公認心理師への道①〜知識よりも大切なことに気づく〜
こんにちは。ささやんです。
先日とある学会誌からお声かけいただき、現在ちょっとした文章を書いています。その執筆にあたって自身の振り返りに、まずは固くない文章を書きたいと思いnoteを開いている次第でございます。
寄稿のテーマはざっくり言うと、"公認心理師の資格を取った理学療法士"ということ。私自身、資格取得のための勉強のみならず、論文や書籍、学会参加などを通して自主的に勉強していますが、本当に心理面に関する知識はすべての人にとって必要だと感じています。
なぜすべての人にとって必要なのか?今回はそんな風に思った経緯などを紹介できればと思います。学会誌の方にはほんのり固い感じで文章を書くことになるので、こちらには少し幅を持たせて。
理学療法士としての駆け出し時代
私は2009年に理学療法士の免許を取得し,現在は整形外科・ペインクリニックに勤務しています。いつの間にか臨床経験15年を数える中堅です。
外来クリニックでの臨床は主に痛みの解消が主訴であるケースが多いです。
痛みというのは「実際の組織損傷もしくは組織損傷が起こりうる状態に付随する,あるいはそれに似た,感覚かつ情動の不快な体験 」と定義されるように、単純に炎症とか発痛物質の影響のみならず、精神状態や社会背景なども含めた心理面が影響することが分かっています。それはつまり脳や神経系の活動状態も痛みに影響するということです。
振り返れば私が理学療法士になった理由、そして整形外科に就職した理由は「スポーツに関わる仕事がしたい」「痛みを取れる治療家・トレーナーになってスポーツをする人をサポートしたい」というものでした。なので新卒では病院に就職することが王道ですが、私は外来整形に就職。それと同時に2009年〜2013年までの5年間は、休日を使って母校のバスケット部でトレーナー活動などもしていました。当時は人間の運動機能というものに非常に関心があったのです。
しかしそのような考え方だった私は臨床でつまづくことが多々ありました。
「運動機能は改善しているはずなのに、痛みが取れない」
「1カ所良くなったと思ったら、また別の痛みを訴えてきた」
「そもそも運動機能の問題によって生じている痛みのような感じがしない」
日々悩むことばかり。当時は小さいクリニックで近くに信頼できる先輩もいませんでしたし、独学がメイン。情報を追い求め(振り回され)、代替医療や栄養なども含めた幅広い勉強に手を出してきました。しかし患者さんの訴えは中々変わりませんでした。
勉強している中で、もちろん「心理状態」が痛みに影響するということは知識として知っていました。いや、知っていたのではなく知ったふりをしていたのでしょう。本当の意味で理解することは現時点でもできているかと問われれば甘いと思いますが、今思っても当時は本当に未熟だったと思います。
痛みの臨床と社会的要因
痛みには心理面が関係する。それをなんとなく知っていた私は、慢性疼痛患者さんと接する中で「この患者さんにはセラピーよりもケアが必要だ」とか「この患者さんには役割・居場所が必要だ」というような感覚が出てきたりもしていたのです。
例えばとある患者さん。痛みの訴えは強いのですが、毎回言っていることが変わったり痛みの部位も変化しています。そうした患者さんは少なくないのですが、そういった方には「病院以外に通う場所がない」というような方も多くいました。
人間というのは関係性の中で存在し、生きています。
”確固たる私”というものは存在せず、あくまでも”私”は関係性の中で変わるのです。
理学療法士としての私
夫としての私
父親としての私
駄菓子屋としての私
他者との関係性・社会との関係性の中で自分の振る舞いは変わりますし、様々な顔を作り出しています。
そんなことを思った時に、患者さんの中には"患者としての私”という顔しか持たない人もいるのではないだろうかと、ふと思ったのでした。
専門的には疾病利得などとも言いますが、「痛み」を訴えることで家族に優しくしてもらえたり、病院に通って”患者として”社会参加できる。
そう言ったことが起こっている。そんな風に感じる経験が臨床で何度もありました。この感覚が私がNPOを立ち上げるきっかけになったのです。
そこで社会からアプローチしていくために、私は仲間とともにNPO法人を設立しました。
この法人の目的は主に
・健康増進に関する普及啓発⇨予防
・社会参加のための環境整備⇨場づくり
・事業を行う人材育成⇨仲間づくり
というもの。当時は右も左も分からないままも、とりあえず何かしなければ!という半分焦ったような気持ちもありながら、法人の立ち上げから運営を開始したのでした。
