「批評」の物語としてのレヴュースタァライト

2月に口頭発表した内容をまとめ、加筆したものです。スライドはこちら

『戯曲スタァライト』の再解釈

テレビアニメ版 (およびその総集編) で描かれたオーディション最終日、愛城華恋と神楽ひかりの2人は天堂真矢と西條クロディーヌと戦い、勝利した。
それにより華恋は「2人で一緒にスタァになる」という約束が叶えられるのではないかと希望を抱くが、すぐに悲劇のレヴューが開幕する。ひかりはその約束が叶わないことを悟り、華恋の上掛けを切り落とし舞台から突き落とす。オーディションに勝利したひかりは、誰のキラめきも奪うことなく塔へと幽閉されることとなった。
日常へと戻った華恋はいなくなってしまったひかりを探すが、何の手かがりも見つからないまま1ヶ月が過ぎる。自分が舞台に立つ理由を見失ってしまっていることに気がついた華恋は、ひかりが大切なもの(=キラめき)を失っていたことを直観する。
神楽ひかりが最後に言った「これが私の『スタァライト』よ」という言葉の意味を知るため、愛城華恋はひかりが持っていた英語版の『戯曲スタァライト』を和訳して読もうとする。皆の協力を受けながら読み進めるうちに、原作の『戯曲スタァライト』に「幽閉」という要素があることを発見し、神楽ひかりが塔に幽閉されていることを突き止める。
しかし、幽閉されている神楽ひかりを見つけ出すだけでは助けることはできない。神楽ひかりは悲劇のレヴューののち、自分だけのキラめきだけで運命の舞台を開幕させた。神楽ひかりを連れ戻すためには、その運命の舞台を終わらせなくてはならない。

テレビアニメ版のなかで、『戯曲スタァライト』は「2人が別れる悲劇である」と強調される。最も印象的なのは第9話のレヴュー、大場ななが「大嫌いよ『スタァライト』なんて!仲良くなった相手と離れ離れになるあんな悲劇!」と叫ぶシーンであろう。同様のセリフは第1話冒頭をはじめ、劇中に何度も登場する。すなわち、一般的な解釈として『戯曲スタァライト』は「別れる悲劇」なのである。
実際、1人で運命の舞台に立つ神楽ひかりも「(一緒に舞台に立つという)2人の夢は叶わないのよ」とつぶやく。『戯曲スタァライト』は「別れる悲劇」だから、2人でスタァにはなれないのである。
しかし、愛城華恋は疑う。本当に『戯曲スタァライト』は「別れる悲劇」なのだろうか?塔から落ちたフローラはキラめきを失ったままなのだろうか?そこで「塔から落ちたけど立ち上がったフローラもいたはず。クレールに会うためにもう一度塔に登ったフローラが!」と解釈する。
この解釈に従えば『戯曲スタァライト』は「別れないし、悲劇でもない」物語として読むことができる。すなわち、愛城華恋は「別れる・悲劇」の物語として知られていた『戯曲スタァライト』を、「別れない・悲劇でない」物語に再解釈したのである。

そして、「別れない・悲劇でない」解釈は、神楽ひかりの運命の舞台を再生産する。愛城華恋と神楽ひかりの舞台を、約束がブリッジしてつなぎ、2人で運命の舞台へとたどり着くことを可能にしたのである。

「批評」とは

愛城華恋は『戯曲スタァライト』の「別れる・悲劇」という一般的な解釈と異なる、「別れない・悲劇でない」解釈を新たに提示した。
本稿では今後、このような再解釈のことを「批評」と呼ぶことにしたい。そのために、本章では「批評」とはどういうものであるか具体的に検討する。

批評という語

批評という語は一般にやや広い意味で用いられる。インターネットおよび手元の文献で調べてみると、以下のような解説や記述が見られる。

  • 『デジタル大辞泉』

    • 物事の是非・善悪・正邪などを指摘して、自分の評価を述べること。

  • 『改訂新版 世界大百科事典』

    • 批評とは,(1) ある一つの原理,または事実,または命題などを検討することであり,

    • (2) その検討は評価に関連するといえるだろう。

    • したがって最も典型的には,(3) いったん樹立された価値の再検討としてあらわれる。

  • ノエル・キャロル『批評について』p.12

    • わたしの考えでは、批評の主たる作業は価値付けである。

    • 批評家が取り組むその他の作業――記述、文脈づけ、分類、解明、解釈、分析など――は、この価値づけという主目的を補助する役割を担うので、作業の階層としては下に位置する。

