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「夢と錯乱」@シアターイースト 2022.10.14~16 東京芸術祭2022 SPAC-静岡県舞台芸術センター

2020年からこうした社会情勢になり残念ながら気軽に静岡まで芝居を見に行くことが難しいけれど、近い将来また、大きな富士山を眺めながら美味しい地元の御菓子を頂きつつ珈琲を飲んで、演劇に満たされる・・・そうした時間を楽しめるようになると思うので、それまでの間、SPACさん達が東京に来て下さるなら駆け付けます(笑)
東京芸術祭も他の各劇場の芸術監督さん達もありがとうございます。今年になって今まで中止を余儀なくされていた海外招聘作品も無事に上演されて、とても楽しいですし、色々な出会いがありました。私にとって今回のこの上演もそうしたものの一つになったと思います。
以下、個人の感想です。


「夢と錯乱」
日時:2022年10月14日(金)~16日(日) 3公演
劇場:東京芸術劇場シアターイースト
制作:SPAC-静岡県舞台芸術センター
演出:宮城聡
作:ゲオルク・トラークル
訳:中村朝子
出演:美加理
上演時間:60分


<作品概要>

作者のゲオルク・トラークルさんは、第一次世界大戦前のオーストリアに生まれ(今からざっと100年以上前ですね)、詩人としての才能を嘱望されながらも、27歳という若さで自ら生を終わらせた方だそうです(そちらに疎いもので、初めて御名前を知りました)。
その彼の幼少期から死を選ぶまでの人生を、自伝的なのでしょうか・・・?彼の想いを綴ったのかなと感じられる散文詩が原作となっています。
出演者は美加理さん御一人、いわゆる一人芝居です。ほぼ真っ暗闇の、ほのかな灯りの中、トラークル少年の魂が現代を訪れ私達に自分の人生を語っていくような・・・少なくとも私にはそう感じられた作品でした。

<観劇感想>

拝見する前までは(ストーリーなどを拝読して)トラークルさんが見つめた自分の死を共に見つめるような作品なのかな?と勝手に予想していたのですが、初見の終演後、私の中に強く残ったのは予想とは逆に、トラークルさんが何を想い、何を失わない為に結果として人生を終わらせることを選んだのか・・・という彼が生きた「生」そのもの、人生の方でした。

冒頭、トラークル少年は語ります。愛されたことが無いと・・・。
彼が幼い頃に亡くなった父親、母を筆頭に残された家族たち、彼を取り巻く人々が本当に彼を愛していなかったのかは知る由もないのですが、少なくとも少年は孤独を抱えていたのでしょう。
劇場ロビーに彼に関する書籍や年表が展示されているのですが、それを拝見すると、少年は落第したり薬物に手を出し始めたり、いわゆる問題の多い子だったようで、家族の中だったり学校や社会の中でも彼自身を理解しようとしてくれる人はいなかったのかも?しれませんね。

やがて青年になった彼は、自分の内なる世界に入っていくかのように、その世界を言葉に落として詩にし始める。
自分の詩の言葉と美加理さんに呼び出されたかのように、青年トラークルが心の中に感じたものや心の中で見たのかもれない心象風景が劇場の中に浮かび上がる。暗闇の中、ほのかに、やがて想いは強くなっていく。

現代の、東京の、自分の目の前で起きていることを観てるはずなのに、自分の目を疑うような、自分が幻想を観ているんじゃないか?と本気で判らなくなる、今までに体験したことのない感覚。演劇の没入感とも違う、何か。
勿論、照明効果とか演出とか、実際には色々なことが噛み合わさった上で起きた体験だったのだとは思いますが、美加理さんの存在にも寄るところが大きかったのかもしれません。何と申し上げればいいのか・・・、この世に存在する為の表層の皮一枚だけを残して化身と化すというか・・・、演じ手の方が演じてる気配がしないというか・・・、とても感覚的なもの。
実際には演じ手の方が100%自分を無くしたら舞台が成り立たないので、そんなことは在り得ないとは思うのですが、美加理さん御自身そのものは、存在の奥深い所に沈んで観客側からは感じられないところまで気配を消されるのかも?しれませんね・・・。言葉にするのは難しいですが、稀有な体験でした。

