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なぜ思春期の可能性は折れなければならないのか? 〜再生産のレヴューについて〜

タモスケ
https://twitter.com/NewName_NoIdea


1.はじめに

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』(以下、新作劇場版)とは、魅力的なキャラクターと楽曲、その他様々な要素が織りなす珠玉のマスターピースであり、舞台創造科たる我々に様々な感情のぶつかり合いともいえるであろうレヴューを見せてくれた作品だ。そのクライマックスが、劇中ではレヴュー名が示されず、「最後のセリフ」とだけテロップされた「再生産のレヴュー」(*1)である。

 このレヴューで自分はずっと違和感を覚えていた部分がある。それはレヴューの最後、ひかりに言うべき最後のセリフが華恋の心に浮かんだ時、彼女の剣が折れるシーンだ。この剣の名前は「Possibility of Puberty」、直訳すると「思春期の可能性」である。このシーンの後、華恋は「ひかりに負けたくない」と思いを吐露する。そしてこれまでの、「2人で一緒にスタァになる」という同じ方向を見ながら並び立つ関係性から、ライバルとして自分の力で立ち上がった上で向かい合い競い合うという新たな可能性への再生産を見せてくれるのである。だというのに、なぜ可能性の名を冠する武器が折れなければならないのか? 本論文ではその理由を考察していきたい。


*1 『アニメディア2021年10月号』学研プラス、2021、p.103

2.再生産のレヴューとは

 Possibility of Pubertyが折れた理由の考察に入る前に、まず再生産のレヴューの復習と考察を行いたい。再生産のレヴューとは、一言で表すならば華恋とひかりそれぞれ、および2人の関係性の再生産を行うものであろう。このレヴューを経て、2人はそれぞれが1人で立つことのできるライバルに再生産されたといえる。

 新作劇場版では、テレビシリーズと対比するかのように、華恋は塔を登っていった先でひかりと対面した。その場でひかりに対して、華恋はこれまでと変わらず、自分にとって舞台はひかりであると告げるが、ひかりは本当にそれが華恋の真意なのかと問いかける。ここまで、華恋はひかりやスタァライトへの思いだけを胸に舞台に立っていた。しかし、ひかりの問いによりその思いが揺らいだことで、舞台に立つ意味すらも揺らいでしまう。その結果、一度は舞台少女としては死亡してしまった。華恋の死にひかりは慟哭し、自分が華恋のファンになってしまうことに恐怖していたと告白する。しかしそれでも、ひかりは親友を新たな舞台へ導くため、「舞台で待ってる」という宣言と共に手紙を華恋に送った。この手紙を送るという行為は、幼少期の華恋とひかりが手紙をきっかけに「スタァライト」を観劇したことで、その後の彼女たちの人生や精神を形作ったことを想起させる。これはつまり、前記の2人の過去と同じように新たな創造が起きることを表していると筆者は解釈した。

 また、ひかりが「舞台で待ってる」と宣言したことから、彼女は華恋との関係に怯えていた自分に別れを告げ、1人の舞台少女として華恋と対面する、つまりひかり自身も新たな自分を再生産する決意を固めたことも読み取れる。そんなひかりから手紙を受け取ったことで、華恋は過去を燃やし尽くし、ひかりと「スタァライト」を初めて観劇したあの時のように、新たな舞台へ向かう自分を無事に再生産することができた。生まれ変わった華恋は、スタァライトやひかりへの思いとは関係のない、自らの力で積み重ねてきたものも確かな土台となっている華恋と表現できる。つまり、新たな舞台へ向かうための備えが整った状態と表現できるだろう。

 その後華恋はひかりの元へと辿り着く。そんな華恋に対し、ひかりは「私が、スタァだ」と宣戦布告をする。この宣戦布告によりひかりは彼女自身の決意通り、1人の舞台少女としての再生産の時を迎える。こうして生まれた新たなひかりが放つキラめきを浴びて、華恋は自分の言うべきセリフを自覚したのである。この言うべきセリフ「私も、ひかりに負けたくない」こそが、華恋とひかりの関係性の再生産を行うためのトリガーだった。このセリフが発されたことで、2人の関係はライバルとなり、ワイルドスクリーンバロックは終幕した。

