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香港映画『淪落の人』の感想&解説(ネタバレあり)

『淪落の人』という香港映画が今月から新宿武蔵野館などで公開されている。

香港では2019年に公開された映画で、事故で身体に障碍を負った中年男性と彼に雇用されたフィリピン人のメイドとの物語を描いている。

私は日本ではまだ見られていないのだけど、研究しているテーマに近い題材の映画だったこともあり、香港版のDVDを購入して何度も繰り返し見ている。

以下、この映画について、現実の「香港における外国人メイド問題」と関めながら、簡単な感想と解説を書いていきたいと思う。

決定的なものは避けたつもりだけどがっつり内容に踏み込んでいてネタバレもあるので、映画を未視聴の人は読まない方がいい。

いい映画なので、興味があったらぜひ先に見に行ってください。


よく調べられた「リアルな」映画


先に結論めいたことから言ってしまえば、この映画はかなり「リアル」だと思った。外国人家事労働者問題についてある程度調べている人間が見ても「あー、あるある」となるような、とてもよく調べて作られた印象のある映画だった。

まず、このテーマ自体がとてもリアルだと思う。「外国人メイド」たちは香港では日常的な存在だ。人口700万人程度の香港で実に30万人以上の外国人メイドが雇用されているとされる。世帯数で割ると7世帯に1人程度はいる計算になるから、決して一部のお金持ちだけが雇用しているわけではなく、日本における「メイド」のイメージよりは遥かに身近でありふれた存在になっている。

遅めの朝の市場に行けば、必ず高齢者と共に買い物にやってきているメイドの姿を何組か目にするし、夕方の下校時間に学校の前を通れば子供を迎えにきたメイドたちが行列を作っている。そして彼女たちが週に1度の休みを与えられる日曜になれば、香港各地の公園や広場で仲間たちと談笑したり、様々なアクティビティに従事したりしながら休日を満喫する彼女たちの姿を見ることができる。

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(日曜の公演に集うフィリピン人女性たち)

香港における外国人メイドは、大部分が東南アジア、それもフィリピンかインドネシアから来ている。

本作の主人公であるエヴリンのようなフィリピン出身者は香港の外国人メイドの中で最大のグループで、2000年代以降に雇用が増えたインドネシア出身者よりも古く、1980年代ごろから香港で雇用されている。だから中には20年以上香港で雇用されているベテランもいる。

そのため彼女たちは香港に強固なコミュニティを持っていて、お互いを助けあいながら暮らしている。

映画の冒頭、初めての休日がメイドの集会を訪れたエヴリンが先輩方から様々なアドバイスをもらうシーンはその一番わかりやすい例だと思う。

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(映画に登場した香港上海銀行ビル。実際も定番の集合スポットの一つ)

先輩からの一番のアドバイスは「バカで何もわからないフリをしろ」とのことだったが、これは実際によく言われる彼女たちの処世術の一つだ。

香港でメイドとして働くフィリピン出身者は、比較的高学歴であるとされ、大卒資格や教員免許を持つものすら少なくないという。本作のエヴリンも元看護師という設定になっている。しかし故郷ではエリートである彼女たちも香港にくれば無知な「ただのメイド」として扱われ、雇い主の命令で日常の様々な雑務を任せられるだけの存在になってしまう。そんな中、できるだけ本来の能力を隠して何もできないフリをすることは、仕事量を減らすための「賢い」戦略になる。

もっともこのような戦略は、香港人雇い主の間でも知れ渡っていて、フィリピン人メイドたちは「狡猾」「ずる賢い」といったような印象を持たれている。本作でもアドバイスに従い愚鈍なフリをするエヴリンに対して、雇い主のリョンは直ちに「こっちで友達ができたか?」と見破っている。

そしてそんなエヴリンの細やかな「抵抗」の試みは、「仕事をちゃんとやらないと解雇する」というリョンと親族からの脅しによって頓挫してしまう。

香港における外国人メイドの滞在資格は基本的に雇用と連動したものであり、雇用関係が終了した場合は、短期間の間に新たな雇用者を見つけない限り帰国を余儀なくされてしまう。解雇はすなわち出稼ぎ終了を意味するため、エヴリンがこれを恐れるのは無理もない。