当初は講演会やワークショップなどを中心とした”健康増進に関する普及啓発”活動を行っていました。集まってくれる人たちとの時間も良いものでしたが、私がNPOを立ち上げるきっかけの一つでもあった患者さんたちが頭をよぎるたびに「これだけでは何か違う」と感じていました。やはり「場づくり」や「役割づくり」に取り組みたいなと。”〇〇な私”と言う顔を増やせる環境を創っていきたいなと感じたのです。
しかしそうは言っても、一体何をどうすれば良いのかが分かりません。臨床で担当する患者さんと関わりながら、「もっと地域にこんなものがあれば」と思うことはあったのですが、実際に動き始めてみると「誰を対象に」「何をすれば」良いのかが全く分からなかったのです。
それは私の中で自己中心的な「何かしなければ」が先走った結果。
今思えば、私は「患者さんを受け入れる」のではなく、「患者さんを変えよう」としていたのでしょう。
「痛い」を「痛くない」に。
「筋力が弱い」を「筋力が強い」に
「姿勢が悪い」を「良い姿勢」に
「役割がない」を「役割がある」に
そんな自己中心的な私
そのことに気づいたのは、2017年のこと。とある臨床家との出会いでした。
とある小児PTとの出会い
2017年。当時、関東の理学療法士を中心に盛り上がっているイベントがありました。それは「リアル臨床」というイベント。学会などと比べて敷居も低く、そして熱い臨床家が多く集まるイベントでした。
私自身も演題を出して参加していたのですが、そこで非常に気になる演題を見つけました。赤ちゃんの発達に関する演題です。
当時の私は、DNSと言われる発達運動学に基づくアプローチに関心があり、発達の勉強を深めたいと考えていました。そこで発達の演題を見つけたので聴講し、非常に興味深く面白い内容に興奮したのでした。
私はすぐさま演者の先生に連絡を取り、もっと話を聞きたいということ。そしてもっと多くのセラピストにも聞かせたいということをお伝えし、セミナー講師の依頼をしました。
それが、現在でもとても仲良くしているこじさんとの出会いでした。
そんな経緯から始まったNPO法人主催の発達運動学セミナー。私も主催者として運営補助をしつつ、毎回参加させていただき勉強をしていました。
そこで先述した、「自己中心的な私」に気づかされたのでした。
それはこじさんの実際の評価・治療デモの見学でのこと。
筋力が弱く、身体の緊張が高い受講者の方への声掛け。
多くの人は「筋力が弱い」とか「筋肉が硬い」いう言葉を用いますし、「力を抜いてください」と指示をしてしまうかもしれません。
しかしこじさんは「弱い」とか「硬い」という言葉を本人の前では使わないですし、「力を抜いて」と言った指示を出すこともありません。
「彼(彼女)はまずは触れられることに慣れるところから」と言って、環境設定でポジショニングを安定させて、緊張が高まらない経験を重ねていくように触れていくことから介入していました。
私を含め、セラピストの多くは臨床場面で患者さんに「力を抜いてください」と言ってしまうことも多いのではないでしょうか?
「力が入っているのは良くない」から「力を抜いて」と指示を出す。この言葉が出てくるのが、まさに自己中心的な自分なのです。
どんなに姿勢が悪くても
どんなに緊張が強くても
どんなに筋力が弱くても
相手の身体には歴史があり、相手はその身体を使って日々生きている。
そこに対する尊重がないから「姿勢が悪い」とか「硬い」とか「弱い」と言う自分基準の自己中心的な言葉が出てくるのでしょう。
正論は関係性の中では意味をなさない。
関係性は、まず相手と向き合い、受け入れるところから始まります。
そう考えた時、私は知識ベースの正論ばかり言っており、相手を受け入れていないし、関係できていないと言うことに気付かされたのでした。
目の前の相手としっかり向き合って、相手を受け入れていれば出てこない言葉が世間には蔓延っています。それに慣れてしまうことは恐ろしいことです。
そんなことに気づかせてくれたのが、このセミナー講師を務めてくれたこじさんだったのです。
そこから私は改めて考え直す機会になりました。
「社会参加ができていない」⇨「社会参加してもらう」
のではなく、社会参加していないことが患者さんにとっての生存戦略というか、適応なのだということを。であるならば、社会参加の資源づくりよりも、もっとやるべきこともあるのではないか?
そんな問いをもつことになります。
続く・・・
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