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大場ななの二面性に関する考察

ささらふ
https://twitter.com/sasarafu17

 本稿では、TVアニメ『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下テレビアニメ版)と『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』(以下『ロンドロンドロンド』)を特に区別せず、いずれも『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下劇場版)に繋がる物語として扱う。また、以下ではこの3作品を総称して『レヴュースタァライト』と表記する。


1.大場ななと二面性

 フィクションのキャラクターは必ずしも一面的に描かれるわけではなく、むしろ複数の側面から描かれることによりキャラクターに深みが生まれる。『レヴュースタァライト』においても、キャラクターは様々な側面から描かれている。例えば、天堂真矢はストイックにスタァを目指す姿が描かれると同時に、バウムクーヘンを好んだりするような等身大の側面も描かれ、そのギャップが魅力に繋がっている。愛城華恋は友人たちの前ではいつでも明るく振る舞う一方で、1人で悩む姿や幼少期の引っ込み思案な様子も描かれており、その違いに観客は人間らしさを感じ感情移入できるようになる。

 そして本稿で取り上げる大場ななにも二面性を見ることができる。「皆殺しのレヴュー」で刀を振りかざし、容赦なく斬りかかる姿に対して星見純那が「こんななな、知らない」と言っていることからもわかるように、大場ななは日常では優しい一方でレヴューでは残酷になる。しかし本稿ではこの「優しさと残酷さ」の二面性については直接取り上げず、このさらに背後にある2種類の二面性について検討し、それらを通して「優しさと残酷さ」の二面性について考察したい。

 背後にある二面性のうちの1つは、劇場版における大場ななにとってのテーマであった「俳優と裏方」の二面性である。大場ななは、メインキャラクター9人の中で唯一裏方としての姿が描かれる。これは、舞台の外からの視点を持っており、舞台に立つ俳優をメタな視点から眺められることを意味する。テレビアニメ版と比べて『ロンドロンドロンド』では、大場なながキリンと直接対話するシーンが描かれるなど、このメタ性が直接的に描写される。このメタ視点は先の二面性におけるレヴューの残酷さと繋がっていると考えられる。

 そしてもう1 つは「母と子」の二面性である。大場ななは、キャラクター紹介で“「お母さん」的舞台少女” と書かれており(*1)、料理を振る舞うなど母親的な存在として描かれる。その一方で、テレビアニメ版第9話では星見純那に背中を押されて泣いてしまう子供っぽさも描かれる。露崎まひるが面倒見のいい「お姉さん」であるのが家庭に由来する(*2)のに対して、大場ななにはそのような背景描写はなく、ある種の解離すら感じさせる。この二面性は日常の優しさに繋がっている。

 本稿では、この2つの二面性に着目して議論を行う。2章では、ループものの他作品との比較から『レヴュースタァライト』のループがユートピアループものとサバイバルループものの接合であることを指摘する。3章では、2章の議論を踏まえ、この構造が大場ななの二面性を強化したことを説明する。4章では、劇場版の「狩りのレヴュー」における「終わったのかもしれない、私の再演が今」というセリフから2つのレヴューと二面性の関係について考察する。


*1 Project Revue Starlight. キャラクター. https://revuestarlight.com/animation/character/?id=nana (最終閲覧日2022/04/01)

*2 轟斗ソラ, 中村彼方. 少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア.KADOKAWA. 2018. (第2幕)

2.『レヴュースタァライト』とループもの

 大場ななは第99回聖翔祭を繰り返していた。『レヴュースタァライト』における再演のように、同じ出来事や時間を何度も繰り返す構造を持つ作品は「ループもの」と総称される。

 大場ななの再演についての考察として、LWによるブログ記事『少女歌劇7話の感想』(*3)がある。ここでLWは、「セカイ系」「ユートピア」「ループもの」という3要素に着目することで、テレビアニメ版を他作品と比較検討した。これによると、——本稿ではセカイ系の要素を取り扱わないため省略するが—— 『レヴュースタァライト』は「ユートピア」と「ループもの」の要素を併せ持つ作品に分類され、『涼宮ハルヒ』シリーズの短編である『エンドレスエイト』(*4)や『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(以下『ビューティフルドリーマー』)(*5)と同じカテゴリに属している。

