参天台五台山記読記008
廿八日(戌申) 雨下。依無順風猶在小均山。沈小六郎來示山等名。申時南風大吹。島人以小船四隻相共助大船。廻島著北面宿。
廿九日(己酉) 小雨下。依北風大吹不出船。廻島著南面。戌時始修法華法。一時經第一卷了。如意供。一時文殊供。一時兩界供養法了。無讚眾。
四月一日(庚戌) 辰時。依北風吹出船。申時著袋山。有(【考】有閣本)(注有恐在)隨稍山西山也。有人家。東南有欄山。有人家。雖有順風依潮向止船已了。七時行法修了。」
ノート:
28日は雨が降ったため、順風がなく小均山で待機することになった。この際、沈小六郎という人物が登場するが、彼は日本生まれの中国人だったのかもしれない。あるいは、その島の住民だったのかもしれない。
しかし、宋の時代では、一家族で同世代で何番目に出産されるかによって、大郎、二郎、三郎、乃至邵三十五郎といった具合に呼ばれていたことから、下の名前が小六郎だったからといって、必ずしも日本人とは限らないね。
例えば、金の王嚞氏の『重陽全真集』には、「京兆府王小六郎に贈る」という篇があり、そこでは所詮妻子を捨てて道教を学ぶタイプの人ではないから、お香を立てて功徳を積むのがよいと諭した文章になっている。
いずれにせよ、この沈小六郎は、島の地名などを親切に教えてくれた。
申時(午後3時~5時)頃になって漸く南風が吹いてきたため、島の住人たちは四隻の小舟を出して唐船を援助することにした。そしてその日は北面で夜を過ごすことにしたとのこと。
29日には、北風が激しく吹き荒れたため、出航を中止せざるを得なかった。代わりに島を回って南面に着いた。
戌時(午後7時~9時)頃から、久しぶりに法華法の修行を行うことになった。法華経の第一巻を読了し、如意供養や文殊供養、両界(金剛界・胎蔵界)の供養法などを執り行った。 ただし、讃眾(さんじゅう)がいないというのは、法事の儀式において頭首以外に讃歌を唱える参列者がいなかったことを意味しているようだ。
4月1日、辰時(午前7時~9時)に北風が吹いたため、この時に出帆した。そして申時(午後3時~5時)頃に袋山に到着した。この袋山は、隨稍山の西方位に位置しており、ここにも定住者が居たと言われている。また、東南にある欄山にも人家があったようだ。 順風に恵まれたが、潮流の影響で船を泊めるしかない。そして、七時に行法の修了を迎えた。
ここで述べられている「袋山」は、実際のところ小均山の南にある岱山島のことだと考えられる。この岱山島は、大均山よりもずっと大きな島で、徐福が三千の童子童女を連れて海外で求めていた蓬莱島ではないかと言われている。 また、普陀山に近接しているため、観音信仰(補陀落信仰)が非常に強く、旧暦の1日と15日には菜食だけを取る斎教信者が多いという。さらに、現在では住民の3分の1がキリスト教徒になっていることは、前述の情報と変わらない。 なお、鄧小平の二人目の妻・金維映は、この岱山島出身の人物だったが、1941年にソビエトで亡くなった。
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