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「ディミトリアス・パパイオアヌー」に出会う@彩の国さいたま芸術劇場大ホール 2022.07.29&31 観劇感想

「TRANSVERSE ORIENTATION」
(トランスヴァース・オリエンテーション)

  公演期間:2022年7月28日~31日(全4公演) ほか京都公演あり
  上演時間:105分(休憩無し)
  演  出:ディミトリス・パパイオアヌー
  パフォーマー:ブレアンナ・オマラ
        :クリストス・ストリノブロス
        :ダミナーノ・オッタビオ・ビギ
        :シュカ・ホルン
        :ミハリス・テオファヌス
        :ロカシュ・シュダルスキ
        :ティナ・パパニコラウ
        :ヤン・メルマー (以上、順不同)


日本ツアー 公演特設WEBサイト
https://rohmtheatrekyoto.jp/lp/transverse_saitama_kyoto/
こちらの動画は上記の特設サイトでリンクされている紹介動画です。
まだ舞台を御覧になっていない方は御注意下さい。


以下は観劇感想です。
作品の内容に触れていますので、未見の方は御注意下さい。
(この作品は何の予備知識もなく初めて観る回が一番楽しいと思います)

なお、個人の感想です。


今回の舞台を拝見したきっかけは、2019年の初来日の時でした。その時、自分のアンテナの狭さから見逃しまして。
後からダイジェスト映像などを拝見すると、レンブラントの絵画を彷彿とさせるような光と影の美しさが魅力的。いつか、自分の目で観たい・・・と思いつつ、世界情勢の変化等で来日予定が延期になったりして。そういう意味では、個人的に「待ってました!」そんな想いの強い今回の「トランスヴァース・オリエンテーション」の観劇でした。

ちょっと長くなりますが、初見で感じた「ディミトリアス・パパイオアヌー」作品への印象と、それを通じて感じた観劇感想を書きたいと思います。


開演に際してのアナウンスが終わる頃、水がしたたる音がする。
静かに、静かに、したたった水が溜まっていくかのように、客席の雰囲気も少しづつ変わっていく。(あと上演中に、カエルか?、渡り鳥の鳴き声みたいなのもの?も聞こえたかも・・・)
そして徐々に客電が落ち、ヴァイオリンの曲が流れてくる。
聞いたことがあるな?くらいで曲名が判らなかったんですが、ヴィヴァルディのRV583だそうで。綺麗な曲ですよね。


御覧になった方々は察して下さるかと思いますが、いわゆる「物語」的な演劇ではないので、観劇レポの類を書くことが私には難しいのですが、印象に残ったところを幾つか書いてみたいと思います。

<1>作品への印象


終演後、自分の脳が喜んじゃって、興奮冷めやらない、そうした劇場での出会いが幸せな105分でした!
評論家でもない私がディミトリアス・パパイオアヌー氏の何を知っているわけでもないのですが、この「トランスヴァース・オリエンテーション」は、彼が持つ「インスピレーション(創造的な閃き)」の連続のような作品だと感じました。
その「インスピレーション」を、彼が持つ「イマジネーション(想像力)」の力で具現化し、「美」へと昇華させる。まるで絵画を彷彿とさせるような一瞬一瞬の美しさは、彼の頭の中のイマジネーションをスクリーンショット(画面撮影)にして見せて下さっているようでもありました。

「インスピレーション」が何から生まれるか?
それは、その人が生きてきたこと、全てのように思います。
生い立ち、性別、受けてきた教育、囲まれていた社会、国、歴史、そして自分が出会ってきた人々や文化、そうしたもの全てなのでしょう。
ディミトリアス・パパイオアヌー氏(長いので、すみませんが以下、D氏に略させて頂きますね)が生まれ、今まで生きてこられた時間の中で、自分の血肉となっている全てのものが土台になっているのだと思います。

生まれた「インスピレーション」を具現化し、絵画のような「美」へと昇華出来る能力、それはD氏が持つ「イマジネーション力」で、客席に座っている私達一人一人に、その「イマジネーション」を投げかけてくれているかのよう。そして客席にいる私達も自分の「イマジネーション」を駆使してD氏の投げ掛けを受け取ろうとする。
それがこの作品の楽しさ、言わば、互いの「イマジネーション」をカードゲームのように出し合っていく、その面白さなのではないでしょうか?