  • 小倉孝誠編『批評理論を学ぶ人のために』p.1

    • 作品の構造や、テーマや、世界観を分析し、整合的な議論を構築することが解釈であり、批評ということになる。

以上を見てみると、解釈に揺れはあるものの、批評には「分析」「価値づけ」が大きく関係している。また、「価値づけ」という要素には、多かれ少なかれ「その人自身の解釈」を含んでいると考えられる。
したがって、本稿における「批評」は次の要素を含むものだとしよう。

  • 客観的にテクスト分析をすること

  • 自身の経験や知識を元に解釈を行っていること

  • テクストと矛盾しない、その人自身の新たな解釈を提示していること

ここで用いている「テクスト」とは批評理論で用いられる用語で、大雑把にいえば「批評の対象」のことを指している。

前章の愛城華恋で考えると、以下のように対応する。

  • 愛城華恋は『戯曲スタァライト』を初めから和訳して読み解き、

  • 神楽ひかりとの約束を踏まえて、

  • 『戯曲スタァライト』と矛盾しない形で、「運命の舞台の再生産」を提示した

作者の死

次に、この「批評」に重なる概念の1つとして、ロラン・バルトの「作者の死」を紹介したい。

作品を鑑賞する際、普通は「作者の意図」に沿って意味を理解しようとする。『レヴュースタァライト』であれば、古川監督を初めとするスタッフ陣が書いたセリフや歌詞の意図や、キャストの演技の演出意図などを考えながら鑑賞し、それに沿って理解しようとする。監督インタビューやオーディオコメンタリーなどは、実際に作者の意図を知るうえで重要な手がかりとなる。
前述のノエル・キャロルも作者の意図を重視する立場で、「芸術作品の価値は、作家がその作品によって何を達成したのか、に結びついている (p.12)」と述べている(*)。

これに対して「作者の死」とは、作者の意図が意味を決めるのではないという考え方である。「作者の死」に代表されるテクスト論が重視するのは、作品そのもの(=テクスト)であり、そこから読者が何を読み取るかの方に重点が置かれている。すなわち「読者の解釈」を重視するのである。
ロラン・バルトは、「テクストとは、無数にある文化の中心からやってきた引用の織物である」と述べる。作品は別の作品のオマージュで溢れているし、意図しない間に書かれたときの時代背景なども作品のなかに含まれてしまっている。それが「引用の織物」である。そして、その織物を「解きほぐす(=解釈する)」のは作者ではなく、「読者」であると述べられている。
「作者の死」を、本稿の文脈に合わせて簡単に言い換えれば、「テクストに矛盾しない限りで、読者は自由に解釈してよい」ということになる。

こちらも前章の『戯曲スタァライト』の再解釈で考えてみよう。
一般的な解釈ではフローラは塔から落ちクレールは幽閉されるというストーリーだから、原作もそのような悲劇の別れで終わっていると推測できる。すなわち、(不詳ながら) 作者は「別れる・悲劇」を意図していたと考えられる。
しかし原作の記述に則して読むと、塔から落ちた後のフローラは描かれていない。ならば「別れる・悲劇」ではない物語として解釈することもできるはずだ。読者はテクストに沿う限りで、作者の意図とは違う解釈をしてもいいのだから。

(*) ノエル・キャロルは単純な考えから作者の意図を擁護しているのではなく、批評においてテクスト論的な手法が優勢になるなかで、あえて批評に作者の意図を組み込みなおすよう提案していることに注意が必要である。

第101回聖翔祭

ここまでテレビアニメ版での『戯曲スタァライト』の再解釈を通して、「批評」とは何かを検討してきた。ここからは『劇場版』における「批評」を見ていくことにしよう。

繰り返しになるが、テレビアニメ版の最後で愛城華恋は『戯曲スタァライト』を、「別れる・悲劇」ではなく、「別れない・悲劇でない」として再解釈した。そして、この変化はオーディション外の出来事とも対応している。つまり第99回聖翔祭が前者に、第100回聖翔祭が後者に対応している。
実は『劇場版』では第101回聖翔祭は直接描かれておらず、どのような結末を迎えたのかわからない。だがこの対応関係を念頭に置けば、第101回聖翔祭の『戯曲スタァライト』は、『劇場版』の結末と対応していると推測できる。では『劇場版』の結末はどうだったのだろうか?

