見出し画像

カンゲキ学校トークショー「演劇の現在地」にて、ウッチャーという存在を知る

数年前から記事などを目にすることがあったカンゲキ学校の2024年版企画で、GUKUのトークショー「演劇の現在地」に行ってきました。
会場は東京ミッドタウン日比谷の9階にあるカンファレンスルーム6、丁度、数日前に拝見させて頂いたHibiya fesutivaiステップショーの会場の直ぐ上になります。

<カンゲキ学校とは>
トークショーやレクチャー付きのパフォーマンスなど、エンターテインメントから刺激を受け、学ぶことが出来るワークショップです(公式より)。
その年により主催者が変わってるようですが、2024年はGUKUとHibiya Festival 2024のコラボだった模様。行われたプログラムは下記の3つ。
★「ひとりごとから詩をつくる」(対象10代)
★「がんばらない即興演劇」(対象6~10歳およびその保護者)
★トークイベント「演劇の現在地」(どなたでも)
対象的に参加できるのが唯一「演劇の現在地」だったから(笑)、というわけではなかったのですが、元からテーマに興味があったので。

日時:2024年5月5日16:00~18:00
ファシリテーター:徳永京子さん(演劇ジャーナリスト)

登壇者(段はなかったですが笑)は下手側から、下記4名の方々です。
 関田育子さん(「関田育子」主宰)
 池田亮さん(「ゆうめい」所属 ※先頃まで主宰さんでした)
 カゲヤマ気象台さん(「円盤に乗る派」代表)
 山田由梨さん(「贅沢貧乏」主宰)

徳永さんは演劇ジャーナリストとして以前から御活躍の方ですし、ゲストの方々も演劇好きなら、特に小劇場系を御覧になる方々なら御存知の面々ですよね。私は恥ずかしながら小劇場系に疎いもので、実際に拝見したことがあるのは「ゆうめい」の1作品のみで(池田さんの戯曲だとテラヤマキャバレーも拝見しました)、山田さんはプルカルーテ作品の演出助手として関わられた作品は拝見したことがありますが、劇団作品は未見です。
登壇された皆様のプロフィール等は、こちら ↓ を参照下さい。

こちらは ↓ は、募集時に掲載されていたトークショーの概要です。

日比谷フェスティバル X公式ツイートより引用


では、何から書き始めましょうか・・・ということで、お題目をいくつか。


<1>トーク概要

上記に貼らせて頂いた画像の中にも記載されていますが、今回のトークショーの主題です。↓

演劇は自由です。人の想像力と創造力があふれるものです。同時に、作家はこれまでの演劇文化の歴史や、現在の社会状況と向き合いながら、その表現の可能性や批評性を拡張し続けています。であるからこそ、「演劇の現在地」を探るということは、演劇のあり方のみを探求するのではなく、この社会をどう捉えてどのように働きかけるかというものとも重なっていきます。異なる表現方法を持つ劇作家4名が「演劇の現在地」をテーマに語ります。

日比谷フェスティバル X公式ツイートより引用

もう、上記の太文字部分(特に、この社会をどう捉えてどのように働きかけるか、のところ、大切!)を見掛けた時はワクワクしましたね!
そして、速攻、申込みました(笑)
で、30人募集のところの、どうやら25番目だったらしく。ギリ近くのセーフ。先着順なので、これで確定です。ほっと一息。