そういう意味で、私がイメージしたのは「百人一首」的な面白さです。
例えば、
D氏が瞬間瞬間出してくる「イマジネーション」が上の句だとしたら
私は、
自分の中の「イマジネーション」を総動員して、それを受け取る
「これだね!」と心が反応するものが、下の句なのかな、と。
それが、ひたすら続く、面白さ!そりゃ、脳が喜びます♪

そこには、言葉も理屈もなくて。
互いの「インスピレーション
(創造的な閃き)」と「イマジネーション(想像力)」をぶつけ合う、感覚の反射神経と自分が持ってる知性など全てをかけて戦うような興奮と集中力。
だから、彼の「イマジネーション」に対抗する手札がなかったら、こちらの負け(笑)
大人の遊び、というか
脳への御褒美、というか
イマジネーションの戦い(笑)というか
そうしたゲーム感が、「おっもしろい!」の一言!♪
脳への贅沢を味わいました。

<2>場面ごとの印象


具体的な場面の中で、印象に残っているところを書いていくと・・・。
(※すべて私の想像力で感じたものに過ぎませんので、そういう人もいたんだな、くらいで読んで頂けましたら幸いです)
各項目の☆は自分が面白いな~とか素敵だな~と思った指数です。
あと、書かれている順番と舞台上の進行は違っていると思います。

☆☆☆
オープニングの黒い人形たち。ちょっした仕草(首をかしげる)とかが人間っぽくもあり、コミカルで可愛らしい。以前拝見したフランスの現代サーカスの作品に出てきた近未来の(あまり賢くない)ロボット達を想い出す。D氏の意図的には背面の下手上部に点けられている灯りに引き寄せられる虫たちのイメージらしい。

☆☆☆☆☆
暗い人形たちが使っている脚立のようなもの?の丁番部分が変幻自在過ぎて密かに凄い。あれは今回の作品ように製作されたものなのか?わからないけど、I字にもなるし、M字にもなるし、とても凄い、というより欲しいです(笑)

☆☆☆☆
ここから先はギリシャ神話の世界。
青年と雄牛が登場。ギリシャ神話で雄牛と言えば「ミノタウロス」の話かな?と想像。
ということは、最初の若者はポセイドンと約束をした王様で、雄牛から出てきた女性は王の妃、後の場面で妃を演じた女性が変化した異形の生物が「ミノタウロス」なのかな?
雄牛そのもの(美術装置)と動かしての演じ手達(全部で8人くらいいらっしゃるんですかね?)の一体感が素晴らしかったし、オレンジ色のライトによって浮かび上がった雄牛のシルエットが美しかった。

上に書き忘れましたが、台詞も無いし「物語」的な演劇でもありませんが、各場面をつないでいるテーマらしきものは見えてきます。それは「人類の歴史」だったようなきがします。

☆☆☆☆☆
男性と女性がどう組み合っているのか?作品の写真を拝見してもちょっとよく判らないけれど、この「ミノタウロス」の見せ方に使われている【黒い部分は見えないという(演劇的な)御約束】が馴染み深い感覚があって、その元は何かな?と思ったら日本の伝統芸能で多用される黒子さん(黒子さんはみえないものとして観客はみる御約束)と同じ感覚なんですよね。ギリシャの演出家さんが創られたものと日本に昔からある伝統芸能に共通の「演劇的な御約束」が一緒というか似ているというのも面白いですよね。

☆☆☆
ギリシャ神話の王?が雄牛に水を飲ませてやったバケツ。
そのバケツに王は自身の頭を突っ込み、逆立ちをしている。
と、同時にプロセニアムアーチのところでは潜水用のウェットスーツを着た男性が上記の王とシンクロして逆立ちをする。
(記憶があやふやなんですが)背面の壁に海の中の映像が映っていたかも?しれないし、そうした音がしていたかも?しれないんですが、「あー、潜ってるんだな」と直感的に解るんですよね。
(あー潜ってるー)なんて思いながら見ている内に、ウェットスーツを着ている男性の方が「水」に見立てた「透明なビーズ?」を浴びせかけられながら、苦しみながらウェットスーツも脱がされていく。
これは、後ろの「王」と手前のウェットスーツの男性が相似なのであれば、海の神であるポセイドンとの約束を破った「王」への報復なのかな?と思いました。