 LWはユートピアを「個人ないし集団から見た理想的な仮想世界を含む作品」と定義している。この定義をよりループものに近づけて解釈すると、理想的な時間を求めるような物語のことだといえる。ユートピアのループものの例に挙げられている2作品であれば、『エンドレスエイト』は夏休みにやり残したことがあるという物足りなさから、涼宮ハルヒ本人が無意識のうちに夏休みの15日間を何度も繰り返す話であり、『ビューティフルドリーマー』は文化祭の前日のような皆との日々を何度も繰り返したいというラムの夢が、夢邪鬼という妖怪によって実現される話である。このように、夏休みや文化祭前などの「理想的な時間を何度も経験したいために時間を巻き戻す」ことが、ユートピアかつループものの作品であるとLWは述べている。

 この観点から『レヴュースタァライト』における再演を考えてみると、大場ななは第99回聖翔祭という自分にとって理想的な時間を求めて何度も時間を戻していた。その意味で『レヴュースタァライト』は、LWが指摘するように、たしかにユートピアかつループものであるといえるだろう。

 ここまで、LWの考察について検討してきた。だがここで1つ疑問がある。『レヴュースタァライト』は本当にユートピアなのだろうか? 涼宮ハルヒとラムがループを起こすためには単に願うだけで十分であるのに対して、大場なながループを起こすためには同級生とのオーディションを勝ち抜く必要がある。つまり、大場ななにとってのオーディションは、再演を続けるために脱落してはならないサバイバルであり、同級生と戦い蹴落とさねばならないバトルロイヤルの場である(*6)。

 したがって、大場ななのループを駆動する大きな要因は“第99回聖翔祭を繰り返したい”というユートピアの側面であるが、その願望を実現する過程には“同級生たちと戦い蹴落としトップを勝ち取る”というサバイバルの側面が含まれている。つまり『レヴュースタァライト』における再演は、ユートピアループものであると同時にサバイバルループものでもある。

 この再演を巡るユートピアとサバイバルの奇妙な接合こそが、『レヴュースタァライト』のループ構造の面白さだといえる。次章では、再演におけるユートピアとサバイバルという2つの側面が、大場ななの二面性にそれぞれ対応しており、そして二面性を強化したことを説明する。


*3 LW. 18/8/25 少女歌劇7話の感想 セカイ系・ユートピア・ループもの. https://saize-lw.hatenablog.com/entry/11677312, 2018. ( 最終閲覧日2022/04/01)

*4 谷川流. 涼宮ハルヒの暴走. KADOKAWA. 2004.

*5 押井守. うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー. 東宝. 1984.

*6 ここで登場するサバイバルやバトルロイヤルという語は、宇野常寛が『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛. ゼロ年代の想像力. 早川書房. 2011.) で「サヴァイヴ系」と呼んだものを想定している。

3.再演のループと二面性

 まず、再演におけるユートピアの側面は「母と子」の二面性に対応する。

 「ループもの」は幼児性と絡めて考えることができる。あずま浩紀ひろきは『ゲーム的リアリズムの誕生』のなかで、ループものが好まれる理由として「成長を拒み、幼児性に固執する(少なくともそう見られている)オタクたちにとって、とりわけ感情移入をしやすいものなのかもしれない」と述べている(*7)。この指摘は過度にオタク批判的であることに注意が必要なものの(*8)、ループを望む動機には時間が進むことや納得できないことを否定しようとする幼児性があるといえるだろう。

 実際に大場ななは、小学校から転校が多く中学の演劇部でも孤独であった描写があるほか(*9)(*10)、テレビアニメ版の前日譚である『少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア』でも2度孤独に関する記述がなされており(*11)、大場ななにとって過去の孤独が大きなトラウマになっていることがうかがえる。だから、大場ななは第99回聖翔祭で皆と舞台を作れたことに執着し、第100回聖翔祭へ向かうことを拒否しようとする。すなわち、大場ななの再演は孤独でなかった理想的な時間を繰り返したいという幼児的な願いによるものだといえる。