電子チケットなので当日は画面表示をして入場です

<2>トーク終了直後の感想

「演劇の現在地」と言っても、その方が居る場所=属性(創り手なのか、批評側なのか、興行側なのか、観客側なのか、大劇場主体なのか、小劇場主体なのか、主に行う表現のスタイルは何のか?etc・・・)によっても御自身を取り巻く「社会」は違うでしょうし、自分から見えるものが違えば「現在地だと感じているもの」も自ずと違うはず。と、いう事は、とりもなおさず、そのバラバラさ加減(な現状)が良くも悪くも日本の演劇の歴史だったり日本の演劇界の姿そのものを現わしてるんじゃないかなぁ・・・。トーク終了後そうしたことを想いました。
あ、誤解が無いように書き添えると。
そうした状況・・・例えば、色々な表現の演劇が連綿と続いてきて、今もなお、新たな芽吹きが起こってるかもしれない日本の総ての演劇(伝芸から新劇、宝塚、商業演劇、アングラ系からダンス&現代サーカス主体だったり、一つの枠に収まらないものまで含めて)を見ようと思えば日本に居ながら多種多様な世界に出会えることが楽しいし、一人の技術者(技芸者)として極めつつある人もいらっしゃれば、そうした「芸」とは真逆の表現や目的を追う方々もいらして、そうした多種多様な現代の演劇界も面白いと思ってますし、これからも「日本の演劇らしさ」として、そうした多彩な自由が続くことを願ってます。
反面、そうした歴史の影にある問題点・・・例えば「ジャンルをまたいだ横の連携が殆ど?全く?ない」「社会や日本経済との結びつきが弱いし、そうしたものを演劇界自体が軽視してきた過去がある」「創り手側のみの理屈が優先され劇場に脚を運ぶ観客側(=すなわち社会に生きている人々)との対等な関係性を考えるという概念そのものが今まで無かったか、もしくは、ごく少なかった」んじゃないかなぁ・・・と個人的にずっと感じているんですね。

そうした危惧が露呈したのが2020年パンデミックの時で、「演劇は不要不急なのか?」と問われたことを記憶なさってらっしゃる方々も多いかと思いますが、あれこそ「演劇界と社会の軋轢」の表面化だったのだと思います。
そうした出来事を機会として各公共劇場の芸監の皆様を筆頭に公開された形で芸監トークが行われたり、文化庁が音頭をとった「緊急事態舞台芸術ネットワーク」という社団法人が出来たり、公演中に体調不良者が出た場合のスィングという役割の演者さんが一般化したりはしたけれど、じゃあ、根本的にパンデミック前と今が大きく変わったのか?と言えば、体感的には元に戻っていってるだけじゃないかと思うんですよね、特に観客側から見てると。目に見えて変わったと実感するのはチケット価格の高騰くらいでしょうか(笑)

今回のトークでの御話を伺った感じでは、4名のゲストに御声掛けなさったのはファシリテーターの徳永さんで、徳永さんから見えた小劇場界隈の変化と、徳永さんが感じられている(小劇場界隈の)変化の特色が今回のトークのメインでした。キーワードはこちらの5つです。

「公開」=以前は創作側だけだった情報を外部に公開するようになった
「連携?連帯?」=劇団内だけでなく個人同士の結びつきが生まれ始めてる
「平等」=演劇界でも遅ればせながらパワハラ問題を公にし始めた
「自立」=助成頼みではない劇団の維持発展の仕方(方法)が広がってきた
「継続」=上演で生じる負債を個人が背負うことのない継続方法の模索

自分が小劇場界隈に疎いことも多分にあって、この日に初めて知ったこともありましたし(それは次の項目で書きます)、大手の興行会社が上演を行っている大劇場作品と比較すると、小劇場公演の方には創り手の想いが今も強く残っているんだなぁ・・・と感じましたし、その想いが具現化されている場を体験してみたいなと思いました。
具体的に言うと、山田さんは御自身が観たいと思えるものを創っていて、カゲヤマ気象台さんは「(私の勝手な想像だけれど皆が想いや考えを持ち込む)場」を創っていて、池田さんは・・・どうなんだろう?その時の自分だったり過去の自分から生まれたものを作品に落とし込んでるようにも感じるし、関田さんは観客が日常では感じ得ない「視座」を得られたらという想いで創作してらっしゃる、らしい。
あの短時間で(バックボーンがバラバラな)参加者達に言葉で伝えるのは難しかっただろうな(私だったら出来ない)と思いますけど、それぞれが、それぞれに、なさっていらっしゃることが面白そうだなぁ~と思えて、そうした行動に移してる方々の御話は単純に伺っていて楽しかったです。と、同時に、色々と考えるところもありましたので最後の質疑応答で自分の中で長年くすぶっている疑問点を御伺い致しました(毎度のことながら質問の仕方が下手ですみません)。
今の私が観に行ってるものはジャンルこそ多様だけれど公共劇場主催だったり大手興行会社主催だったりするので、そうした業界では体感しにくい小劇場演劇ならではの体験を味わう比率を増やしていってもいいのかも。