『劇場版』のテーマ(の1つ)は卒業だった。3年生になり、9人はそれぞれ別の進路へと進むことになる。つまり皆と「別れ」ることになってしまう。そう、『劇場版』は「別れ」の物語なのだ。
『戯曲スタァライト』は「別れる・悲劇」であり「別れない・悲劇でない」でもあったのだった。では、『劇場版』の結末が「別れ」だとすれば、すなわちそれは「別れる・悲劇」になってしまう。……だが本当にそうなのだろうか?
『劇場版』の最後、9人は上掛けを空へと投げ捨てるが、そのときの9人の表情は不安と決意と晴れやかさに満ちている。これは悲劇なのだろうか?違う、「悲劇ではない」のだ。
『劇場版』は「別れる・悲劇でない」物語である。すなわち、『劇場版』で『戯曲スタァライト』はさらに再解釈されることになる。「別れる・悲劇」から「別れない・悲劇でない」物語を経由して「別れる・悲劇でない」物語へと。

そして本稿のポイントとして、この2度目の再解釈もまた「批評」であることを確認しておこう。

  • (愛城華恋は)『戯曲スタァライト』を読み、

  • 卒業という「別れ」を目前に控え、

  • 『戯曲スタァライト』と矛盾しない形で、「悲劇でない」「別れ」を提示した

これは本稿の「批評」に当てはまるものである。

最後のセリフ、あるいは愛城華恋

『劇場版』全体として「別れるが悲劇ではない」物語へと「批評(=再解釈)」が行われていたことを確認した。本稿ではさらに「最後のセリフ」すなわち愛城華恋に着目して、検討することとしたい。

まずは最後のセリフの冒頭、愛城華恋と神楽ひかりのやりとりを振り返ろう。

愛城華恋「ありがとう、ひかりちゃん。あのとき誘ってくれて、あのとき教えてくれて。劇団アネモネ、ひかりちゃんを追いかけてあの劇団に入ったことが私の始まり。ひかりちゃんがロンドンに行っちゃってもずっと続けたし、バレエも習い始めた。モダンダンスやボイトレも始めて、歌えて踊れるようになってきて、どんどん舞台が楽しくなってきて。頑張って挑んだおかげで聖翔音楽学園にも入学できて、みんなと、ひかりちゃんとまた会うことができた」

愛城華恋「ひかりちゃんとの約束があったから、ここまで来れた。ひかりちゃんとの約束があったから、ここに立てた。やっぱり私にとって、舞台はひかりちゃん」
神楽ひかり「それはあなたの思い出?それともこの舞台のセリフ?」
愛城華恋「えっ?」
(幕が上がる)

愛城華恋「見られてる……誰かに……」
神楽ひかり「観客が望んでいるのよ。私たちの舞台を」
愛城華恋「客席ってこんなに近かった?」
神楽ひかり「そうよ」
愛城華恋「照明ってこんなに暑かった?」
神楽ひかり「そうよ」
愛城華恋「舞台ってこんなに怖いところだったの?」
神楽ひかり「そうよ」
愛城華恋「みんな、こんな怖いなかにいたの?ひかりちゃんも?」
神楽ひかり「そうよ」
愛城華恋「なのに私は見えてなかったんだ……ひかりちゃんしか…………どうしよう……なんにもないや……スタァライトを演じきったら……どうしよう……ひかりちゃん……」
神楽ひかり「私は演じ続ける」
愛城華恋「スタァライトを演じきったら……」
神楽ひかり「そして次の舞台へ」
愛城華恋「なんにもない……私は……」
(華恋、涙をこぼすと同時にトマトが弾け、倒れる)

