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現時点プロジェクト『私はおぼえている』について

「特別ではない」「普通の」「ありふれた」「市井の」人々にこそ、ドキュメンタリーはカメラを向けるべきだという考え方がある。あるいは、何かしら「特別」な要素を持っている人物であっても、その人の「日常」や「普段」の姿を捉えなければならない、「素顔」や「人間」としての有り様を掘り下げなければならないという考え方がある。真摯で誠実で倫理的な態度のように思えるけれど、そこには大きな欺瞞もしくは矛盾がある。

誰かにカメラを向けること。他の誰かでも良かったかもしれないのに、そうはせず、「あなたを撮りたい」と伝え、撮影を始めることは、どれだけ繕っても「選別」の行為であり、作品に映し出された人物の背後には、撮れなかった人、撮らなかった人、そもそも撮る/撮らないという選択の埒外に置かれた人々が膨大にいる。カメラが向けられた時点で(少なくとも映画の作り手にとっては)「特別」さが付与されてしまうのであり、真に「特別ではない」「普通の」「ありふれた」「市井の」と呼ばれるべきは、カメラに映っていない人々だろう。

カメラ映えの良い人間は確かにいる。できれば、そういう人にカメラを向けたくなる。映画やドキュメンタリーを撮る者はルッキズム(外見に基づく差別)から逃れられない。「容姿」や「年齢」や「性別」で残酷に選別が行われるのは芸能界やアイドル業界だけではない。基準が異なるだけで、常に私たちは外見(外面)で他者を判断しているのだ。「特別ではない」「普通の」「ありふれた」「市井の」といった言葉は、その事実をしばしば覆い隠してしまう。

なぜ私は「あなたを撮りたい」と伝えたのか。なぜあの人には、同じ言葉を言わなかったのか。カメラを回す以上、何かしらのルッキズムから逃れることはできない。いや、撮るのをやめても、作家を廃業しても、この両眼を潰しても、おそらくルッキズムと縁を切ることはできないだろうと思う(このことは、今年の2月に上映した『Implication(Sado)』という短編で一度語ろうとした)。

せめて「選別」の行為を隠したり誤魔化したりしないようにしたい。自分の映画やドキュメンタリーに出てもらう人には、「(少なくとも私にとって)あなたは特別です」と伝えるようにしている。何がどう「特別」なのか、言葉を尽くして伝えたいと思っている。「あなたでなければならない」理由を言えない人には取材を申し込まない。それが私の作家としての倫理だと思っている。

映像作家の友人(知り合い)が少ないせいもあって、上記のような問いは基本的に一人で黙々と考えてきたのだけれど、ああこの人(たち)とはきっと問題意識を共有できると感じ、勝手に同じ時代を「並走」していると思っているのが「現時点プロジェクト」(波田野州平 + 河原朝子 + 池口玄訓 + 上所俊樹 + 野口明生 + 中山早織)だ。鳥取を拠点に活動しており、地元に暮らす人々にインタビューした『私はおぼえている』シリーズが先日の「山形国際ドキュメンタリー映画祭2021」で上映された。

現時点プロジェクトが上述の問題を如何にして突破してみせているか、を記述すれば、分かりやすい絶賛レビューが出来上がるのだが、それを書いてしまうのは誠実ではないと思う。「なぜこの人にカメラを回すのか」「なぜあの人ではなかったのか」という問いについて、きっと現時点プロジェクトもまだ明確な答えは出せていないだろうし、明確な「答え」をあっさりと語ってしまえるような集団であれば、私はその作品や活動に感銘を受けることもないだろうから。

私が『私はおぼえている』を見て感じるのは、実のところ、10名の話者の語り以上に、聞き手であり撮影者でもある波田野州平さんの映像に対する強烈な美意識である。語り手の言葉(=私はおぼえている)を私(波田野さん)はこのように聞いた(=私はおぼえている)という二重の記憶/記録として、強烈に迫ってくる。波田野さんの眼差しの存在感を抜きにして、この映画を見ることは私にはできない。

この映画が、作り手の独りよがり、撮る者による撮られる者の搾取に陥らないギリギリのバランスを保てているとしたら、それは制作した作品を語り手たちが暮らす土地で上映し、共に語り合う場を設けるという、現時点プロジェクトおよび波田野さんの活動方針に依るところが大きいと思う。語り手の言葉を受け取り、映像に変換して、再び元の場所・元の人に返すことで、初めて作品が完成する。

もちろん、それだけで自動的に「なぜこの人にカメラを回したのか」という問いへの答えになるわけではない。けれど「私はおぼえている」の往還を続けることで、撮る/撮られるという究極的な根拠・必然性は示し得ない(示せば嘘になってしまう)関係が、いつか「わたしとあなたでしかあり得ない」関係へと育つ日が来るかもしれない。映画はそんな願いを伝達するメディア(媒介)となる。この時、作り手の美意識は隠蔽されるよりもむしろ堂々と示されたほうが良い。「私はおぼえている」(私はあなたをこのように見た)と、面と向かって伝えること。

田舎で(上映を)やるほうがタフだなって思うんですよ。必要ない人が来るわけだから、映画を。ほんと「誘われたから行ってみよう」とか「なんか今日やっとるらしいけえ行ってみよう」とか、そういう人に見せるのって一番怖いっていうか、ドキドキするじゃないですか。
映画が必要じゃない人に、映画が、人生の中でちょっとだけ意味があるものになったような感じがして、楽しいですね。(『映画愛の現在 第2部/旅の道づれ』より、波田野州平さんの言葉)


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