上記でも少し書きましたが「演劇の現在地」と一言に行っても、御自身が立っている場所が違えば現在地として見えるものも違うし、トークショー参加者も高齢の方から御子様まで、男性女性半々くらい?、演劇との関わり方を多様な様子だったし、そもそも2時間程度の限られた時間だったので、元から「何かの答え」を導き出せるような結論が出る場ではなく、一人一人が、徳永さんが持ってらっしゃったキーワードだったり、登壇者の皆様が御話下さった言葉の数々の中から、自分との接点や思考が生まれたら、それで十分な機会だったんじゃないかと思います。
と、言うことで、じゃあ、このトークショーを機会に私は何を考えたのか?という話を<3>で書きたいと思います。


<3>トークを伺いなから想ったこと


① ウォッチャーという存在

カゲヤマさんが代表をなさってる劇団(円盤に乗る派)には、ウォッチャーという役割の方がいらっしゃるそうです。例えば、演出とか制作とかと同じような役割としての「ウォッチャー」という役割。カゲヤマ気象台さんがトークの時に説明して下さった例えでは、確か「社外取締役のようなもの」だったかと?(記憶違いだったら、申し訳ありません)。要は、劇団内部の人間過ぎず、かといって完全な外部でもなく、劇団の方向性などに理解がある方で、かつ、社会の中で自立してらっしゃる。社会の中の大きな流れ(ハラスメントや世論など?)を理解し、劇団だったり公演の内容を外の視点から見て、社会側から見たアドバイスなどをして下さる存在。御一人の固定された人物というわけでもなさそうで、その作品によっては「ウォッチャー」が変わることもあるようです。

その御話を伺った瞬間、そうした役割に「名前」が付いたんだ!と思いました。
と、言うのは、私が芝居を見始めた10代の頃に、役者さんと「ウッチャー」のような役割を担ってらっしゃる方々の関わりを拝見する機会があったもので。伝芸の世界なので、それは「個人と個人」間の信頼だったり結びつき(組織的なものではなく、私的なもの)でしたし、その範囲は芸にも及んでいた為、当時は一般的に見巧者というような呼ばれ方をしていましたけれど、担っていた役割は、まさに「ウッチャー」だったんですよね。
ただ、それから約40年の間に、そうした演者さんや観客も亡くなられ、長い年月をかけて人間関係を築いていくという文化も廃れてしまったように見受けられますが、今でも場所によっては、個人同士の信頼関係のもと、「ウォッチャー」さんと同じような?役割を担ってきた存在もいらっしゃったようですが、そうした存在も月日の流れで絶滅の危機が訪れているようです。

今までの演劇界そのものだったり、その中で生きている方々の中に、特に昔は「社会への反発」というようなアングラ的なものがあったからか?、御自分達の中に「ウォッチャー」のような「社会の目」を持てれば一番いいのでしょうけれど、なかなか短期間に培えるものでもないでしょうし・・・。
そう考えた時、「ウォッチャー」という存在自体を劇団が役割として認めるというか求めることは、社会との結びつきという点から考えても、とてもイイ事だと私は思います。劇団と観客(=社会)の間に居る存在、もしくは、繋ぐ存在、で、しょうかね?