この滞在資格の制限は、雇用者家庭への住み込みの義務づけなどとともに、外国人メイドが過酷な仕打ちに耐え忍ばなければならない状況につながっているとして国際人権団体などから批判されている。

このあたりの現実の社会問題についても指摘されるポイントをしっかりと押さえているため、本作はフィクションでありながら香港人雇用者とフィリピン人メイドの「リアルな」関係性を扱ったものであるという印象になっている。

もちろんリアルなだけではいい映画にはならない。本作の魅力は、そんな巧妙に描かれた「よくある関係」を背景にして、リョンとエヴリンのドラマチックな物語を際立たせていることにあると思う。でもそんな2人の関係性の演出にも、香港社会のリアリティが現れている。

キーアイテム(1):英語と「粗口」


まず第一に印象的なのは、英語のできないリョンと広東語のできないエヴリンの片言を使ったコミュニケーションだった。

香港で働くフィリピン人メイドはこの映画のエヴリンのように一般に英語に堪能なことが多く、香港人雇用者とも通常は英語を使ってコミュニケーションを取る。そもそも早期英語教育の一環として雇用されることもあって、小さな子供のいる家庭で特に多く雇用される傾向にあるとされる。

一方で香港人側の英語の習熟度は人それぞれだ。元イギリス植民地とはいえ、普段の生活で広東語を使う香港の人々にとって、英語は母語ではない。本作のリョンほど英語のできない例は稀かもしれないが(そういう人は普通、母国で言語研修を受けて簡単な広東語を身につけてくるインドネシア出身者を雇う)、雇用者よりもフィリピン人メイドの方が英語が流暢であることも珍しくない。

そのため英語によるコミュニケーションは、彼女たちが一瞬でも雇用者に対して優位に立つきっかけにもなる。エヴリンの先輩たちが、彼女に「広東語は勉強するな、してもわからないフリをしろ」というアドバイスをするのは、おそらくこのコミュニケーション上の優位を失わないためだろう。

そのような言語をめぐる複雑なパワー・バランスが存在する香港の状況の中で、あえてお互いの言語を学び、片言の英語と広東語でコミュニケーションを取ることは、エヴリンとリョンの間に芽生える特別な絆の象徴になっている。

エヴリンが勉強する広東語の中には、もう一つ興味深い演出もある。リョンが彼女に対して汚い広東語を教えようとするのだ。

広東語には「粗口」(チョウハウ)と呼ばれる卑語があり、リョンは普段からこれをよく使って会話をしている。これは英語で言うところの「Fワード」のようなもので、もともとは性的な意味を持つ言葉だけど、今ではその意味はほとんど失われてただの強調語になっている。日本語に例えるのは難しいけれど、「クソうまい」の「クソ」のようなものだと思ってもらえれば遠くはない(たぶん)。

粗口は最近でこそ大学生や若い女性の間での使用も珍しくないけれども、元来はマフィアの成員や労働者階級などの使う荒っぽい言葉との印象を持たれていた。リョンがこれを多用するのは、元肉体労働者であり「淪落の人」である彼の社会的地位を印象付けるためのキャラクター設定だろう。

(ちなみに彼を演じるアンソニー・ウォンは、かつて過激な歌詞を歌うパンクロック・シンガーとしても活動しており、「粗口」がとても似合う俳優である。)

彼から広東語を学んだエヴリンは「多謝」(ドーチェ=ありがとう)という言葉に、男性器を意味する粗口である「撚」(ラン)を挟んで「ドーランチェー」と言ってしまったりする。

外国人(の特に女性)に過激な言葉を教えることに喜びを覚える男性というのは香港でもどこでも一定数存在しているから、これもある意味では「リアル」な話だ。

だけどこの映画の中では、言葉の端々に「ラン」やその婉曲表現である「ナー」を挟んでしまうエヴリンの不思議な話し方は、ぎこちなく進展していく2人の関係性を象徴するものであり、ラストシーンの感動的なセリフにもつながっている。

キーアイテム(2):エヴリンのカメラ


本作において「粗口」と並ぶもう一つのキーアイテムは、エヴリンの持つ「カメラ」だろう。

彼女は来港前から写真撮影を趣味にしていて、密かにフォトグラファーになることを夢見ている。

しかし香港に来た当初、エヴリンは街中で雇い主からも市場の店員からも「メイド」として見られ、レッテルを貼られる存在となってしまう。彼女が夢を持っていることを伝えても、リョンは「フィリピン人メイドが夢だと?」と取り合わない。