 一方で、皆が傷つかなくて済むようにという母親的な願いはどうだろうか。大場ななは作中で母親的な振る舞いをし皆に慕われているが、その振る舞いには同じく孤独への恐れがあるといえる。皆のために世話を焼き必要とされることで自らの存在意義を確保し、孤独を避けようとする振る舞いは幼児性の裏返しでもある。大場ななは孤独を避けるために、第99回聖翔祭と
いうユートピアを求めてループを繰り返した。だが皮肉にも、再演のたびに周囲の同級生の記憶は失われ、大場ななの孤独は埋められるどころか増してしまう(*12)。だから、大場ななはいっそう母親的な振る舞いをし孤独を癒そうとする。

 すなわち、ループを繰り返すことによって大場ななの第99回聖翔祭への子供的な執着と皆への母親的な執着は強化されてしまう。したがって、大場ななの「母と子」の二面性はともに、孤独を避け理想的な時間を繰り返したいというユートピアのループものと対応するといえる。

 次に、再演におけるサバイバルの側面は「俳優と裏方」の二面性に対応する。

 サバイバルループものにおいて重要な鍵となるのは、前回までのループでの経験である。サバイバルをうまく切り抜けるため、どう立ち回るべきかを前回までに得た知識や試行錯誤を基に考えることが重要となる。例えば『魔法少女まどか☆マギカ』では、暁美あけみほむらはループの中で自らの戦闘能力を向上させ、ワルプルギスの夜を倒し鹿目かなめまどかを救うことを目指していた(*13)。

 大場ななは、テレビアニメ版第7話で描かれるようにループ前の時点で既に天堂真矢を超える実力を持っていたが、再演を途切れることなく続けられるほどの圧倒的な実力の裏には、ループの中で役者としての経験を積んだことがあるといえるだろう。一方で、ループによって生まれた時間によって脚本や大道具の経験も積むことができ、大場ななは俳優としての力だけではなく裏方としての力も強化・獲得することができた。この点で、サバイバルのループものは「俳優と裏方」という二面性を強化したといえる。

 そして、この二面性はいずれもループを終端させることができない。大場ななは第99回聖翔祭の「燃える宝石のようなキラめき」を求めてループをしていた。その再演の結果として、強いキラめきを得られた場合には再度そのキラめきを求めてループをするし、もしそれに手が届かなくても再度ループしてキラめきを求めればよい。

 さらに孤独を避けようとする幼児性と母親性は再演のたびに強化されてしまい、再演を止めることはできないし、俳優としての経験はオーディションの勝ち抜きを容易にして再演を繰り返しやすくしてしまう。大場ななは第9話で、再演の中で皆の変化の眩しさに気づきながらも再演をやめられなかったことを述べるが、それはまさにループを止める方法がループの内側にはなかったことを意味している。だからこそ、ループを終端させるにはループの外側から愛城華恋が飛び入り参加する必要があったのである。


*7 東浩紀. ゲーム的リアリズムの誕生. 講談社. 2007. (p.160)

*8 発行された2007年当時はまだオタクが現在ほど受け入れられていなかったことを考えれば、このような書き方になっている理由がわかると思われる。例えば『未知との遭遇』(佐々木敦. 未知との遭遇【完全版】. 星海社. 2016.(p.79))では、オタクにまつわる作品や事件などを引用しながら「「オタク」という概念、「オタク」というメンタリティをめぐる、ポジティヴな評価とネガティヴな評価が、ゼロ年代の半ばぐらいから大きく拮抗してくる、といった印象があります。」という記述があり、このような背景のなかで書かれていることには注意が必要である。

*9 Project Revue Starlight. 劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」パンフレット.