ただ、ここに一つ問題が。
この「ウォッチャー」という役割を担う人は、冷静であること、感情に流されないこと、が必要だけれど、その対象が好きではある(もしくは敬意を持てる)、というバランスを維持出来る人じゃないと、存在自体の意味が無くなるんですよね。
と言うのは、少なくとも、その劇団の作品を見続けるわけで、方向性や表現が苦手だったら御本人の苦痛になってしまう。かと言って、現代の推し活のように「好き」という感情で動く方々は、社会からみた冷静な意見を劇団側に言えなくなってくるので(=好きな対象に嫌われたくないから)性格的に不向きなんですね(優劣ではありません)。
劇団側と「ウォッチャー」の間に、互いの言葉に冷静に耳を傾け話し合える信頼感が存在しないと「ウォッチャー」という存在は成り立たないんだと思います。そういう人材は現代だと非常に少ないかな?と感じますけど、「ウォッチャー」という役割が演劇界の中で定着していくことは、社会との結びつきを考えていくという意味でも良いのではないかなぁ・・・と私は思います。


② マニアックからの転身?

私の個人的な思い込みかもしれない。
けれど、小劇場界隈って、その世界に詳しい友達が入口にでもなってくれれば話は別だけれど、他の演劇ジャンルに比べても最初の一歩のハードルが高いイメージがありませんでしたか?、以前は。いつチケット売ってるのか情報が入りにくいし、行けば行ったで御見送りが内輪受けみたいで居心地悪かったり(^^;
でも、この日、徳永さんも「公開」というキーワードの中で御話されていましたが小劇場の劇団自体が今までのような口コミではなくネット上の情報発信や過去作品の公開を行うようになってきて、最初の一歩が踏み出しやすくなりましたよね。あと、公共劇場でも(人気の高い)小劇場の劇団が公演を行うことが多くなって、下北の聖地wに行かなくても実際に舞台を拝見出来るようになってきました。この2つの動きは私のようなビギナーの創出につながっているのでは?(あ、まだ、ビギナーにもなれていませんでしたw)

この日、登壇者の皆様のテンションが上がった話題が「ゆうめい」の池田さん達が書かれた「養生」のあとがきの御話でした。私も当日のトークを拝聴する前に拝読していたので(めっちゃリアルな興味深い御話だなぁ・・・)とは感じていたのですが、立場は違えど同じように劇団を主宰されていらっしゃる方々にとっては他人事とは思えない内容だったかもしれませんし、何より、そこまで公開されたことに驚いていらっしゃった御様子でした。
その中には「養生」のチケット売り上げの推移とかも掲載されていて、岸田國士戯曲賞に池田さんがノミネートされた後と、同じく池田さんが戯曲を書かれた「テラヤマキャバレー」が開幕した後に、グイッと販売枚数が伸びてるんですよね。と、いう私自身、「テラヤマキャバレー」を拝見した直後にチケットを購入していたので、(あ、私、このタイミングだw)と密かに笑ってしまいましたが、そういう点でもリアルな資料でした。公開して下さって、ありがとうございました。関係者の皆様は大変なのだと(自分との接点という意味で)肌感で感じることが出来ました。

同じく「公開」をキーワードにした御話の中で。今では珍しくもない「アフタートーク」ですが、始まったのは、かれこれ20年ほど前から@徳永さん。当時売れなかったマチネ公演の販促目的だったそうです。今はソワレの方が売れ行きが鈍いようですけどね(私はソワレ派w)。
まぁ、毒にも薬にもならないような公演中の失敗談とか、そういう内容だったら「いかにも販促」だと思いますけれど、例えば、時代背景とか、翻訳にまつわる話とか、なかなか個人では辿り着けない、創作に関わられた方々の経緯などが伺えるのであれば、アフタートークも良い機会だと思うんですよね。
あと、なかなか定着しませんが、公演を観た人達で作品についてワイワイ話す会をファシリテーターさんを入れたかたちで行うことが定着していけば、将来的には「ウォッチャー」的な視点を持てる観客層の創出にもつながっていくように思うんですが、いわゆる「畑を耕す」行為なので、手間だけかかって利益につながらないし、直ぐに収穫できるような話でもないので、そこまで「未来の演劇界」の為に動いて下さる主催者側って、なかなかいらっしゃらないんですよね(いらっしゃっても単発で終わったり)。