 新作劇場版の発表までに、『少女☆歌劇 レヴュースタァライト』は、様々な媒体で展開されてきた。その中で、アニメと双璧を成す媒体である『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE- #2』や『少女☆歌劇 レヴュースタァライト -The LIVE ONLINE-』などの舞で、ひかりは自分がこれからやりたいことなど、未来への展望を披露できていた。しかし、華恋にはそういった描写はない。

 『劇場版再生産総集編「少女☆歌劇 レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド」』のパンフレットで披露された聖翔音楽学園の入学願書に記されていた将来の目標が、テレビシリーズ最終回までに達成できてしまったと考えられるのは華恋・ひかり・ななの3人だ(*2)。しかし、ひかりは上述した通り自らの新たな目標を手に入れ、ななはテレビシリーズで繰り広げられた物語の中で、再演の先にある初めての未来に踏み出すことが出来た。先に挙げた3人の中で、学校を卒業した後の新たな目標を見つけるということがこれまで描写されてこなかったのは華恋だけである。再生産のレヴューは、新たな舞台が見つけられずに舞台少女としての死を迎えかねなかった華恋が、舞台少女でいるために臨まなければならなかったレヴューだったのだ。


*2 本考察では、華恋・ひかり・ななの将来の目標を以下のように解釈している。
 華恋の目標:ひかりと二人でスタァライトの舞台に立ち、スタァになる
 ひかりの目標:華恋と二人でスタァライトの舞台に立ち、スタァになる
 ななの目標:聖翔でみんなと一緒に舞台を作る

3.Possibility of Pubertyが折れた意味

 Possibility of Pubertyが折れてしまった理由についての考察に移る。2章で華恋とひかり、および2人の関係性の再生産が行われたと書いたが、この時に華恋の思春期も終わったから、というのが私の導いた答えである。

 思春期は、日本では「中学生からおおむね18歳まで」が該当する期間と定義されており(*3)、エリクソンの漸成的発達理論では青年期に含まれる。エリクソンはこの「青年期」について13歳ごろからの「自分とは何者か、自分は何になりたいのかについて考える時期」としている(*4)。つまり、この期間は自我や自己同一性(アイデンティティ)を育み、社会での中の自分の立ち位置、自分と他者との関係性を見極めようとする期間である(*5)。

 華恋は高校生までの思春期の期間で、舞台に飛び込みひかりと2人でスタァライトするための努力を重ねてきた。舞台少女たちが持つ武器は彼女たち自身のキラめきの象徴という解釈が存在することは、少しでも考察畑に触れたことのある舞台創造科各位であればご存じのことと思う。この線で解釈を行うとPossibility of Pubertyは「ひかりと2人でスタァライトするため」のキラめきの象徴だと捉えることができる。更にこの剣を振るう華恋自身もその目的のために作り上げた「自分自身=アイデンティティ」といえる。しかし「2人で演じたスタァライトの次の舞台を見つける」という目的に照らし合わせると、「ひかりと2人でスタァライトするため」に特化したキラめきや自我をいつまでも持ち続けていては、次へ進むことが出来ない。であれば、「新たな舞台へ向かうための再生産=思春期の終わり」に伴って、過去のキラめきの象徴たる剣もその役目を終えたのだと考える。


*3 子ども・若者育成支援推進本部『子供・若者育成支援推進大綱~全ての子供・若者が自らの居場所を得て、成長・活躍できる社会を目指して~』https://www8.cao.go.jp/youth/suisin/pdf/r03-taikou.pdf、2022/03/20 閲覧

*4 小森大輝『看護roo! エリクソンの漸成的発達理論』https://www.kangoroo.com/word/21198 2019/03/18 更新、2022/03/20 閲覧

*5 柏木恵子 古澤頼雄 宮下孝弘『新版/ 発達心理学への招待 人間発達をひも解く30 の扉』ミネルヴァ書房、2005、p.167-175

4.新たな「可能性」

 思春期の後も青年期は続き、前項で述べたようにこの時期に人々は社会における自己の位置を定める事となる。これは聖翔音楽学園を卒業し、社会の中で次の舞台を探しにいく華恋と重なる部分があるだろう。

 新作劇場版のポストクレジットシーンで、華恋が新たなオーディション会場で名前を呼ばれ、それに答える。その後に砂漠に突き立つ華恋の剣と、風に飛ばされ舞い上がる赤い上掛けの映像が挿入される。華恋とひかりの関係がライバルへと再生産された際に華恋の剣は折れてしまったはずなのに、どうしてまた剣が直っているのだろうか。これは、「華恋の新たな可能性」を表しているという解釈をここで示したい。