印象的なのはリョンが見ている(日本の)アダルトビデオのインタビューシーンと「はい、(香港に来るのは)今回が初めてです」と語るエヴリンの姿が重なるシーンだ。香港社会における彼女が、好奇や差別の目で「見られる」存在であることを明確にする演出だろうと思う。

しかしリョンから新しいカメラをプレゼントされ、自分の夢を取り戻してからの彼女は、対照的に、撮影を通して香港の街や人々を主体的に「見る」存在に変わっていく。

この「フォトグラファーを目指すメイド」という設定は流石に映画的なものだと思われるかもしれないけれど、実際に写真を趣味にするメイドは驚くほど多い。日曜にはメイドむけの写真ワークショップなども開かれていて、実は私も出席してみたことがある。

彼女たちが写真に熱中する理由はいくつか推測できるのだけど、一つは香港での暮らしを故郷の家族や友人に伝えられる手段であるからだろうと思う。

彼女たちが出稼ぎに来る最大の理由は当然経済的なものだけれども、それ以外にも「都会の暮らしに憧れた」「外国で暮らしてみたかった」という平凡な若者らしい夢を持って故郷を離れる女性も多い。だから彼女たちが香港での暮らしを、できるだけ華やかなものとして記録に残そうとする気持ちも理解できる。

もう一つの理由は、彼女たちにとっては日曜の休日が自分を着飾れる貴重な機会だからかもしれない。家庭で勤務中のメイドに対して、雇用者は一般に「地味」な服装を求める。その理由は「セクシーな服で家人を誘惑されたら困る」「動きやすい服装でいて欲しい」など様々のようだけど、日本で言う「メイド服」のような華美なものは当然ご法度で、作中のエヴリンもきているダボっとした無地の白Tシャツにジーンズというのが香港のメイドの「制服」である。

だから日曜には、この映画の中でも少し描かれていたように、きれいに着飾って街に繰り出す彼女たちの姿が見られる。時には大々的なファッションショーが開かれることもあり、彼女たちにとって「フォトグラファー」の需要は当然高いものだろう。

余暇の様々な活動は、エヴリンにとってのカメラがそうだったように、彼女たちが雇用者の眼差しを逃れて、「ただのメイド」ではない自分自身の生活を取り戻せる貴重な時間なのだ。

台湾における外国人メイド問題を調査した社会学者・藍佩嘉は、憧れを抱いて故郷を離れ、差別的な眼差しと過酷な労働の中、それでも精一杯にキラキラした人生を楽しもうとする彼女たちのことを「グローバル・シンデレラ」と呼んでいる。


本作に欠けているもの:「普通の」人々の視点

こんな風に、本作はとても「リアル」な作品だと思う。

特に香港においてメイドとして働くフィリピン人女性が日常については、それなりにしっかりと取材をして作られているという印象がある。だから彼女たちの抱える問題を知りたい人にもおすすめできる映画になっている。

だけどこの映画だけで「香港の外国人メイド問題」が理解できるかといえば、それは少し疑問だ。なぜなら本作には、香港の「普通の人々」が「メイド」たちに向ける視点がほとんど描かれていないからだ。

家族から半ば見捨てられた身体障害者と、出稼ぎに来たメイドという二人の「淪落の人」が絆を深めて「夢」を見る筋書きはドラマとしてはとてもいい。でも現実に香港に存在する外国人メイド問題の根本は、中流階級の「普通の人々」が主体となっている点であると思う。メイドたちに「差別的」とも思える視線を投げかけ、時に暴行や虐待にまで走ってしまう人々は、元々はそんな「普通の人々」だろう。

しかしメイドに対する過酷な仕打ちを被害者の視点から取り上げるのみでは、加害者である雇用者たちはただの「悪役」として一面的に描かれてしまう。

実はこの傾向は、映画だけでなく、研究者による調査にも同様に見られるのだ。

自身もフィリピン人メイドを雇用する香港人ジャーナリスト・蘇美智は、外国人メイド問題を扱った自著の序文の中で、そんな扱いに対する不満を綴っている。

雇用者の思いがよく伝わる文章だと思うので、少し長くなるが訳して引用する。

香港が外国人メイドを受け入れていなければ、そもそもこの本が生まれることはありえなかった。私は香港の33万人の外国人メイドの雇用主の一人だ。我が家の外国人メイドの招聘契約には私の名前が署名してある。