③ 社会からざっと10年は遅れてるハラスメント意識

ここ最近、裁判沙汰になって表面化したり、公共劇場を中心に内部でハラスメント講習を行ったり、作品の座組内でも講習を行ったり、し始めたようですが・・・社会側から見たら(いや、いままで、やってなかったんですか・・・?)と思う話で。感覚的には、社会から10年以上、遅れてる段階だなぁ・・・と感じます。
徳永さんのキーワードの中では「平等」に当たる話ですが、以前のように、著名な演出家や権限のあるプロデューサーと、それ以外のスタッフさん達やキャスト陣の間にあった圧倒的な立場の差を無くし、作品を創る過程の中で誰もが能動的に意見を言える状況を是とする方向性は正しいと思いますので、是非、形だけで終わらないように、皆様の行動の土台となるように、なっていったらいいですね。(違反した際に内部から告発出来る機関もつくらないと形だけに終わっちゃうと思いますし、そこまでやって、やっと現代の社会情勢と同じくらいです。)


④ 演劇の継続性

これは、実際に自分でやってみたことがある方々は痛切に感じることなんだと思いますが、「(現実の)生活」と「演劇(の創作)」を両立することって、経験していない人間からは想像しきれないような「細かい大変さ」が一杯あるんだろうなぁ・・・と思いました、御話を伺っていて。
具体的なことの一つは仕事と稽古の両立だったり、子育てと稽古の兼合いだったり、稽古場の維持管理などなど・・・。
確かに、誰か(主催さんなど)個人に上演のリスクが重くのしかかるような状況だと、継続が難しくなることもあるでしょうし。元々、演劇が好きだったり、何か表現したいことがあって進んでらっしゃるのでしょうから、それがリスクを背負うことと引き換えになってしまうのは辛いでしょうしね。
大劇場でのプロデュース興行ならば主催企業や主催劇場が背負ってくれるリスクを個人レベルで背負わなければいけない。自分達の想うように創作が出来る自由さと背中合わせのことなのかも?しれませんが、経済的にも、健康的にも、時間的にも、誰かに大きな負担がかからないように、皆で創作を継続していける方法を探る段階に小劇場界隈が変わってきたのなら、それはとてもイイ流れなんじゃないかと外からみてる人間としては思いますし、そうした無理のない世界の中で生み出された作品と出会いたいなと個人的には思います(誰かの犠牲の上で成り立つ世界で楽しみたくない、と言ったらいいのでしょうか・・・)。

上記の話は徳永さんのキーワード「継続」からつながった御話だったかと思いますが、創作を継続していく「場所」の御話がありまして。
「贅沢貧乏」の山田さんは、下町の方?の一軒家を借りて、そこで稽古や創作や本番を行っていた(過去形か、現在進行形か、記憶があやふやですみません)そうで、公演にまつわる話なども、ネット上で公開するのではなく、そうした「場」まで脚を運んだ人達の中で共有なさってるそうです。
また「円盤に乗る派」のカゲヤマ気象台さんは、御話のニュアンスでは劇団員だけとも限らないような感じでしたが(誤解でしたらすみません)、つながりのある人達で場所を借りていて、そこで稽古をしたり、稽古の前の実験的な取り組みをしたりなさっているそう。良かったことは、試してみたいことが直ぐにやってみることが出来るようになったことで、大変なのは、そうした場所の維持管理だそうです。リアルに考えると、そうなんでしょうね~と思います。


⑤「公開」と「オリジナリティー」

どこまで創作に関わることを公開するのか?
それは、その劇団によっても、作品によっても、これが正解というものは無いんじゃないかなぁ・・・と個人的には思います。
ただ、公開することが、イコール、オリジナリティーを失うことにはならないように思うんですね。例えば、知的財産権の考え方と同じで、公開することで自分達のオリジナリティーを記録として残すことが出来ますから。