戯曲の元は散文詩の類かも?しれませんし、それを日本語に翻訳されたことで、おそらく原作には無い日本語独特の難しさを抱えてしまう。なぜなら日本語には同音異義語が多いので、発語で「イシ」とだけ聴こえた時に、それが「石」なのか「意志」か「医師」なのか?という類のことを瞬時に汲み取っていかなければならない。元となっている散文詩の方にも比喩的な表現とか、青年トラークルが見たのかもしれない幻影とか、そうしたものも多いようので、日本語の言葉だけでトラークルの想いや感情を追おうとすると、中々に難しいかと(あ、私にとって、です)。

その時に、何が詩を介して現代に降臨したトラークルさんと観客の接点になるのかなぁ・・・と考える時、言語としての日本語だけに束縛されず、美加理さんを媒体とした「体という器」に満たされたり発散されるもの、例えばその「動き」から感じるものだったり「心から心へ」伝わってくる感情だったり、そうした複合的なものによって、受け取れるというか、シアターイーストの舞台上に降り立ったトラークルさんに出会えたように思うんです。

そこで、出会った彼から受け取ったものが何だったのか・・・
それは、私が、その時にそう感じたことにしか過ぎないけれど・・・
(トラークルさんと妹さん、全然違うようでしたら、ごめんなさい)

幼少期から、誰かに愛された実感もない、そうした青年トラークルさんが、もしかしたら「何故、自分は生きているか?」さえ解らないように感じていたとしても、その人生の中で、唯一、愛することが出来た人がいた。
ただ、大きな問題は、その人が彼の実の妹さんだったこと・・・。

現代でも、法的にも社会通念的にも許されないことには変わりませんが、100年以上前の当時であれば、尚更ですよね。周りに祝福される愛には成り得ないし、共に幸せに生きることも許されない。
多くの障害が立ちはだかる自分の愛情。その唯一の愛を失うくらいならば、そうなる前に、自分の「生」を、愛がある内に終わらせたかった。それが、トラークルさんが自ら「死」を選んだ要因の一つだったのではないかと・・・。
彼が生きた時代の年表を拝見すると、彼が自ら死を選んだ後、一ヶ月も経たない内に妹さんも自ら同じ方法で死を迎えているんですよね・・・。
二人の間がプラトニックなものであったのか、それともそれ以上のものであったのかは、今の私達に知る由もないし、それは重要なことではないんだと思います。少なくとも、トラークルさんも、彼の妹さんも、自分の大切な人を心から愛した、そういう「人生」を生きたのだと思うんです。


今でこそ、人間の多様性が尊重されるようになってはきましたけれど、当時(百年前)にはそうした多様性などという概念そのものがなかったでしょうし、たとえあったとしても、トラークルさんのケースは現代でも幸せな結果は難しかったと思いますけれど・・・。
それでも、ちょっと風変わりだったかも?しれない少年トラークル君を家族として愛したり理解しようとする人達がいたら、もっと別の人生を歩まれたんじゃないかなぁ・・・と想像すると、可哀想で・・・。
ラスト、美加理さんの器の中に宿ったトラークルさんと妹さんの御二人を見つめながら、それしか幸せにいられなかった二人の不幸に涙したけれど、果たして二人は不幸だったのだろうか・・・?

他人からみたら、特に現代の私達からみたら、許されなかったり可哀想だったりするけれど、心から愛する人と出会え、自分の生涯を自分で選ぶことが出来た彼らは、果たして不幸だったのだろうか?
それは、御二人にしか解らないというか、外から判ることでもないように思うし、人の人生とか価値観は本当にそれぞれで、自分の幸せとは何なのかを、今、彼らに出会ったことで考えている。