このシーンでまず重要なのは、愛城華恋が「やっぱり私にとって、舞台はひかりちゃん」と言っていることである。華恋が演劇を続けてきたのは、神楽ひかりと交わした約束があったからである。だが、その約束はテレビアニメ版で叶えられた。約束ブリッジが2人をつなぎ、運命の舞台を演じることができた。でも、愛城華恋はその約束から離れられていない。だから、気づかない間に「立つべき舞台」に立たされていることを自覚して、倒れるのである。
それに対して、神楽ひかりは競演のレヴューを通して約束から離れ、立つべき舞台を自覚して覚悟を持って演じ続けることを選ぶ。そして、ひかりは自身の過去を「回想」し、華恋に舞台少女として生き返らせてもらったことを思い出す。今度は自分が華恋を生き返らせるため、ひかりから華恋に向けた約束の象徴である手紙とともに、華恋を塔から落とす。

ここで「回想」という要素について語っておかなくてはならない。『劇場版』全体を見たとき、愛城華恋の過去が何度か描かれる。本稿の見立てでは、これは愛城華恋による「回想」である。
華恋の回想が挿入される意図として、視聴者が持つ愛城華恋の解像度を上げることがまず考えられる。テレビアニメ版では愛城華恋の内面については詳しく触れられず、スーパーヒーロー的に描写されてしまったと、古川監督自らインタビューで語っている。『劇場版』の回想で、特に迷いや臆病さを含む過去について描写することは、愛城華恋の解像度を高め行動原理を理解したり、視聴者自らの経験に照らし合わせて感情移入を促す効果を持つ。
しかし本稿では、物語のなかで必要だったから回想シーンが挿入されたと考えたい。それはつまり、「愛城華恋が、自身の過去を振り返っている」ということである。
幼少期の愛城華恋は引っ込み思案だった。引っ越してきた神楽ひかりが堂々としているのに対し、華恋は母親の後ろに隠れている。周りの子供に合わせて消極的にキラミラを遊んでいる。ところが、神楽ひかりに影響されて少しずつ積極的になっていく。カスタネットのシーンは2人の波長が合い積極的になっていくところを象徴している。そして、ひかりに誘われて観た『戯曲スタァライト』で舞台の綺麗さに圧倒され、演劇へと惹かれていく。そして『青空の向こうに』では主役を演じ、友人との時間もそこそこにボイトレにも通う。その一方で、神楽ひかりとの約束に自信を持てなくなって迷ってしまう。

愛城華恋は回想のなかで、自身の過去を見つめ直す。すなわち、愛城華恋は「自己批評」する。そして、そこで華恋が気づいたことはなんだろうか?それは、先ほどの引用の初めにあらわれている、「どんどん舞台が楽しくなってきて」なのではないだろうか。
愛城華恋の過去は、神楽ひかりとの約束で紡がれてきた。2人で舞台に立つ約束を叶えるために演劇をしてきた。だがその一方で、演劇そのものを好きになっている愛城華恋がいたのではないだろうか?そこにこそ愛城華恋が「立つべき舞台」がある。
だから、塔から落とされた愛城華恋は、神楽ひかりにもらった約束の手紙をエンジンの炎で燃やし尽くす。まるで自分の過去を紡いできた「作者」を殺すかのように。ならば、紡がれた過去をどう解釈するかは「読者」に委ねられている。だから愛城華恋は次の舞台へ進めるのだ。約束を燃料にして愛城華恋は「再生産」し、舞台の約束タワーへと再び舞い戻る。

だが、「最後のセリフ」はそれでは終わらない。なぜなら、約束ではない形で、神楽ひかりと出会い直さなければならないからだ。つまり、神楽ひかりとの出会いも「批評(=再解釈)」されなければならない。
愛城華恋は神楽ひかりと相対し、ひかりのキラめきを正面から受け取って、言うべき最後のセリフに気がつく。

