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「建築家とアッシリア皇帝」@シアタートラム 2022.11.29~12.04の観劇感想

21日に初日を迎えた「建築家とアッシリア皇帝」も、24日と28日の休演日をはさんで2週間目に突入しました。しかも今週は次の休演日である5日まで怒涛の7公演、しかも3日は昼夜の一日2公演、2日の夜公演から4日の昼公演まで含めたら怒涛の4連投。大丈夫なんでしょうかね?と思ってましたら、あらびっくり、一番体力的にきつそうな?3日ソワレなのに、今まで拝見した中で一番エネルギッシュだったんじゃ?(個人の感想です)と思う程で、心配など無用な御二人でした(ブッラボ~~~!)

私は元から観劇マニア(^^;  なので、昼夜間(大休憩)が3時間くらいあれば、とりあえず直前(昼)に観たものの記憶は脳内の別の場所に仮置きは出来るんですが、如何せん、シアタートラムの椅子は御尻に厳しくて(笑)その内に予算がついたら是非、エアウィーブを全席に置いて頂きたいなぁと切望しています(厚めの方でお願いします)。まぁ、そんな話はさて置いて。

この作品は、シチュエーションも含めて、色々な見方が出来ると思うんです。何処かの稽古場でのお遊びなのか・・・?、それとも、アラバール(以下、アラちゃん)の心の中にある絶海の孤島なのか・・・?
もっと他にも、違う発想の方々もいらっしゃるかもしれない。とても自由度が高くて、(理屈や解釈じゃなく)芝居の反射神経で楽しむような場面も多い作品なんですよね。

その中で、初日早々の頃から、自分自身の中でも新たな気付きがあったり、別の見え方をしてきたり、一度たりとも「同じだなー」とか「飽きた」ということがないで、それは届けて下さる演者の御二人が作品に注ぎ込まれる生身のエネルギーが為せる業かとも思いますし、今回は第一週を土台に、新たに見えた景色について書いてみたいと思います。


ちなみに、11月21日~27日までの観劇感想は ↓ です。


11月30日に開催されましたトークショーのレポもどきは ↓ です。
(記憶のみで書いてるので結構違ってるかもしれませんが、御容赦下さい)


なお、文中、公演の内容に触れている部分があるかと思います。
舞台を未見の方々は御注意下さい。

今回の記事のTOP画像に使用しましたのは、幕間に書いた舞台美術のスケッチです。休憩に入ってから建築家さんが御掃除に登場されるまでの5分ちょっとの間に書いたので、パースが狂ってますし色々違ってます(^^;
ま、雰囲気だけ?ってことで。

< 舞台スケッチ >

初めて(出版されている)戯曲を読んだ時、感じたのは、アラバール(以下、アラちゃん)が言いたいことを語らせる為のアッシリア皇帝であり建築家なのかな?という印象でした。語る為のキャラクターと言ったらいいでしょうか。イメージ的には、こんな感じ(読書後の心象風景)です。

< 初めて戯曲を読んだ時のイメージ図 >

劇中の掘立小屋(樹)の下(地下)で寝そべっているのが劇作家のアラちゃん。そこから地上の皇帝や建築家を操って、人間の矛盾を語ってるように感じたんですね。

その内に、上演回数が増えていく毎に、地上のアッシリア皇帝や建築家自身に血が通い始めたというか、御二人の存在感の方がアラちゃんの存在感より強くなっていったように思うんです。思う、というより、感じた、ですね。

11月29日~12月4日の週の中での変化で一番強く感じたことは、
皇帝と建築家、それぞれが自分の幸せを求めながら生きている。

建築家は元々が一人だったせいか?自分の知らない世界や文明に対する好奇心が強くて、今いる島とは別の世界や皇帝以外の人間との出会いも求めてる。それが建築家にとっての「しあわせ」らしい。

一方、皇帝は、故郷や家族との関係に傷つき、今まで自分を囲んでいた全てから逃げて、一人、絶海の孤島(だと思ったところに)落ちてきた。
誰からも迫害されないように、一人になりたい。それが皇帝にとっての「しあわせ」なのかもしれない。

