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自分の拙さを受け容れる

1月も気がつくと残り一週間を切った。

ついこの間、はじまりを迎えたばかりだと思っていた2021年。その十二分の一が瞬く間に終わろうとしている。

「歳を重ねるにつれて時間の経過は早く感じる」という、説教くささを含んだ年配者の警鐘を、どこか他人ごとのように聞き流していた自分は、もうどこを探しても見当たらなくなってしまった。「光陰矢の如し」という言葉の意味が、年中、頭の中を駆け巡っている。

死ぬまでにやりたいことがある。

それは、”人の心に響く物語”を書くことだ。

先日、ほぼ日刊イトイ新聞で連載されている『おとなの小論文教室』のLesson964『感動の即死』を読んでいた時のこと。
”自分の表現で、人に感動してもらえたら、メチャメチャ嬉しい”
うんうん、わかるわかる、ほんとそれなぁ、と僕はモニターの前で深く共感させられた。

自分の考えたことや感じたことの表現が、誰かの心を動かしたり、ポジティブなエネルギーに繋がってくれることは、表現者として最も嬉しい瞬間なのではないだろうか。僕が表現者に憧れ、羨む理由の一つがそこにある。

自分も何かを表現できる人間になりたい。できることなら、人に感動を与えられる表現者に。

とりあえず、一人でも作ることができるという(実に安直な)理由から、僕は小説を書こう。そう思い立ったのがもう数年も前のことになってしまっている。

自分が綴った物語で誰かの心を動かす瞬間を思い描きながら、勢いよく書き始めるが、拙い自分の文章に辟易としたり、話の整合性を確認するために読み返すうちに”この話のどこが面白いんだろう?”と自問自答の疑念が湧きあがってしまい、結局、自分には何かを表現するだけの中身や才能がないのかもしれないと考えはじめてしまう。

そうなると、パソコンに向かって文章ソフトを立ち上げることが億劫になる。気持ちを奮い立たせて無理やり書こうものなら、表現を楽しむという気持ちなど微塵もなくなり、空白を埋めるためにキーボードをタイピングするという、創造性とはかけ離れた、実に味気のない作業がはじまってしまう。

そうなったら、もうお終いだ。

そんな空虚に満ちた想いで生み出された物語が、人の心に響くはずがない。

そうこうしているうちに、物語を完成にまで漕ぎつけられずに一年が終わりを迎えてしまう。自分の無力さとダメさから目を背けたくなる。そんな一年が、ここ数年、続いている。

僕が思っているほど”小説を書きあげる”ということは簡単なことではなかった。そもそも、正解がある枠組みの中でばかりモノゴトを考えることに慣れ切ってしまった頭の固い自分には、自らの価値観によって指標を決めなければならない創作全般が向いていないのかもしれない。

何度も、そう思って、弱気になることがある。

挫けそうになる。

けれど、それでも、諦めきることができない。

諦めてしまいたくない。

感動することは、生きることだ。

人を感動させるとは、自分の中の感動を誰かに伝えるということだ。

僕は、誰かを感動させられるだけの物語が、自分の中に存在すると信じたい。

誰かの心を動かすことのできる表現が生み出せると、そう信じたい。

自分の人生は薄っぺらでなんの価値もなかったと、そう思いながら死んでいくのは、ごめんだ。

”人の心に響く物語”を書きあげられずに人生が終わりを迎えてしまう瞬間が、僕の敗北のときだ。

拙くていい。

巧く書けなくていい。

思ったとおりのものに仕上がらなくて、いい。

だから、お前の中の表現したいものと向き合って、20点でも、30点の出来でもいい、不細工だろうと不格好だろうと、とにかく形にしてみろ。
怖気づかず、怯まずに、表現することの辛さと苦しさと楽しさと、喜びを味わえ。

理想の形には、少しずつ近づけていけばいいから。

まずは”拙い物語”を書きあげること。

そこから全てが始まる。

そう言い聞かせて、今年こそは!

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