は棚田が好きだったということを自分で伝えたのか、母が伝えたのかはわからないけど、とにかく能登に棚田を見に行き、海沿いを車で走った気がする。もしくは、富山か福井にも行って、温泉に入った気もする。そのとき、車のなかでリッチーホウティンをかけていた気がする。もしかしたら、土日含めて泊まり、土日両方とも父と出掛けたのかもしれない。当時、僕は今ほどに父に苦手意識は無かった。というか、結構好きだった。苦手な部分もあったけど、それ以上に好きとかかっこいい、という部分の方が強かった。父が苦手になっていったのは、いつまでも僕を目下にみたり、兄に対して執着的になったり、いつまでも万能感が消えなかったり、僕が父の思い通りに配慮しないことをぶつけてきたりした、僕の就職~結婚に至る様々なことだった。「お前のためだ」「お前のことを思って」というのは、ほとんどが父自身の思い描くことのための言葉だということに少しずつ気が付き始めてしまったためだ。

とにかく、でも、その金沢や能登らのときには父は僕とは対等な感覚にあった。向かい合って話していると思えることがあったのだ。具体的には思い出せないにしても、そのときの車での父の横顔や、向かい合ってご飯を食べるときの表情や、カウンターで酒を僕に注ぐ手は、今それを思い出している僕の心をとても温かにさせる。父は嬉しかったのだ、単身赴任の地に、息子が一人で来ることに。だから僕をいろいろなところに連れていき、いろいろなものを食べさせたのだ。これを書きながら今思い出したことは、僕はその時に父と釣りをしている。父は釣りが好きで、海釣りも川釣りもしていたし、一時期は疑似餌も自分で作っていた。兄は釣りが好きだったのか、父に合わせたのかはわからないけど、小さなころから父と良く釣りに一緒に行っていたけど、僕はほとんど釣りはしなかった。退屈だし、船釣りで船酔いして吐いたし、投げ釣りでも僕が針を回収しているときに強い波が堤防に押し寄せ、返しが付いている針が僕の左手薬指に突き刺さり、なかなか抜けず、父がナイフで皮膚を切って取ったこともあった(その傷跡は微かに今でも残っている)。

父は、僕の卒業旅行のときに能登のどこかの海で釣りをして、僕は小さなタコをつった。やったー、釣れた!と喜んだ気がする。そのタコはどうしたのか、逃げたのか逃がしたのか、死んだのか、食べたのか。そこは覚えていないけど。

僕がその卒業旅行のことで一番覚えているのは、金沢から帰る深夜の列車でのことだ。その時、父は改札まで見送ってくれた気もするが、こなかった気もする。これはどちらの可能性もある。何回か金沢に行っているので、記憶が混ざっている気がする。

寝台列車で僕は自分の家に帰ったのだけど、近くに幼児がいて、朝になるまでずっと泣いていた。音楽をイヤフォンで聞いていても否応なしに泣き声が耳に入ってくる。結局僕は最後まで一睡もできないまま、電車を降りた。体を覆うどんよりとした疲労と凝り固まった筋肉と、腰痛によって卒業旅行が終わったのだった。

新幹線や特急の移動の時間やスピードで、僕の記憶も色々と繋がったり浮かんだり、掘られたりくっついたりして、こんなにたくさんの文章をつらつら書いていた。今、新大阪から和歌山に向かう電車のなかです(19:48)。

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