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「受ける」から「得る」へ(2/28)

 ロシア・ウクライナ情勢が激しさを増している。刻々と変化する状況が気になり、スマホを手に取る。次々と入ってくるニュースに目をやる。僕は、ロシアやウクライナをはじめとする世界各国の現状や歴史的背景にこれまで全くと言っていいほど目を向けてこなかった。あまりにも世の中のことに無頓着だったことに気づかされる、そんな毎日だ。そんな自分をものすごく恥じてる。知らなかったことと恥じているのではない。知ろうとしてこなかったことを恥じている。

 「知らなかった」を使うか、「知ろうとしなかった」を使うか、これによって自分の進歩がきまる。前者は、仕方がなかったという言い訳であり自分に責任を感じていない。後者は、自分の意識や行動を反省しているという捉えができる。これまでの自分は、知っていたか知らなかったの二択で生きてきた。教えてもらったかもらわなかったか、情報が入ってきたか入らなかったか、知り得る環境にいたかいなかったか、自分に責任はないといったところだろうか。

 昨日、昼食の準備をする際、ロシア・ウクライナ情勢に関するニュースを見ながら準備をしようと思い、テレビをつけた。僕の地域には6つの放送局があるのだが、どの放送局もバライティ番組は放映されていた。ため息が出た。しばらくするとやっとニュースの時間になった。包丁を置き、ニュースを見ていたのだが、どのニュースもすでにネットニュースで耳にしていた内容であった。ほんの数十分でニュースは終了し、番組が切り替わってしまった。ため息すら出なかった。夕食時も同様である。NHKだけは30分程ロシア・ウクライナ情勢を報じてはいたが、リアルタイムの情報と言うよりはこれまでの状況を整理したような内容となっている。また、昼に聞いたような情報がほととんどである。今朝、新聞の朝刊を見たがこれも同様である。ロシア、ウクライナの情報は全て昨日知り得た情報だった。時が止まっているのか?という内容ばかりであった。

 幼いころから僕は情報を「受け」てきた。テレビや新聞からの情報をただただ「受け」てきただけである。切り取られ、都合よく都合の良いタイミングで、やっつけ仕事ともとれる報道の仕方で流された情報をただただ受け、そして知っている、知らなかったで片を付けてきた。知らなかったとき、テレビで情報を教えてくれない、新聞の情報が不十分、そういう姿勢だった。

 世の中の多くの人はすでに情報を「得る」ことを習慣化している。そして自分で得た情報についてさらに自分で追究し、考察して発信し、世の中を変化させていっている。その習慣がない大人はすぐにでも情報を自分で得ることを当たり前にしなければならない。そして子供たちにこそ、情報を得る力、得るよさ、得る習慣を付けさせなければならない。そうしなければ刻々と変化する時代において自分に不利な状況になったとき、「知らなかった」と周囲に責任を押し付ける、またはサービスを欲するばかりで自分で何もしない、そんな人ばかりになったしまうのだろう。知ろうとすること、自分から目を向けようとすることが生きる力の最低条件なのかもしれない。

 良くも悪くも自己責任。成長するかしないかも自己責任。幸せになるかならないかも自己責任。「受ける」から「得る」に転換するだけできっと自分の何かが稼働し始める。と、今はそう思う。

 さて、テレビを消し、仕事をしながらTwitterとyoutubeでロシア・ウクライナ情勢を確認することにしよう。


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