*10 テレビアニメ版第7話

*11 轟斗ソラ, 中村彼方. 少女☆歌劇 レヴュースタァライト オーバーチュア.
KADOKAWA. 2018. (第3幕・第9幕)
そのほかにも、第8幕では天堂真矢が生まれながらの主役であることでさみしさを感じていないか心配するシーンも描かれる。

*12 ここのループ主体者の孤独は、東の『All You Need Is Kill』(桜坂洋. All You Need Is Kill. 集英社. 2004.)に対する指摘を元にしている。「キリヤとリタは孤独に苛まれている。なぜなら、彼らには、ほかの人々に見えないものが見えるからである。」(東浩紀. ゲーム的リアリズムの誕生. 講談社. 2007. (pp.162-163))。大場ななにも、他の8人や同級生とは決して共有できない過去のループの思い出があり、それゆえに孤独だといえる。

*13 Magica Quartet. 魔法少女まどか☆マギカ. シャフト. 2011. (第10話)

4.二面性と2つのレヴュー

 再演は愛城華恋のキラめきで終わったはずだった。だが、大場ななは「狩りのレヴュー」の最後で「終わったのかもしれない、私の再演が今」と言う。大場ななにとって、再演はまだ終わっていなかった。言い換えれば大場ななは再演が終わったことに納得できていなかったのだ。しかし「皆殺しのレヴュー」は大場ななが次の舞台に向かえていない皆を喝破するものであるから、「皆殺しのレヴュー」を行った大場ななは再演が終わったことを認識しているはずである。これは一体どういうことだろうか。

 さらに決起集会後に挟まれる古い自分と向き合うシーンでは、大場ななは自らレヴューを始めたのにもかかわらず、大場なな自身も古い自分が死んだ姿と向き合う。そしてそこでの「私も、自分の役に戻ろう」というセリフは、自らの中に“自分の役”と“そうでない役”の2つがあるということを示唆する。そして、「皆殺しのレヴュー」の大場ななは“そうでない役”であり、「狩りのレヴュー」の大場ななは“自分の役”であったといえるだろう。

 このように、劇場版で描かれる大場ななを巡る2つのレヴューにはある種の矛盾や解離を見ることができる。そこで本章では、ここまで検討した二面性を鍵として、これらのレヴューを読み解いていく。

「皆殺しのレヴュー」

 「皆殺しのレヴュー」を演じた大場ななは再演が終わったことを認識していた。再演も第100回聖翔祭も終わり、前に進まなければならないと認識しているからこそ、皆を叱責することができる。この「再演が終わったことを認識している大場なな」とは、メタに筋書きを考えることができる存在、つまり、裏方としての大場ななであると考えられる。そして同時に、6人が舞台に向かえておらず弱いとはいえ、1人で圧倒することを考えれば、ループ内で経験を積んだ俳優としての大場ななだと考えてよいだろう(*14)。つまり「皆殺しのレヴュー」を主演したのは、経験を踏まえた俳優と裏方の二面性と結びついた大場ななであるといえる。

 そして、この舞台の外からメタに見ることができる大場ななは、自らの中にも次の舞台に向かえていない自分がいることを自覚する。それこそがまさに日常側の、母親性と幼児性からなる大場ななである。古い自分と向き合うシーンは、他の6人が心残りや過去に囚われている自分と向き合う一方で、大場ななはこのような2種類の二面性と向き合っている。すなわち、「皆殺しのレヴュー」は他の6人を叱責するレヴューでありながら、大場ななの内にいるもう1人の大場ななを叱責するレヴューでもある。

 少し脱線するが、「皆殺しのレヴュー」においてはもう1つ大場ななのメタ性を読み解くことができるシーンがある。それは大場ななと愛城華恋だけが電車に乗り対話するシーンである。「でもみんな新しい役、立つべき舞台を求めて、すぐに飢えて渇いて」というセリフからわかるように、他の6人は自分が立ち止まってしまっていることに気づけば自然と次の舞台へと向かうことができる。だが愛城華恋はそうではない。愛城華恋は道を見失ってしまっている。神楽ひかりとの約束の『戯曲 スタァライト』しか愛城華恋の向かう先はなく、その先へと進むことはできない。そのことをメタに理解していた大場ななは愛城華恋を他の6人と一緒にレヴューに参加させるのではなく、進むべき道を探すよう促すための対話の場を用意したのだと考えられるだろう(*15)(*16)。


*14 ここで天堂真矢を他の5人とまとめることには解釈が分かれるだろうが、本稿においては詳しくは取り扱わない。本稿では、「皆殺しのレヴュー」の最後で電車を切り離される側にいることから、特に天堂真矢を他の5 人とは区別せず「6人」という表記を用いた。