ギリシャ神話続きで。
この場面で「王」だった若者が、後の場面で雄牛の面を被った男達に折檻されるんですが、この時の若者が「王」なのか?、それとも「ミノタウロス」を殺した方の若者なのか?判らなくて。
勝手な想像ですが、ギリシャ神話の神々を忘れてしまっている現代人達への報復なのかな?とか想像してましたけど、たぶん、全然違うんだと思います(笑)

「ギリシャ神話の部」は、ミノタウロスが殺されちゃった場面で終了。
次は「近代」に移ります。

☆☆☆☆☆
折りたたみベット(マットレス無し)のような、中央で挟み込まれる金物。
その中で拘束されているかのように藻掻き苦しみながら、それでも外の出ようとする女性の姿。
これは、当時の社会(近代は妻や娘は家長の財産だった)の中で自立することを許されなかった女性達が、自らの手で社会を変え、参政権を勝ち取り、社会に進出して自立への道を切り開いたこと(女性解放運動)の象徴だと感じました。

☆☆
同じ折りたたみベットの金物に後の場面で男性が挟まれるんですが、その場面は恐らく現代なので、男性たちが自分達で作りあげてきた男性社会の中で、身動きも取れず、自分で自分の首を絞めているような、D氏から現代の男性社会に対する皮肉というか、シニカルな笑いかな?と。

☆☆☆☆☆
背後の壁に設けられていた、一つの扉(中央上手寄り)。
そこをノックする音がする。(確か、したような?)
扉を開けてみると、一面の(何かに見立てた)発泡スチロール。
この発泡スチロールの塊は「石油」という燃料を発見し、一気に工業化を押し進めた産業革命の時代を暗喩してるのかな?と。
どんどん生み出される(生産される)発泡スチロール(この場合は資本主義社会で生まれた富ですかね?)を運ぶ黒い服の男女は労働者層かと。後ろの方の座席で拝見すると、背後の壁に映った影絵のようなシルエットが、まるで働きアリの行進のようあんんですよね。こんなとこも最初の灯りに群がる虫達とつながってるのかな?なんて感じがしなくもなく。
そうこうするうちに、資本主義社会の中で膨大に膨れ上がった富(山積みにされた発泡スチロール)は限界を超えて崩れ落ちる。そして下敷きになる労働者たち。これは、正にバブル崩壊とか、リーマンショックなのかなって感じですよね。

☆☆☆☆☆
それでも、働かなければ生きていけない労働者達は、苦しみながら、小さな発泡スチロールを運ぶ。
その一方で、大きな発泡スチロール(豊かな資産)で興じる男女たち。
この場面は現代の富の二極化だったり、貧富の格差問題を暗示しているのかなと思う。

☆☆☆☆
場面の前後があやふやなんですが、噴水の女神が登場。
女神自ら、水を掛けまくる(笑)なんともチャーミングな姿。
その水?(シャンパン)で乾杯する男達。
懐かしの「ルネッサーーーンス!」を想い出しました(笑)

☆☆☆☆☆
そうこうする内に、また背後の壁の扉から怪しい黒いものが登場。
これ、日本人が観ると「(ゲゲゲの鬼太郎の)ぬりかべ」に見えちゃうんですが(笑)、表に向くと、黒い貝殻?(にはあまり見えないけれど)女神。
(これ、ボッティチェリの絵画のパロディーですかね?)
でも女神かとおもったら、彼女が抱える肌色のボール状のものが破られて、どろどろとしたものが流れ落ちる(これ羊水ですかね?)。ほぼ落ち終わっと後に現れた(観えた)のは、イエス誕生の場面。聖母子像なんですかね。
横たわれた聖母は赤子のイエスの手をとってバイバイして下さる(笑)
2回拝見しましたが、笑いが起きる時と、ほぼシーンとしてる時も。


