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2021.12.15

千代田線を赤坂で降りる。よく歩いて真上を通り過ぎるのに、降りたことはない駅だったので、階段を上って外に出たとき、初めて来る場所のような感覚になる。

散歩をするときはいつも最初に地図を見て、画面上の方角と現実のそれを照合して、あとは目的地の方へなんとなくずんずん歩く。たぶん空の色や車の流れを感じながら進んでいるので、一度地下に潜ってしまうと途端に方向音痴になる。地元の地下街でもずっとそうだった。嫌いじゃないけれど苦手だ。

そのときも方角がまったく分からなくなったので、目の前にあった案内板の地図とにらめっこをする。誰がどう見たっておのぼりさんだ。別に、ちょっと気になったから見ていただけだよ、という顔をして乃木坂方面へ歩き出す。

暖房が効いた電車の中では捲っていたセーターの袖を戻す。ワイヤレスイヤホンの充電が怪しかったので、街の音を聴きながら歩いた。本当に見知らぬ土地のようだった。実際、薄暗い時間帯に東西へ歩くのは初めてだったので見知らぬ土地だ。和菓子屋や弁当屋を外から覗きながら歩いていたら、まんまと目的地を通り過ぎてしまっていた。信号の点滅し始めた横断歩道を慌てて戻る。交番の目の前だったから、見咎められないことを祈った。

目当ての喫茶店は、幸運にも開いているようだったので入る。店を見渡しても客ひとりいない、それどころかカウンターの内側に店主の姿もない。これは、ああ、いつものやつだろうなと諦めようとしたとき、視界の隅にあったトイレの扉が開いて、60代ぐらいの、四角い顔をした男性が出てきた。
「開いてますか?」と尋ねると、にこりともしない顔で『うーん、閉まってるかもね。閉まってたらどうする?』と言われる。胃がきゅっと鳴ったが、これはきっと冗談だと気づいて、「外が寒いので、開けていてくれないと困ります。」と慌てて笑った。今のは少し人間らしい会話だったなと思う。よりどりみどりの座席の中から、窓際を選んで座る。

空腹だったので、ハヤシライスとコーヒーのセットを注文する。店主が奥に引っ込んだあと、店内を見渡す。カウンターの上のテレビはちょうど陰になってよく見えない。知らない演歌歌手のポスターに店名の入ったサイン。老いを隠そうともしないぺしゃんこのソファは快適さとは程遠い。煙草のやにが染み付いた茶色の壁が、座る人の影になる部分だけまだ白さを保っていて、ひとりの店内に透明の客たちが現れる。薄ぎたない、心地よい空間だった。ふと、この場に似つかわしくあるために自分の肺を汚さなければ、と思い、奥にいる店主に「ちょっと煙草を買いに出ます」と声をかけてコンビニへ行った。

音の鳴らないドアの代わりにわざと大きな靴音を立てて戻ってくると、テーブルに水とお椀が置いてある。味噌汁だった。メニュー表を見ると確かにスープ付きと書いてあるが、味噌汁はスープとは呼ばないのではないかな。

数分もしないうちにハヤシライスが運ばれてくる。不味くはないが美味くもない。最後に味噌汁を飲み干すとやたらしょっぱくて、これは少し不快だった。見計らったように、今度はコーヒーが運ばれてきた。少し薄かったのがかえって良かった。一息ついて、1本だけ喫ったら出よう。窓外にはスーツを着た男たちがちらほら見える。銭湯にでも行くような格好をした子供たちが、親らしい男女を先導して路地に消える。

店主は話しかけてくることもなく、カウンターの向こうで煙草を喫いながらテレビを観ている。のんびりしていると、ちょうど良い時間になっていた。きりがいいから、この5本目を喫い終えたら出よう。千円札を渡して釣銭を受け取り、店を出る。

外は案外寒くなかったから、マフラーの出番はない。大使館や高級そうなマンションを横目に、ついこのあいだ買ったばかりのコートの重量を感じながら新坂を上る。200メートルやそこらなのに息が上がってしまい、結露したマスクの内側が冷たい。青山通りまで出ると、やっと現在地が東京の真ん中だとわかる。銀座線でも半蔵門線でも渋谷まで行けるのに、どちらに乗るか迷ってうろうろした挙句、2本逃してようやく乗った。車内はぎゅうぎゅうで、袖を捲る隙間もなかった。


今日が悼むべき日だったことは、次の日の朝になるまですっかり忘れてしまっていた。本当に自分はいつまで経っても人間になれない。