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「エモい」で済ますのはもったいない。必要なのは「問い」である

まえがき

Twitter見ていたらこんなツイートが流れてきた。

最近はこんなのもあるのかという気持ちになった。それよりエモいという言葉について気になった。

エモいとは何なのか、それは一言で済ますことができるのか、暇になった我々はそういったときこそ頭を使う、つまり問いを立てるべきではないか

ここまで読んでめんどくさいと思った人はそっとブラウザを閉じよう。この文章にエモさを求めるな。

とにかくエモいの一言で済ますのは本当にもったいないと感じた。

本当にそこからエモさを感じ取ったならば、それはどこから来ているのか?みんなで紙袋を被って写真を取るという行為のどの時点にエモさを感じたのか?紙袋をかぶるという行為そのものか?みんなで同じことをしているということか?

僕は紙袋を被ってエモいと思うことはないが、どこにエモさを感じているのか、純粋に気になった。

昨今は、というかもうずっとコロナ禍にあるため暇になった人は多いのではないか。

だからこそ「問い」はそんな暇から抜け出すことを可能にするし、何より新たな「エモい」に出会う確率を上げてくれると考える。

暇が苦痛であるならば、少し頭を使ってみよう。

ということで僕が考える「他のものにもエモを感じることができるようになる方法」についてたらたら書いていく。

方法:問いを立てる

そこに「エモさ」を感じたのならば「問い」を立てることが重要だ。

ただ、「問い」を言われて何が思い浮かぶだろうか。

「なぜ」私はエモさを感じるのだろうか

みたいなことか?

まぁこれは比較的出て来ることが容易な問いであると思う。ただ、僕はこの問いをおすすめしない。

理由としては「答えが出ない」「なぜを連発しただけで思考停止してしまう」

ということがあるからだ。多くの人は経験があるだろう。

なぜ私だけ?なぜあの時に?なぜこんな目に?なぜ?なぜ?なぜ・・・

そう、これだけなぜ?と問うたところで堂々巡りなのだ

だから「なぜ?」という問いではなく5W1Hの他の問いに変換することが重要だ

こうやって問いを立てることで自分が「なんでだ?」と思いを抱いていることの輪郭がはっきりする。

あらかじめ断っておくが「問う」ときにおいて「なぜ?」はあまり勧めないが「なぜ?と感じる感性」は持ち合わせておきたい

さて、上記した問いを言い換える行為をもうすでに行っていたことはご存知だろうか。

本当にそこからエモさを感じ取ったならば、それはどこから来ているのか?みんなで紙袋を被って写真を取るという行為のどの時点にエモさを感じたのか?紙袋をかぶるという行為そのものか?みんなで同じことをしているということか?

このように行っている。

それはどこから?(where)

それはどうやったら?(how)

それはどちらか?(which)

などなど・・・5W1Hに収まらない問いも多くある。このように問いを立てると

「なるほど!多分みんなで紙袋被ったことがエモかったんだ!スマブラの通信対戦をみんなでやったときと同じ感じだ!」

という自分なりの結論を生むことができるかもしれない。

ただ、ここは注意点で結論っぽいものも問いで終わらせることが重要だ。それが間違っていることを否定できないから。

スマブラの通信対戦で騒いでいるときと同じではないか?

というように。

最後に一つ重要な事実がある。

この「問いを変換する」儀式において問いに答えることよりも立てることのほうが難しいのだ

自転車を最初から上手く乗れないように、なぜ?以外の問いを立てる行為もはじめのうちは苦労する。

しかし、自転車の乗り方と同様に問の立て方も「コツ」があり回数をこなすうちに「慣れ」が出てくるはずだ

そして、このような問いの立て方に慣れると「問を立てることができたら7割くらい問題が解決していた」ということになる。

とまぁ長々と書いたが最後まで見た人の勇気に感謝する。

僕は終わり方が下手なのでこのへんで終わるとハッキリ言う。

では、良き問いライフを。

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