正直言えば、創作に関わる人達だったり、その界隈で言葉を道具に仕事をなさってる方々が、他人の思考回路や創作物をパクるなんて最低の行為だと思います。でも、そういう人達って、どこの世にもいるみたいで。特に世間一般で著名では無い人物のものほど、パクられたり、表側だけを変えて利用されてしまったり、するんですよね。そういう恥知らずな方々と戦う為にも、オリジナリティーは御自分達にあるという証拠を残しておいた方がいいようにも思いますけれど、痛し痒しな部分もあるのでしょうか。

ちょっと話が逸れましたが、創作に関わる情報について。
カゲヤマ気象台さんがおっしゃっていたのは、来場者全員が同じ状態でなくてもいい(=情報を見ていても、見ていなくても構わない)という考え方でした。私もそれはそうだと思いますし、来場者のベースは人それぞれ違うので、仮に同じ情報を見たとしても観客全員が同じ状態にはなりえないんですよね。客席の居る人達みんなが同じ状態だと想像したら反って気持ち悪いし(笑)、色々な人が居て当たり前なんじゃないかな~と思います。


⑥ 出ました、観劇博打!

思わず、心の中でクスッと笑ってしまった、このワード(笑)
「贅沢貧乏」の山田さんが、今の御客様は観劇博打を出来なくなってる、という御話から。そうですよね、世の中インフレだけど収入上がらないしw
いえ、ね、私もよくこうした文章の中で「観劇博打、上等!」とか書いちゃうので(^^;  実際、観劇博打に負けて(ちっ!)と思わないほど御大尽ではないのですが、たまに、すっごく博打に大負けした芝居を見ると、反って色々考えたりするんですよね、その一線は何処にあるのか?とか。そういう意味では、博打に負けるのも一興だったりして、負けるからこそ、大勝した時の良さが解ってきたりも致しますし。何事にも無駄は無い、的に。

世の中に、演劇ほど、こんな商品&業界、なかなか無いですよね。
配達してくれないし(笑)、現地に脚を運ぶまで、実際に目の前に何を出されるのか?もわからないし、仮に出されたものが誇大広告みたいな内容だとしても、事前に保証されているのは「公演を行った」という事実だけで、作品のクオリティーなんてものは保証の範囲外だし、当然ながら返金もされない。そりゃ、観劇博打としか言いようがないw
まぁ、しょうがないので、興行元だったり、演出家だったり、劇団だったり、演者さんだったり、何かしら「勝率」が高そうな要素を頼みに観劇博打をするわけですが、観劇博打を許容できなくなった観客達が、この10~20年くらいですかねぇ・・・どういった方向に流れていったかと言うと。

ようは、自分が負けたと思わなければいい。
自分の大好きな人を目の前で見た。頑張ってる姿を応援出来た。
楽しくて、幸せな時間だった。たとえ、内容があまりよく解らなくても、そういう自分の一面には蓋をして、舞台としてはハズレだったんじゃないかなぁ・・・?という疑惑にも蓋をして、同じファン友と楽しかったね〇〇さん素敵だったねと語らいながら日常の外を味わったり、SNSで楽しかったアピをし、イイネと押されて満足する、そうやって観劇博打に負けた自分を(無意識にでも)認めなければ、楽しい(ストレス発散できた)時間として終わるんですよね。だから観劇博打に「負け」が存在しなくなるし、そもそも観劇は博打では無くなってきてるんですよね。そして、大手興行側も、そうした流れを利用なさってる。

個人的には、人の応援をする限り、そこには感情の補正が起こって、観劇博打は消え去り、そもそも博打度ゼロの観劇は観劇では無いのでは?まで思っていたりします。
博打上等!で、いいじゃないですか。
まぁ、負けがこむのは嫌ですけど(笑)


⑦ 観客って、何?