そういう意味では、建築家と皇帝、それぞれが思う「しあわせ」は正反対。
互いを「友達」だと思い、相手の存在を必要としているけれど、それと自分が求める「しあわせ」とは共存出来ない。

自分の自由や幸せを求めるのに、同時に、誰かと共に居たいとも思う
自分の幸せだけが叶っても、一人になってしまう事で、孤独や寂しさという不幸せを抱えてしまうという人間の矛盾。
演者の御二人が「幸福感」や「悲哀」といった感情を言葉に噓無く届けて下さる、その事(役に血が通う)で、人間って、どうしてこうなんだろう?という想いが強まってくる。神にも救われず(999でゲームオーバーした人間は神の存在の証明さえ出来ない)、人類が積み重ねてきた英知(発明や文明)を人類の幸福の為に生かせない、人間の愚かさ。

そして、世界が有史以来抱える矛盾・・・
争いたくないのに、死にたくないのに、戦争を止めない
大義名分さえあれば大量虐殺さえ法の裁きを逃れられる
宗教が人類を救うのか?といえば、意味のない論争ばかりしてたりする

そうしたことを、難しく語るのではなく、笑いの底に忍ばせている。
最初に戯曲を読んだ時にヘンタイおじさんかと思った(すみません)アラちゃんことアラバールさんが、天才なのかも?と思えるようになってきて。


この戯曲、ほんとに面白いんですよね。
と同時に、演じられてる御二人(岡本さんと成河さん)が注ぎ込んでる全てあっての面白さだとも思い・・・。

皇帝はどこまでが本心なのか?わからないけれど、それはそれで良いんじゃないかと思うんですね。そもそも、人間ってそんなにクッキリハッキリしてないじゃないですか。それに日々変わっていったりもしますしね。

舞台上は「アッシリア皇帝」と「建築家」という2つの肉体に分かれているけれど、もしかしたら、二人は、二人で一つの「人類」を現わしているのかも?という想像も思い浮かんだし、「人間の一生」の中での「ある時期」の具象として存在しているのかも?しれないとも思ったり。

そうですねぇ・・・
狂言でいうところの「このあたりの者でござる」的な。
「アッシリア皇帝」個人でもなく、「建築家」個人でもなく。

「このあたりの者」が若かった時に抱いたかもしれない希望や夢。
好奇心にあふれ、自分の可能性を信じている時期。

一方、「このあたりの者」が中年になり、色々な事に挫折したり裏切られたりして、いつのまにか夢や希望を失い「昔はこうじゃなかった」と呟く。
ほんの少しの甘い記憶でさえ、端からみたら現実とは違う。

そういう意味では「人の一生」を四季に例えると、建築家は「春」の時期、皇帝は「晩秋(冬間近)」なのかな~?とも感じたりして。二人は別々の人間(個人)ではなく、二人合わせて「人類」なのかもしれない、そういう受け取り方も出来るのかな?と感じました。脳内に浮かんだそのイメージ図がこちらです。

< 皇帝と建築家は人の一生の一場面かも?と思った時のイメージ図 >

客席で御覧になってらっしゃる皆様、それぞれの世代によって、自分と重なる部分が必ずあるような戯曲なんですよね、この作品。
私はもう完全に皇帝側なので(笑)、皇帝が時折呟く「昔はこうじゃなかった・・・」という言葉にシミジミするし、建築家が「幸せって何だ?」と知りたがる気持ちも自分の若い頃の記憶と重なって甘酸っぱかったりして。


私自身、その日によって、感じることが違います。
「建築家」「アッシリア皇帝」それぞれの生き方に想いを馳せる時もあれば、「人の一生」の中でそういう時期があるよなーと思ったり。恐らく、12月6日からのラストウィークにはまた別の事を感じてるんじゃないかと思います。

ただ一つ言えるのは、この作品自体、とても自由度が高くて、芝居の反射神経のようなものをフル活用して(理屈抜きで)みても面白いし、色々感じることと同時に考え続けても楽しい。御覧になられる人の数だけ楽しみ方があるといっても過言じゃない作品かなと思います。自分の記録の為にこうして言葉に落としてますけど、言葉が全てでもないんですよね。ただただ、自由に、そこ(客席)に居る。その楽しさで劇場が満たされたら最高だなと思ってます。