開封ユダヤ人

東漢の明帝時代に既にユダヤ人が来たという言い方もあるそうだが、専門家ではないので、ネットで調べられる情報を一応ここに並べるだけ。
ユダヤ人は4回に分けて中国に渡った。1回目は1,000年頃、洛陽/開封に到着した。2回目はアヘン戦争の後、上海にやってきた。3回目は1917年、ロシア革命の際にハルビンに避難した。4回目は1933年以降、ナチスの迫害から逃れて上海に来た。
唐末の黄巣の乱で広州に住んでいた外国人が皆殺しにされた。多分一部のユダヤ人も居ただろう。
宋の時代に、ユダヤ人商人たちは皇帝に布などの朝貢品を献上し、定住とユダヤ教信仰の権利が与えられた。李、高、金、白、俺などの姓を取り、漢民族との同化が進んだ。ユダヤ教が一賜楽業(イスラエル)と訳された。イスラム教徒が「白い帽子の回回」と呼ばれていたのに対して、ユダヤ人が「青い帽子の回回」と呼ばれていた。
洛陽には曾て「挑筋巷」という場所があった。それはユダヤ人の祖先ヤコブが天使とのレストリングで足の捻りが発生したのを記念して、脚の筋肉を食べない風習があることに由来しているという。その他、開封には「教経(脚筋)胡同」が現存しているらしい。教経と脚筋は掛け言葉関係。
明の時代、開封での不穏な動きを嗅ぎ出し、国家権力を手に入れたばかりの朱棣に事情を通報して、更なる内乱を事前に防ぐことに貢献したため、ユダヤ人の俺誠(のちに趙姓を与えられた)が錦衣衛指揮郡指揮僉事に成り上がった。このように、ユダヤ人後裔が歴代で役人を務めた例も見られる。
明末、宣教師マテオ・リッチが中国にやってきたとき、子供の頃からエホバを信仰していると自白する艾田と出会い、その祖先がユダヤ人であることを知り、驚いたというエピソードがある。開封に僅かに残ったユダヤ教の古文書をそのマテオ・リッチに買い取られたとも伝えられている。
時代が降るにつれて、ユダヤ教の伝統もほとんど忘れられ、明末の開封ユダヤ人はパスオーバーもヨム・キップル(Day of Atonement)も知らなくて、その代わりに竈神、門神を祀っていたらしい。イエス、ダビド、アダムも当然知らなかった。異郷に入って数百年も経ったから、その出自がどんどん忘れられてしまうのもしようがないかもしれない。
最初に河南に辿り着いたユダヤ人は完全に同化されたが、1850年までにラビが居たらしい。その後、ヘブライ語が分かる人がいなくなった。
今では、開封ユダヤ人と名乗っても、信仰や伝統が守られていないから、イスラエル政府にユダヤ人として認められていないのも自然の流れなのだ。

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