ずっと考えているんですよ、この何十年か。
少なくとも、私が子供の時だったり10代の頃とは、興行側と観客の関係性が変わってきてしまった。特に大手の興行会社が主体となってるジャンルは。

そのジャンルや興行を成り立たせる為の人達(チケットを買って下さる人達)が、何を楽しもうと、何を考えようと、恐らく(特に大手の)興行側にとっては何ら関係の無いことで。だからこそ、大量にチケットが捌けるキャストを連れてくる。興行ですからね、あちらの事情もわからなくは無い。

問題なのは、そうした(舞台のクオリティーに関係なく)チケットが捌けてしまう客層に大部分が変わってしまって、舞台の出来如何だったり、作品が立ち上がっているのか否か?について、正当な判断がつく観客達が激減してしまったことなんですよね。今、ゼロ番に立っている世代はそうした中で成長してきているので、そうした世界があったことさえ知らなかったり。
只の娯楽として、消費されるだけで終わることも構わないなら、それは大手の興行を中心とした演劇界自体が自ら招いたことで、もう、この流れは止められないんだろうなと、個人的には思うようになりました。

何故なら、そうした昔は存在していた作品のクオリティーに関し正当な判断がつく客層が居た時代を御存知無いからか、もしくは小劇場の発端であったアングラ時代からの影響なのか、演劇の存続に、観客の目という視点が本当に必要なのかどうか?(お財布的な価値以外に、という意味で)という考え自体が長年の演劇界の中で行われてこなくて、今もまだ、そういう問題が起こっていたことさえ表面化されていないんですよね。
あくまでも、個人と個人の信頼関係の中で細々と、上記の「ウォッチャー」の中で書いたような関係性の上で観客の目は引き継がれていたけれど、もう、それも時間切れなんじゃないかと思います。

演劇には、客席からしかわからないものって、あるんですよね。
演出家が初日以降も劇場に脚を運んで補正していってくれる作品はまだいいのだけれど、実際のところ、芝居を創る才能と芝居を観る才能は別の能力なので、優れた演出家だから気付くはず、という事にはならなかったりするんですよね。つい先日も公共劇場作品でありましたが・・・。

演劇が、創り手達のものだけならば、創り手達だけで完成するものならば、観客は要らない、ですよね。(打出の小槌として以外は)
でも、演劇は、劇場に集まった人々の中で、連綿と続いてきた。
そこには、今の演劇界が考えなくなった理由があるような気がしてしょうがないんですが、理由があることを望む私の願望なのかもしれない。

もう、大手は魂を売ったwようなので。
小劇場の世界の方々、それぞれに、自分の劇団に脚を運ばれる御客様との関わり合い方や考え方を持ってらっしゃるとは思うんですよね。
トークショーの最後に質疑時間があったので、この長年の謎を質問とは言えないような不明瞭な問い掛けで伺ってしまい後から反省したのですが、まだ、小劇場界隈ならば、そうした関係性を問い直せる可能性があるのか?、逆にもっと閉鎖的な演劇業界理論の方が優勢なのか、どうなのでしょう。外から見てるだけでは、わからないことでもありまして。

でも、時間が押してる中、私の意図が不明瞭な質問内容に問う形で答えようとなさって下さった登壇者の皆様、ありがとうございました。
元々、答の出るような話の内容でもなかったので、これからは、もうちょっと言葉にちゃんと落としてから質問したいと思います(反省)。


<4>まとめ

トータル2時間の予定のところ、15分くらい押してしまったのでしょうか・・・次に会場を使われる予定が入っていたようで、主催者様、大変焦っていらっしゃいましたが、出来る範囲の中で、興味深い御話なども伺えて個人的には大変楽しかったです。ありがとうございました。
これからは、小劇場界隈へ一歩踏み入れるハードルもチャチャッと超えていけるように、実際に舞台を拝見出来るように、自分の世界を広げていきたいなと思いました。本当ですよ?(^^)