主流メディアの中の「私」は、獰猛な顔をしている。インドネシア人メイド、エルウィアナ [訳注:雇用者からひどい虐待を受けて保護された女性の名] の暴力に踏みにじられたあの顔は、文明の仮面の下に隠れた香港雇用主の悪を全世界に知らしめた。(…)子供を愛する人々の目には、「私」は、我が子を外国人メイドに任せ、「孤児のようなもの」にしてしまう無責任な保護者として映る。また「私」は残忍なほどのナイーブさで、外国人メイドに人類の極限に挑戦するような要求をする。大小様々な家庭の雑務に当たらせ、食料品の買い出しや調理をさせ、車椅子を押させて子供を背負わせて、洗濯、洗車、トイレ掃除も任せて、さらにはやんちゃな小学生の英語の先生や雇用主のストレスのはけ口としても利用する。

研究を愛する学者たちの文章の中では、「外国人メイドの雇用主」という言葉はすでに原罪に満ちている。「私」はグローバル化の搾取システムの共犯者であり、資本主義の悪を発展途上国の一番貧しい辺境の一番弱い家庭にばらまいている。また「私」は、フェミニズムの戦線に立ち、外国人メイドと力を合わせて家父長制の束縛から抜け出すことを目指すどころか、自分自身にかけられた鎖を小さく複製して、異鄉の女性を縛り付けている。

そんな疑いなく人を不安にさせるような姿の一方、「」をとった私は、香港の大部分の雇用主と同じく、ただ懸命に生きる人間である。家庭と仕事の両立に関しては、選択肢があるように見えても、いつも本当の選択はあったためしがない。全く見知らぬ異邦人を家庭に引き入れることについて、内心とてもビクビクしている。外国人メイドの様々な奇行についての噂を耳にすれば、愛する家族にはそれが降りかからないことを祈る。メイドの虐待事件について目にすると、思わず自分を省みて、そんな悪名高き滑り台を滑り落ち、残酷な雇用主としての後戻りできない道を歩みはじめてしまわないようにと、自分自身を戒める。

その上で彼女は、そんな極端なケースではなく「中間的な人々のあれこれに耳を傾ける」ことを主張して本書を書いている。

確かに香港における外国人メイドの扱いは理想的とは言い難い状況だと思う。でもその問題は、香港人雇用者を単純な「悪役」として描けば解決するものではない。なぜ「普通」の、おそらくは家族や隣人の前では善良な人々であるはずの彼らが、彼女たちに敵意や偏見に満ちた眼差しを向けてしまうのか。それを彼ら自身の視点からも辿ることが重要だろうと思う。

実は、そんな「普通の人々」の視線を垣間見ることのできるもう一つのメイド映画がある。それは『桃さんのしあわせ』という2012年公開の映画だ。

こちらはメイドといっても外国人メイドではなく、ベテランの華人メイドが主役になっている。一家に長く勤めた老メイドと、彼女にお世話になった雇い主家族との絆をめぐる感動の物語で、映画プロデューサーの家庭で働いていた実在のメイドを題材にした実話である。

この作品には外国人メイドは直接には登場せず、セリフの中でわずかに言及されるのみだが、注意深く見ていくと、「昔のメイドはよかったが今は……」と仄めかす形で、現代の外国人メイドたちが隠れた参照軸になっていることが見えてくる。

そのため『淪落の人』を通じて香港外国人メイドの問題に興味を持った方には、それとは反対側の、「普通の人々」のストーリーを知るために、ぜひ観賞していただきたい。

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最後に宣伝:TUFS Cinema『桃さんのしあわせ』

そして、そんな『桃さんのしあわせ』が、3月13日、東京外国語大学の映画上映イベントTUFS Cinemaで取り上げていただけることになりました。

上映後には香港研究者が内容を解説するトークコーナーもあり、私も登壇予定です。

『淪落の人』との比較もしたいと思っているので、興味のある方はぜひいらしてください。一般公開、入場無料です。

[2020年2月20日追記] 残念ながら開催が延期になりました。代替日については決まり次第お知らせいたします。




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