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「百人一首麤譯」(漢詩訳版)の前書き(日本語訳)

「百人一首」は日本で非常に人気があり、中訳を試みた人も少なくないだろう。しかし、翻訳というのは 必ず何かが失われてしまうものであり、時には詩のエッセンスが失われてしまう。残念ながら、「百人一首」の中訳は満足のいくものが少ない。

僕は2023年前半に退屈し、いくつかの和歌を翻訳してみたところ、翻訳のプロセスで「詩」としての再現が全く不可能というわけではないことに気づいた。それから100日以上にわたって、ほぼ毎日1首のペースで翻訳を進め、ようやくこの本の完成を見ることができた。

「詩」としての再現を言っているのは、翻訳された作品が「詩」として成立している必要があるという意味である。

これは非常に難しい。5・7・5・7・7という決まった枠で、序詞、歌枕、掛詞、歌語、本歌取などさまざまな技法を取り入れ、時にはテーマが明確ではないこともあり、僕のような初心者にとっては取り組むのがためらわれることが多いだろう。

だが、それらを乗り越えて、短歌の世界に深く入り込むと、そこには別世界が広がっていることに気付くはず。そこには人生の断片があり、浮世の様々な様相が描かれている。僕は言葉の化学反応に驚かされることがある。たとえば、9番目の歌には二義性のある言葉が2つ登場し、その結果、歌全体には4通りの解釈が存在する。これは決して例外ではない。また、「百人一首」を通じて、古代日本人の内面世界を垣間見ることができ、当時の風習(例えば通い婚)を理解することもできる。そして、僕は翻訳の間、「百人一首」時代の文学のアイドル、白楽天と出会った。「百人一首」を読んでいると、これ、楽府の雰囲気がするねと感心する場合もある。ある時、黄仲則の詩「妾心化游絲、牽歡古道邊;明知牽不住、無奈思纏綿」を思い浮かべてしまう。

翻訳の形式については、本書では基本的に五言詩の形式を採用している。詩としての平仄や韻律などの基本的なルールは必ず守るべきであり、妥協することはできない。原文に比喩や語呂合わせがある場合、できる限りその関係を訳詩に反映させるよう努めた。(世の中に漢詩訳がいくつもあるが、諸々の要素を漢詩のなかに全部詰め込むような愚行をしたのは僕だけなのか。)いくつかの作品は自分でも気に入っている箇所があるので、読者の皆さんにも楽しんでいただければと思う。もちろん、時には原歌の要素が多すぎる場合もあるが、漢詩の伝統ではこれらの意象や語彙の組み合わせには慣例がないため、無理やりに見えることも避けられない。

しかし、詩の翻訳は前の人たちも言っているように、必ず何かが失われるものだ。翻訳を、壊れた陶器を修復することに例えて考えておる。それぞれの単語は壊れた陶器の破片であり、翻訳者は作者が残した情報を最大限活用し、それらを組み合わせて完全な陶器に取り繕うことを目指す。その陶器は、元の作品と同様に人間の感情を受け止めることができるものでなければならない。短歌や俳句などは短くて精緻な作品であり、複雑なものなのだ。したがって、これらを修復する過程は、翻訳者のスキルをさらに試すものである。翻訳者は作品に責任を持ち、文学作品を翻訳するたびに自問自答し、原作者に対して責任を果たしているかどうかを考えるべきである。少なくともこのプロセスは私にとって楽しいものであり、登頂をするたびに内心に解放感と達成感を感じることがある。

もし読者の皆さんがこの本を通じて古代日本の文学の一部を理解する手助けになるのであれば、それは私の誇りである。私は和歌や俳句については専門家ではないので、専門家や学者の皆さんからの助言や批評を歓迎している。どっちかと言うと、この本はあくまでも「百人一首」の「粗訳」に過ぎないからだ。

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