*15 この愛城華恋と他の6人の違いは、「最後のセリフ」の前のシーンで『戯曲 スタァライト』から進めずに死んでしまう愛城華恋と次の舞台へ向かおうとする神楽ひかりの対比としてより鮮明に描かれる。神楽ひかりはイギリスに逃げようとしていたところをキリンに導かれて戻り、「競演のレヴュー」で“殺され”、キリンとの対話でトマトを受け取る。「競演のレヴュー」とキリンとの対話が「皆殺しのレヴュー」に相当し、神楽ひかりは次の舞台へ向かうことができるようになった。

*16 愛城華恋との対話の後に「私も帰らなきゃ」というセリフがあること、「皆殺しのレヴュー」で刀が遅れて来ることから、この対話と「皆殺しのレヴュー」は同時に行われていたと考えることができる。そして、対話が愛城華恋を導く優しさであり、「皆殺しのレヴュー」が皆を叱責する残酷さであると考えれば、この分裂は二面性の1つと解釈することができるだろう。

「狩りのレヴュー」

 「皆殺しのレヴュー」は俳優と裏方の二面性によって演じられたが、「狩りのレヴュー」を演じたのは、幼児性と母親性の、すなわち再演が終わったことを受け入れられていない大場ななである。「狩りのレヴュー」において執着する対象であったのは再演だけではなかった。眩しかった星見純那もまた執着の対象である。「終わったのかもしれない、私の再演が今」というセリフが出てくるためには、再演や星見純那への執着を解決する必要がある。

 大場ななは、より強いキラめきを求めて再演のループに囚われていた。しかし愛城華恋の飛び入りによって再演は終わり、大場ななも前を向いて進もうとしている。ならば、そのようなループを抜けた状況においては、より強いキラめきを受け取ることで執着を完全に断ち切ることができるのではないだろうか。そして「狩りのレヴュー」の星見純那は、そのような強いキラめきを達成することができた。

 星見純那のキラめきは、まず母親性にとっては子離れを可能にした。母親的存在の大場ななにとって99期生の皆は守る対象であったが、卒業すればそれぞれ異なる次の舞台へと進んでいく。子離れに必要なのは、他人の成長を受け止めて執着をやめることである。最後にお互いをフルネームで呼び合うシーンでは、星見純那が成長し、既に自分が執着していた星見純那ではなくなったことを認め、1人の人間として尊重することができるようになったことがうかがえる。

 また幼児性にとっては、キラめきの上書きを可能にしたといえる。大場ななが再演に執着していたのは第99回聖翔祭が眩しいからである。「狩りのレヴュー」の星見純那のキラめきは第99回聖翔祭の「燃える宝石のようなキラめき」に匹敵するほどの強さであった。このような強いキラめきを受けたからこそ、大場ななは第99回聖翔祭へ執着する再演が終わったことを実感するのである。

 点が2つあれば、そこに線を引くことができる。第99回聖翔祭と「狩りのレヴュー」という2つの強いキラめきを受け取った大場ななは、その2つを結ぶ線の先にある次の舞台へと進んでいくことができる。だから「狩りのレヴュー」をポジションゼロとして、再演は終わったのだ。たとえ孤独でも、2つのキラめきの先にきっと次のキラめきが待っているはずだから。

5.おわりに

 本稿では、大場ななの日常での優しさとレヴューでの残酷さという二面性の背後に、さらに母と子という二面性と、俳優と裏方という二面性があることに着目した。『レヴュースタァライト』における再演のループは、ユートピアループものとサバイバルループものの2つの側面があることを指摘し、前者が母と子の二面性を、後者が俳優と裏方の二面性をそれぞれ強化することを論じた。また、この二面性の観点から劇場版の2つのレヴューについて考察し、「皆殺しのレヴュー」においては俳優と裏方の、「狩りのレヴュー」は母と子の側面を持つ大場ななが主演した可能性について論じ、「狩りのレヴュー」が再演を真の意味で終わらせることができた理由について考察した。

 2つのレヴューで二面性がきれいに分かれているわけではないなど、筆者の力不足により穴の多い論考となってしまった。それでも、もし読者の皆様に何か有用なアイデアを提供できていれば幸いである。

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