下手の舞台袖から、日本の杖(鈴付き)をもった体格のいい女性が登場。印象としてはイタリアのマンマ達でしょうかね?見た目。ポセイドンが王に送った雄牛からも確か鈴の音が聞こえていたような気がするんですが、その雄牛とこのマンマの杖は鈴の音でつながってるんですかね?
この作品の中で一番の謎でした。

☆☆☆☆☆
マンマ(じゃないけどw)は下手から登場し、ゆっくりと壁面上手の扉に消える。その瞬間、その扉がスイングドアのように反転して若い女性が現れる。この場面、凄く鮮やかで忍者屋敷みたい!(笑)
若い女性は扉の横の蛇口から水を汲み、舞台中央の背面壁の前に立つ。
(そして、その足元には黒いフィルムが敷かれている)
腰の高さに抱えたバケツを傾け、徐々に黒いフィルムの上にこぼしていく女性。徐々にフィルムの上に溜まった水たまりが、六方?からのスポットライトを反射し、背面に水紋を映し出していく。
ここからが凄かったんですが、ある瞬間、その水紋が「大天使の羽」になるんですよ。若い女性が大天使になるんです。この驚きは鳥肌もの。
ただ、この演出、成功しなかった時(29日)もあったような? ちなみに埼玉公演の千穐楽(7月31日)は見事大成功でした!

☆☆☆
したたり続ける水がほぼ終わると同時に、密かに迫下がりした大天使は床下に消えるんですね。と同時に、男性たちが何人も出てきて床を剥がしていく。すると現れたのは大きな水盤でした。
いつしか背後の壁も夕焼けに変わり、そこは磯辺のよう。
岩を掃除している?男性(下手側)と、冒頭に登場した(ポセイドンをだました)王の姿(上手側)。海を挟んで、向かい合うとも合わないとも解らぬ微妙な空気感のまま、上手の王(なんですかね?)は壁の向こう(多分、ギリシャ神話の世界)に消えていきます。
そこに残るのは、岩を掃除してる男(現代人)と陽が沈んだ磯辺の風景でした。
場面的には、これがラストシーンです。


<3>さいごに


私も、あのマンマ?が何だったのか全く判らないんですが(笑)
まぁ、そういうのは、いいっかなぁ~~~と、個人的には思います。
ここまで書いたことだって、私が客席でそう感じたり思ったりしただけで、D氏に伺ってみたら「違う!」と言われるかもしれない(というか、そこそこ違うんだと思いますけどw)正解探しのゲームでもないと思うんです。
互いの「インスピレーション」や「イマジネーション」を反射神経を競うかのようにぶつけ合って楽しめればいいんじゃないかと。

だって、客席に座っている誰一人として、D氏と同じバックボーンを持ってる人なんていませんよね。民族も違えば国も違うし、今まで生きてきた社会や価値観、経験や知識も違う。当たり前の事なんです。
それでも、例えば、【黒は見えない(演劇的な)御約束だよね】という直感的に解り合える部分もあるんですよね。

人と人は、その属性が遠ければ遠いほど、知らぬ相手が本能的に怖く感じる面があると思うんです。そういう意味では、D氏と私は真逆に近いんですよね。でも、そういう直感的に(感覚的に)理解し合える接点があると、D氏と私も、まったく解り合えない関係じゃなくて、仲良くなれないまでも(笑)、少なくとも「(敵対しないですむ)そういう人も居るんだな」と許容していける(その先に共存もある)と思うんですね。

その為に、D氏は各国の劇場に出向いて、作品を通じた自己紹介をなさってるんじゃなかと感じるんです。
「はじめまして。よかったら、僕の脳みその中を覗いてみて?}と。
自己紹介されたら、(そうか、そういうアイデンティティーをもった方なんだな)と知ろうとするし、何処か自分との接点だったり重なるところがないかな?って考えるじゃないですか。

それが、正に、この作品そのものなんじゃないかと、思うんです。はい。


思った以上の長文になってしまって、ここまで御読み下さった方がいらっしゃいましたら、ありがとうございました。
これから上演される予定の京都公演の御成功を祈っています。