わたしも、ひかりに負けたくない

2人はライバルという形で出会い直す。そうして約束の舞台のタワーは華恋のキラめきで飛ばされ、2人は「ポジションゼロ」を宣言し、次の舞台へと向かう。

最後に残った疑問がある。再生産とは、ポジションゼロとは、なんだったのだろうか?
まず再生産とは、「批評」である。自分や自分たちの過去を見つめ直し、今の自分の立場から再解釈して提示することである。
そしてポジションゼロとは、「ある時点での解釈」のことだろう。テレビアニメ版を含め何度もポジションゼロは宣言された。それら1つ1つがその時点での解釈を指している。そして、ポジションゼロは再生産によって更新され続けなくてはならない。解釈を「批評」を通して更新し続ける、それが「列車は必ず次の駅へ」が意味するところだろう。
ポジションゼロはテクストに矛盾しないように紡がれなければならない。つまり、過去を解釈し直して、それを貫くような新たなアイデンティティを見つけ、自らを更新する。それこそが再生産-ポジションゼロであり、つまりは主体的に生きるということなのではないだろうか。

2人のスタァライト辿ればアタシはアタシに生まれ変わる

参考文献

補論

卒論合同誌の寄稿文との関係

卒論合同誌に、『大場ななの二面性に関する考察』という文章を寄稿しました。今から振り返ると内容について思うところもあるのですが、最後の1段落について追加で補足しておくことにします。

点が2つあれば、そこに線を引くことができる。第99回聖翔祭と「狩りのレヴュー」という2つの強いキラめきを受け取った大場ななは、その2つを結ぶ線の先にある次の舞台へと進んでいくことができる。だから「狩りのレヴュー」をポジションゼロとして、再演は終わったのだ。たとえ孤独でも、2つのキラめきの先にきっと次のキラめきが待っているはずだから。

言いたいこととしては「2つのキラめきを結んだ直線上に、次のキラめきがある」ということです。

本稿では、このイメージを訂正しています。再生産によって生み出されるポジションゼロが線分の連なりを形成し、それが「歪みのある直線」として機能するようなイメージをします。次のポジションゼロへはその「直線」によって方向づけられるものの、歪んでいるがゆえに方向は1つには定まらず、ある程度の方向だけが決まっている状態です。

「歪みのある直線」は、つまりは「アイデンティティ」のことです。新たなポジションゼロが生まれれば、それまでとはまた違う「歪みのある直線」が現れます。次にどこにポジションゼロを生み出せるかはわかりません。ですが、その「直線」が示す先の、どこかにあるはずです。

歩んできた道は歪んでいていい、これから歩む道も歪んでいていい。過去に折り合いをつけながら自由に生きればいい。
『劇場版』はともすれば、演劇のために生活を犠牲にしなくてはならないというメッセージにも読めてしまいます。たしかにその解釈も正しいはずです。ですがその一方で、「もっと自由に生きていい」というメッセージも我々に投げかけている、と思うのです。

執筆意図・あとがき

本稿で「批評」というテーマを扱おうと思ったきっかけは、レヴュースタァライト考察同人誌『卒論合同』のオフ会で『ロンド・ロンド・ロンド』を見たことでした。愛城華恋が『戯曲スタァライト』を初めて読んで、これまでに見た『戯曲スタァライト』にはなかった要素を発見し続きを描く、という行為はまさに二次創作であり、批評であると思ったためです。その気付きから考えを巡らせてみると、この「批評」的行為は『レヴュースタァライト』全体を貫く大きなテーマなのかもしれないと思うようになりました。
そのわりに、インターネットや『卒論合同』を見てみても、愛城華恋の再解釈から『劇場版』について詳しく書かれたものは少ないように思います。そのため、ちょうど「学会発表オフ会」が開催されるとのアナウンスがあったので、それに合わせて考えをまとめて発表しました。
そこから半年ブログに起こすのをサボっていたのですが、『遙かなるエルドラド』が発売される前にちゃんとまとめようと思い、本稿を書くことにしました。

あまりまとめるのは得意ではないのですが、本稿を簡単にまとめると、「批評」とはテクストに矛盾しない範囲で別の解釈をすることであり、テクストとは『戯曲スタァライト』のような作品であったり、自分の過去だったりを指します。そして、それがテレビアニメ版『レヴュースタァライト』および『劇場版』を通して貫かれてきたテーマなのだ、ということになります。
とはいえ本稿が言いたいことはそこではなく、『劇場版』の一番のメッセージは「自分の過去を見つめて解釈しなおすことで、これまでと別のアイデンティティが生まれ、そこに自分のアイデンティティを更新しながら人は生きている」ということです。
これは明らかに我々に向けられたメッセージであり、我々がもう舞台の上に乗っていると自覚させるメッセージです。であれば、投げられたトマトをしっかり受け取る必要があります。

