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[書評] 最強の香港問題入門? 『香港第一課』

最近香港で(正確には台湾で)出版された『香港第一課』という本を手に入れた。

タイトルの通り香港を理解するための入門コースのような一冊で、翻訳されて日本語で読めるようになるといいなと思う本だった。ちなみに中国語版は電子書籍が日本のAmazonでも購入できるみたい。

人文地理学者・評論家の梁啟智が、WebメディアのMattersで連載した記事を書籍化したもので、昨今の香港情勢についてのありがちな疑問に答えている。

参考までに目次を訳すと、以下のような感じになる。

第一部:アイデンティティの問題
・香港は古来から中国の領土ではないのか
・中国政府は香港の歴史を誤って理解しているのか
・香港に対する中国大陸の誤解はどんな結果をもたらしているのか
・「香港アイデンティティ」はどのように始まったのか
・「香港アイデンティティ」は「中国アイデンティティ」と対立するものなのか
・香港人は当時、返還を恐れていたのか
・香港人は当時、返還を喜んでいたのか
・なぜ返還後の香港人はいっそう中国大陸を拒むようになったのか
・なぜ香港人は経済発展に力を集中せずに、アイデンティティ問題にこだわるのか
・なぜ本土主義と中港矛盾は近年急速に噴出したのか
・香港人も中国人なのに、なぜアイデンティティを論じる必要があるのか
・なぜ国民教育に反対するような香港人がいるのか
・普通話は広東語に変わって香港の主流言語になるのか?

第二部:制度の問題
・中港双方の特別行政区の政治制度に対する最大の意見の相違はどこにあるのか
・香港は本当に三権分立を実行しているのか
・香港は本当に高度の自治を実行しているのか
・なぜ外国政府が香港問題についてとやかく言うのか
・なぜ行政長官選挙は偽選挙と批判されているのか
・なぜ行政長官と香港政府は市民からの信用が低いのか
・なぜイギリスが残した制度が返還後になって通用しなくなったのか
・なぜ立法会議員はいつも批判ばかりで建設的なことを言わないのか
・なぜ立法会議員はどんどん過激になっているのか
・なぜ立法会は四六時中妨害ばかりで議事が進まないのか
・なぜ香港の裁判所には外国人裁判官がいるのか
・なぜ全人代の法解釈に反対するような香港人がいるのか
・区議会議員の職責はコミュニティへの奉仕ではないのか、なぜ政治化するのか
・なぜ香港にはこんなにたくさんの民意調査があるのか
・なぜTVBはCCTVBと呼ばれているのか
・なぜ香港では四六時中デモがあるのか
・なぜ香港警察は近年次々と批判にさらされているのか
・なぜ香港の抗議運動は近年どんどん過激化しているのか

第三部:今後の行方
・なぜ香港人は返還後急に民主の獲得に躍起になったのか
・返還後香港の政治制度は返還前よりは民主的ではないのか
・なぜ香港にはいまだに普通選挙がないのか
・普通選挙は香港の全ての問題を解決できるのか
・一国二制度にまだ未来はあるのか

メディアや文化、経済、言語といった日常的な問題から、選挙制度や議会制度と言った制度面の問題まで幅広く取り上げられているので、読了すれば香港社会についていろいろな側面から理解することができるはず。

序文によれば、本書の執筆のきっかけは、香港の大学で大陸から来た学生を教えるうちに彼らの香港に対する知識・認識に大きなギャップを感じた筆者が、イデオロギーを越えた学術的な精査に耐えうる事実を伝える必要性を感じたことだったらしい。だから基本的に香港に関心のある中華圏の人に向けて書かれたもので、一部前提知識が要求される章もあるけど、香港人ではなく「外」の人にむけた解説ではあるので、日本の人が香港問題を理解するのにも最適の入門書になっていると思う。

全体としてはボリュームのある分厚い本(400ページ以上)だけど、各章は短く10ページ程度で、図や表も豊富に使ってわかりやすく解説されているのですんなり読める。さらに各章には元ネタになった論文や記事が参考文献としてしっかり記されているので、香港について深く専門的に学ぼうとする人にとってもありがたい仕様になっている。

内容も固くなりすぎず、特に第一部ではカントポップなどのポピュラーカルチャーへの言及も多い。Web版で読んだ「香港アイデンティティ」についての章は、かつてnoteに連載したカントポップ論の中で参考にさせてもらった。

今回あらためて書籍版を読んでみて一番印象に残ったのは「歴史にイフはないのだから」と題された台湾版序文だった。

この序文の冒頭、筆者は昨年11月に行われた民意調査の結果を引用している。

それによれば、昨年6月に勃発した一連の抗議運動について、全回答者の4分の3が「できることなら発生して欲しくなかった」と回答したという。

この結果は4分の3の人がデモの掲げた理念に反対をしたからではなく(民意調査の他の項目がそうではないと示している)、抗議運動の長期化と香港政府への市民の信頼低下により、香港社会がもはや後戻りのできない「臨界点」に達してしまったからだと思う。

かつて多くの香港映画でヒーローとして描かれた香港警察は、今や若者に実弾の入った銃口を向けるようになり、その信用は地に落ちている。「ゴミ箱ひとつ倒さない」と言われた平和なデモ行進は過去のものとなり、各地で破壊活動が行われるようになり、流血沙汰の衝突も珍しくなくなってしまった。

私自身、一連のニュース報道やライブ中継をみていて、「果たしてこれは自分の知る香港の出来事なのだろうか」と思うことが何度もあった。

確かに、一連の抗議運動は香港に、まさに「取り返しのつかない」変化をもたらしたのかもしれない。政治的無関心が蔓延し、見かけ状の「平和」な日常が保たれていた以前のような社会に戻ることはもうないだろう。何より抗議運動が原因で逮捕・起訴されて人生が全く変わってしまった若者もたくさんいるわけで、彼らが失った青春はもう戻ってこない。

だから「できれば発生して欲しくなかった」という人が多くいるのは納得できる。

しかし本書の筆者は、そんな考えに一定の理解を示しつつも、現行の香港の「制度」に問題がある以上、このような抗議運動は早晩発生していただろうと考えている。だから「もし起こっていなかったら」を考えるよりは、起こってしまった原因である制度の問題点を知るべきだと提言している。

結局歴史にイフはないのだから、実際に時を戻して今回の騒動を起こさない選択をすることはできない。発生してしまった以上、香港が世間の関心を集めてしまった以上、この機会を借りて背景にある脈略を説明しようと思う。/過去は変えられないが、私たちにはまだ未来がある。香港がどのようになろうとも、香港の物語は、香港以外の地域の人々にもしっかり伝えて行く必要があるはずだ。結局、大きな構造の上では、香港も台湾も、そして中国大陸自身すらも、同じ問題の渦中にあるのだから。

当然、中国と隣人として向き合う日本の人々にとっても、香港や中国の危機は決して対岸の火事ではないはずだ。中国で生じる問題が日本の危機に直結しうることは、今回の新型コロナウィルスの流行で多くの人が思い知ったことだと思う。

このウイルスにしても、香港では昨年末に発生が取り沙汰された当初からSARSの再来として危険視され、大きく注目を集めていた。だから日本社会および政府が中国からの公式発表に頼らずに、香港社会の危機意識を共有できていたらどうなっていただろうかという「イフ」を想定してしまったりもする。

私たちはやはり香港という隣人の声にもっと耳を傾けるべきではないのだろうか、本書はあらためてそう思わせてくれる一冊だった。彼らの問題は結局、私たちからそれほど遠くはないところにあるはずなのだから。

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