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子どもと映画——『動くな、死ね、甦れ!』上映に寄せて

2021年10月10日(日)、倉吉シネマエポックで映画『動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー、1989)が上映される。トークゲストは倉吉で「自然がっこう 旅をする木」を経営する得田優さん。以下、上映に向けて作品を再見した感想と備忘録を記しておく。

カメラが記録したイメージから成る映画は、たとえ物語が完全なフィクションであっても、必ずドキュメンタリー的な要素を含んでいる。

動くな、死ね、甦れ!』(ヴィターリー・カネフスキー、1989)において、炭鉱町スーチャンに暮らす12歳のワレルカという設定がフィクションでも、かつてパーヴェル・ナザーロフという少年がカメラの前に立ち、ワレルカを演じたのは現実の出来事だ。ワレルカが子豚を飼うことになったのはフィクションでも、パーヴェルが子豚を抱き、何度もキスをするという両者の「触れ合い」は、やはり現実に起きた出来事なのだ。

子豚は数週間で一気に成長してしまうので、『ベイブ』(クリス・ヌーナン、1995)の撮影では48匹もの子豚がリレーしてベイブ役を演じたという。人間の成長速度は流石にそこまで早くないが、それでも「一年ぶりに再会した親戚の子の変貌ぶりに驚く」みたいな経験は誰にでもあるだろう。子どもの成長は早い。今この時の姿は、今この時しか見ることができない。

カメラはある瞬間の光景を半永久的に固定する機能を持つがゆえに、移ろいゆくもの、去りゆくものを好んで被写体としてきた。中でも「子ども」は特権的な存在だ。記念写真、ホームムービー(ビデオ)、そして映画。『大人は判ってくれない』(フランソワ・トリュフォー、1959)のラストシーンは、瞬間と永遠の共犯関係がどれほど強く心を揺さぶるかを示す、典型的な例と言えよう。

カネフスキーと同様に「子ども」や「アマチュア」を媒介としてフィクションの中のドキュメンタリー性を追求する作家としては、『夢の島少女』(1974)や『四季 ユートピアノ』(1980)の佐々木昭一郎、『誰も知らない』(2004)などを手がける是枝裕和の名前を挙げることができる。

個人的な記憶としては、『狩人の夜』(チャールズ・ロートン、1955)で夜の川を下る子どもだけの逃亡劇、『りりくじゅんび』(山崎幹夫、1987)でカメラを回し合う子どもたちの表情も、いまだに忘れがたいイメージとして私の心に刻まれている。

あるいは『スタンド・バイ・ミー』(ロブ・ライナー、1987)や『ミクロキッズ』 (ジョー・ジョンストン、1989)、とりわけスティーブン・スピルバーグのジュブナイル映画は私の原体験になっていて、『SUPER8/スーパーエイト』(J・J・エイブラムス、2011)には「分かるけどさあ……」と複雑な思いを抱いたし、『ストレンジャー・シングス 未知の世界』(ダファー兄弟、2016〜)は「めっちゃ同世代ぽいな!絶対同じような映画見て育ってるな!!」と思いながら見た(実際、ダファー兄弟は1984年生まれで一個違いだった)。

『動くな、死ね、甦れ!』の続編『ひとりで生きる』(1992)に登場する15歳のワレルカは、前作のワレルカとはまるで別人のようだ。そして『ぼくら、20世紀の子供たち』(1994)に思わぬかたちで登場するパーヴェルも、『ひとりで生きる』のパーヴェルと同じパーヴェルではない。現実世界のパーヴェルの成長が、物語世界のワレルカの成長とシンクロしている。観客は三部作を鑑賞しながら、ワレルカとパーヴェルそれぞれの人生に思いを馳せることになる。

カネフスキーの三部作のように、ある人物が生きた瞬間を一期一会に記録するだけでは飽き足らず、その後も続いていく人生を追いかけ、継続的にカメラを回し続ける試みは他にもある。

トリュフォーの自伝的作品である『大人は判ってくれない』は、「アントワーヌ・ドワネルの冒険」シリーズとして20年に渡って続編が製作され(最終作は『逃げ去る恋』1979)、主演ジャン=ピエール・レオの人生がアントワーヌ・ドワネル(そしてトリュフォー)の人生に重ね合わせられた。

イギリスに暮らす7歳の子どもにインタビューしたドキュメンタリー番組『seven up!』(マイケル・アプテッド、1964)から始まる「UPシリーズ」は、その後7年ごとに同じ出演者にインタビューをして『7 Plus Seven』『21 UP』『28 UP』……と番組制作を継続し、2021年には最新作『63 UP』が公開された。

観客がシリーズを通して子役たちの成長を見届けたもっとも有名な例と言えば、やはり「ハリー・ポッター」シリーズだろう。第一作『ハリー・ポッターと賢者の石』(2001)から最終作『ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2』(2011)までの10年間で、ホグワーツの生徒たちは魔法使いとしてどのような成長を遂げていくのか。ダニエル・ラドクリフ、エマ・ワトソン、ルパート・グリント、トム・フェルトンらは役者としてどのような成長を遂げ、その後どのようなキャリアを積んでいくのか。こうした作品受容は一種のリアリティショーであり、関わった子どもたちの人生を大きく左右する呪縛でもある。

リチャード・リンクレイターの『6才のボクが、大人になるまで。』(2014)はシリーズものではない。1本の作品=2時間46分という上映時間のうちに「12年」という時間を圧縮してみせる。6歳から18歳になるまで同じ役柄を演じ続けたエラー・コルトレーンは、完成した作品を見て「映像の中に自分がいるのに自分じゃない」と感じ、戸惑ったという。だが彼は「また君を12年間撮りたいと言われたら?」との質問に対して、まだ作品が完成したばかりだからと前置きしつつも、「イエス」と答えた。

ロベール・ブレッソンや佐々木昭一郎をはじめとして、非職業俳優=アマチュアが登場する映画からしか得られない「何か」があり、私は一観客としても一作家としてもその魅力にずっと惹かれ続けてきた。

だがフィクションの他者の人生と、監督や役者の人生を重ね合わせる試みが「安全無害」であるはずがない。映画の中に現実の生を流し込むだけでは済まされず、現実の中に映画の生(時には死)が逆流してくることもあるからだ。ましてやそれを子どもにやらせるというのは、相当に危険で、過酷な行為と言わざるを得ない(その意味で、カネフスキーのような作家が今後また現れる可能性は限りなくゼロに近いだろう)。

ワレルカ役のパーヴェルともう一人、カネフスキーに自分の人生の一部を貸し出した子ども、ディナーラ・ドルカーロワは——彼女が演じたガリーヤ/ワーリャの辿った運命とは対照的に——その後も役者としての活動を続けている。職業俳優=プロフェッショナルな役者の条件とは、物語上の要請で監督から「動くな、死ね」と指示を出されても、その物語が終われば再び「甦れ」ることなのかもしれない。

IMDBなどで確認した限り、パーヴェル・ナザーロフのフィルモグラフィーは1994年の『ぼくら、20世紀の子供たち』が最後である。ディナーラに「まだ役者をやる気はあるか」と尋ねられて、パーヴェルは「そのつもりだ」と答えていた。それが本心であるならば、いつかもう一度、スクリーンに映し出された大人のパーヴェルを目にしたいと願う。

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