 再生産のレヴュー後、『レヴュースタァライト』を演じ切り空っぽになってしまったと自認する華恋は、新たな舞台を探しに行くようひかりに勧められ、新しい道へ踏み出すことを決意する。その後のエンドロールで、ひかりはかつてのクラスメイト達に順繰りに会いに行く。しかし、華恋にだけは彼女のオーディションの予定とバッティングしてしまい、会えなかった。そうしてひかりと会うことよりも優先したオーディション会場で、華恋は「みんなを、スタァライトしちゃいます!」と宣言するのである。

 華恋が新天地へ踏み出しているともいえるであろうこのシーンの後で剣をあえて映すということは、「新たな剣=新たな可能性」と共にあるということが表されているように思える。

 再生産のレヴューラストで華恋以外の99期生選抜組8人が上掛けを空へ投げ上げたシーンは、これまで自分たちが立っていた概念的な地点からの卒業、および新しい舞台への旅立ちのメタファーと解釈できるだろう。とすると、華恋とひかりの約束の象徴である東京タワー、その残骸から舞い上がる赤い上掛けは、華恋も同様に卒業を迎え、同時に新しい舞台へと旅立った事の象徴だと筆者はみなす。

 思春期までの華恋であれば舞台よりもひかりが先にあった。ひかりがいたから舞台に立っていたのであって、過去の華恋ならオーディションよりもひかりとの約束を優先させていたかもしれない。しかし社会に出た華恋は舞台を優先した。これこそが、彼女の新たな自我がまだ見ぬ舞台へと向かうためのものであることを表している行動であると筆者は解釈した。

 我々舞台創造科が知ることが出来る華恋は、新作劇場版劇中で表すところの「今、この時」までであるが、彼女の行く末が可能性とキラめきに溢れたものであることを祈りたい。

著者コメント(2022/10/10)

 私の文章を読んでくださり、誠にありがとうございました。自分の文章が本に載るのは自分が高校生の時以来になります。それ以来自分の文章を書いて発表するという機会から遠ざかっていたのですが、劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライトという素晴らしい作品に出会ったことで「これはなんらかの足跡をこの作品について残したいなあ」と思っていました。そんな時、天啓のようにこちらの合同誌の企画を発見し参加させていただくことをお願いしました。再生産のレヴューはこの映画の山場も山場、一番の“魅”せどころと言っても過言ではないかと思いますので、皆さんもそれぞれの考察をお持ちのことと思います。私と同じ解釈の方がいらっしゃればそれは同志がこの世に存在していて楽しいですし、私と違う解釈の方がいらっしゃれば、いろいろな解釈を読めてうれしくて楽しい(ぜひ発表してほしいです!)です。今回私が載せていただいた考察も、そのように皆さんへ影響を及ぼすことが出来ていれば、恐悦至極に存じます。

著者コメント(2023/8/31)

 タモスケと申します。新著者コメントまで読んでくださり、誠にありがとうございました。
 一つここで論文発表後に発覚した件について懺悔と言い訳があります。論文中にて『ひかりは親友を新たな舞台へ導くため、「舞台で待ってる」という宣言と共に手紙を華恋に送った。』と記述していますが、この部分、思いっきり監督の演出意図と異なっていました。当該シーンで手紙が迫ってきているのは、かつて結んだ約束が迫ってきているという表現のようです(生コメンタリー参照。オケコンrevival円盤に特典としてついてます。必見です)。 とはいえ、監督はじめ制作陣の方々は度々「答え合わせではなく、受け手がどう感じたかが大事」とおっしゃっています。私の解釈も様々な受け取り方の一つということで、何卒どうかご容赦いただけると幸いです。
 劇場版スタァライトは公開2周年、スタァライトそのものはなんと6周年を迎えましたが、いまだに度々劇スが劇場で公開されていたり、さらにスタァライト初のコンソールゲームの発売が決まっていたりします。さらにさらになんとブシロの中の人が言うところの「鬼盛り」らしい劇スの設定資料集も出ちゃいます。
 まだまだこれからもスタァライトの沼に溺れていきたいと思います。(タモスケ)

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