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居場所のカタチ

夏休みが明けて、学校が始まったこの時期。
「無理して登校しなくてもいい」
というメッセージをここ数年で目にする事が多くなりました。
そんな中Togetterで出てきた甲本ヒロトさんの言葉に関するスレッド。
我が家での、7年前の出来事を思い出しました。

【7年前の出来事】

2016年の夏休み明け。当時中学一年生の長女は学校に行けなくなりました。。。

地元の小学校から地元の中学校に上がり、環境の変化に違和感を感じながら勉強も部活も頑張っていました。クラス担任と部活の顧問は同じ先生でだったのですが、「全く生徒に興味がない先生」でした。

小学校時代、熱血タイプのカリスマ性がある先生の熱意に呼応して、自分のモチベーションを上げて実力を発揮し、そこに適切なフィードバックをもらうことで、どんどん自分の良さを発揮できる環境にいた長女でした。しかし、いくら努力してもアピールしても関心を示さない担任の先生との関係に疲弊してしまい、夏休み前に「プチ」と音を立てて何かが切れてしまい、結局夏休み明けからは学校に行けずじまいとなってしまいました。。。

もちろん「担任の先生の問題」というのは一つの要因であり、そもそも感じていた「自分には今の環境が合っていない。居場所がない。」という違和感。その違和感がどんどん大きくなってしまった結果でもあったと思います。

一年生の残りの期間は、保健室登校や別室登校で、いろいろな先生が個別に個人指導時間を割いて下さいました。私も毎週もしくは隔週の頻度で仕事帰りに中学校に行き、学年主任の先生と状態の確認と今後の進め方などを相談させて頂いておりました。

その当時は大変な時期だったのですが、後で振り返ると、その期間があったことで、娘は担任以外の多くの先生とコミュニケーションを取るきっかけになり、最終的に長女は「雨降って地固まる」中学生活を送る事ができた気がします。

【環境の変化と自分の居場所のカタチ】

改めて当時のことを、今回の甲本ヒロトさんの言葉で考えるきっかけになったのですが、自分の居場所の形って、必ずしも「どこでも同じ」ではないんですよね。

「自分の居心地の良い居場所がある」という経験はある種の成功体験である一方で、私たちはその成功体験を基にして、ある条件に当てはまる「居心地の良い居場所」を探してしまいがちな気がしまいます。しかし、実は「自分の居場所のカタチ」って環境が変わると変わる類のものなんだと思います。
例えば、「教室は居心地が悪いけど、部活は居心地がいい」、というパターンがあれば、「学校には居心地の良い場所がないけれど、学校外の活動に居心地の良い場所がある」、というパターンもあるでしょうし。

また、「居心地の良い場所がないと思っていたら、ある学校行事をきっかけに、クラスメートと意気投合し、自分の居心地のいい居場所ができる」、という、時間による変化もあるかと。

結果的に、「自分の居場所のカタチ」って自分だけでコントロールできるものではなく、周囲の環境、特に人とのかかわりの中で決まっていくものなんだと思います。

一方で、「居心地の良さ」は、「居場所のカタチ」だけではなく、自分自身がその「カタチ」をどうとらえるかによっても変わるものだと思うのです。

【甲本さんの言葉】

甲本さんの言われるように、クラスメイトがたまたま一緒になって同じ場所にいる人の集まりだと考えると、クラスで居心地の良い場所がなかったとしても、「クラスの自分の居場所のカタチ」はそういうものなのでしょうね。
居場所のカタチは、誰かによって決められるものではなく、画一的に決まるものではない。

そして、未来永劫そのカタチが変わらないものでもないし、そのカタチを自分がどう受け入れるかも変わっていくもの。

そして、そこに必ずしも「居心地の良さ」を求めなくてもよい。

そんな風に考えられると、もしかしたら、少しでも心が軽くなるかもしれないな、と思いました。

【7年たった今】

長女の美大は夏休みが短く(その分春休みが長いのですが・・・)、「中学生と夏休み変わらないし!」と文句を言いながらも、1限の授業に間に合うように、今週から2時間かけて毎日大学に通い始めました。

自分なりに、今の自分の「居場所のカタチ」を受け入れられるようになっていて、7年前からのあの姿とは別人のようです。

まだまだ紆余曲折はありそうですが、これから彼女の人生の中で通っていく場所が、彼女にとって「居心地の良い居場所」になってくれるといいな、と思います。


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