本稿が誰かの役に立てば幸いです。

関連項目

東浩紀『訂正可能性の哲学』・千葉雅也『勉強の哲学』『現代思想入門』

『訂正可能性の哲学』では「訂正」という概念が取り上げられています。この「訂正」は、単に「誤りを正す」という意味だけでなく、子供が生まれたり人が死ぬことを「家族の訂正」と捉えるような、漠然と「変わること」「変えること」を意味する語としても使われています。そして、子供が生まれても家族は変わらないように、その「訂正」の前後でアイデンティティ(のようなもの)はそのまま持続します。つまり、私や共同体といったものには「変わっているのに変わっていない」場合がありえるのです。
これは本稿の再生産のイメージの元になっており、「批評」「再生産」とは、「訂正」のことであるといえるでしょう。

ぼくたちはつねに誤る。だからそれを正す。そしてまた誤る。その連鎖が生きるということであり、つくるということであり、責任を取るということだ。(p.343)

『勉強の哲学』『現代思想入門』では、「仮固定」というイメージが登場します。あらゆるものはいずれ変化するが、その一方で一時的に変化しない状態もある、その一時的な不変が「仮固定」です。
私はこの「仮固定」をゲームのセーブポイントのようなものとして認識しており、本稿のポジションゼロはそのような「仮固定」のイメージで捉えています。

また、これらの本からも分かる通り、本稿はポスト構造主義が着想のベースにあり、「批評」は「脱構築」を念頭においたものになっています。
脱構築とは、構造を詳細に検討することでその構造自体が綻びを持っていることを明らかにし、その綻びを元に構造を揺らがせ変化させる、ということです。「テクストを詳細に検討して、テクストに沿った形で別の解釈を見出す」という形の「批評」はこの脱構築のプロセスに合致していると言えると思います。
(とはいえ筆者は哲学は独学なので、誤りを多く含んでいる可能性があります)

A.エイトー『スタァライトとその分身』

卒論合同誌から論旨が近いものを挙げるとすれば、A.エイトーさんの『スタァライトとその分身』があります。
A.エイトーさんの論旨は多岐にわたるのですが、私の論旨に合わせて簡単にまとめると、アントナン・アルトーの「分身(double)」という概念を用い、元の自分から少しズレた分身(double)へと重なる(double)ようにして自分を更新する、それこそが「再生産」であるというものになっています。
本稿に近づけると、自分の過去で制限される範囲で分身はズレており、そのズレを新たなアイデンティティとして引き受けることで自分を更新する、というものになると思います。

A.エイトーさんは「翻訳」ということを重視されていますが、本稿では翻訳については取り上げませんでした。というのには、ポスト構造主義がベースにある以上、読解という行為自体の「翻訳」の要素を重視するべきではないか、と思ったためです。

ねぼろく『劇場版の「市民革命」と「脱構築」』

ほかに論旨として近いものは、ねぼろくさんの『劇場版の「市民革命」と「脱構築」』があります。
論旨を軽くまとめます。「市民革命」のなかでも代表的なアメリカ独立運動とフランス革命のモチーフを『劇場版』のなかに見いだすことができ、その下剋上的なプロセスによって階層構造が解体されることは「脱構築」といえます。『劇場版』では複数の二項対立が脱構築されていて、具体的には、フローラ-クレール / 演じるもの-作るもの / 見せるもの-見るもの / 人間-動物が脱構築されていることが丁寧に考察されています。

論旨は概ね納得なのですが、脱構築は二項対立を壊すだけでなく、別の二項対立への着地という側面も持ち合わせているように思います。とすれば、『劇場版』で4つの脱構築が平等を志向した後、どこに着地するのでしょうか?

そのほか

第101回聖翔祭の解釈については、まるのゐさんの『第101回聖翔祭は何故劇場版で描かれなかったのか』(卒論合同誌)から着想を得ました。私の見解としては、折に触れて振り返るべきものだが、作劇上推測できるので省かれたという立場です。

また、アイデンティティの面では下記を参考にしました。

最後に

私は塔に囚われたクレールなので、気軽にご感想・ご質問を持って塔に登ってきてください。


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