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『劇場版 呪術廻戦 0』と存在しない記憶

公開が待ち遠しくてたまらなかった。

原作の『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』は、週刊少年ジャンプで連載中の本編の前日譚。全4話、単行本では一巻で完結するコンパクトさと、その中で過不足ない見事な構成を見せつけてくれる名作で、アニメ映画化に最適な条件を揃えた作品だと前々から思っていたからだ。2020年に放送された本編のテレビアニメ版が、原作をしっかり読み込んだことが伝わる丁寧な作りだったことへの信頼感もあった。原作ファンとして、あのキャラクターたちがあの場面で動いている姿を見られるだけでも大きな楽しみだが、それに加えて、105分で完結する一本の映画体験としても、至上の作品に仕上がっているのではないか? そんな期待を胸に、12月24日の朝、『劇場版 呪術廻戦0』上映初日の鳥取シネマに向かった。

だがその期待は半分当たり、半分外れることになった。

中盤まではほぼ完璧だった。テレビアニメ版に引き続き、原作をしっかりと読み込み、その展開や台詞を忠実になぞっていく丁寧な映画化。そこに週刊連載開始後の展開——特に五条と夏油の過去編を踏まえての回想シーン——も補完され、理想的なアニメ映画化のかたちがここにある!という感動で打ち震えた。

小さな違和感が生じ始めたのは、百鬼夜行が始まった辺りから。原作では詳細に描かれなかった「新宿」や、京都校の面々が登場する「京都」でのバトルシーンは、確かに大作アニメ映画のお祭り感があって楽しめるし、映画オリジナルの展開を挟むならここしかないという説得力もある。だがどうも、これらのシーンが入るたびに、やや物語が停滞する感が否めないのだ。原作では、終盤の畳み掛ける怒涛の展開に感情を激しく揺さぶられたのだが(終始ボロ泣きしながら読んだ)、映画では、高専→新宿→高専→京都→高専と場面転換があるたびに、その都度クールダウンができてしまう。一つの大きな山を描く感情曲線ではなく、小さな山々が連なるような感情曲線(おかげで上映後に顔を隠さずに済んだが)。キャラクターが動く姿を見たいという欲望はたっぷりと満たされる一方で、あの怒涛の展開を映画でも味わいたい、極限まで心掻き乱されたいという期待からはやや物足りなさが残るという引き裂かれた映画体験となった。(なお、2回目の鑑賞では覚悟して臨んだので、ある程度スムーズに見ることができた。)

このことは、漫画とアニメそれぞれの条件(要請されるもの)の違いと、芥見下々という漫画家の特性に関係している。別の言い方をすれば、『呪術廻戦0 東京都立呪術高等専門学校』は私の予想に反して、実は“大作”アニメ映画化向きの原作ではなかったのかもしれないということだ。

私見では、芥見が描く漫画の魅力は高度な「省略」の技術にある。芥見は効率的・経済的にキャラを立てるのが上手い。ちょっとした一コマで関係性を想像させるのが抜群に上手い。五条と夏油の因縁も、真希の禅院家との確執も、乙骨が高専で育んだ友情も、初めて読んだ時には気づかないが、意識して読み返してみると、思いのほか、具体的な描写が少ないのに驚かされる。虎杖と東堂、あるいは虎杖と腸相との「存在しない記憶」を巡るやりとりは、そうした高度な「省略」の技術を作者自ら仄めかし、茶化してみせる一種のセルフパロディだろう。

(テレビアニメ版のOP・EDでも「存在しない記憶」が意識されている)

ただし、単に「省略」の技術や物語の速度を競うなら、同じく少年ジャンプに連載中の『アンデッド・アンラック』の驚異的なダイジェスト感には敵わないだろうし、そもそもこうした物語の経済性は、ディズニーなどのハリウッド映画が総力を上げて追求してきたものであり、それ自体に新規性があるわけではない。『呪術廻戦』シリーズの魅力をより正確に言うなら、高度な「省略」の技術が発揮される一方で、なぜ?と思うくらい地味な場面や細部にこだわり、そこに頁を割き続ける冗長性が全面化することもあるという、危うげなバランス感覚が醸し出す色気にあると思う。いずれにせよ、物語の表面には大小無数の穴が開いており、その穴を各自が脳内で——「存在しない記憶」で——埋めながら読む快楽が『呪術廻戦』を支えている。

さて、こうした特徴は本来、明確な時間制限や限度予算があるアニメ映画化には都合が良いものであるはずだ。語るべき物語を過不足なく上映時間内に収め、予算のかかる派手なシーンを作らなくても見応えのある作品を作るための戦略が、原作の時点ですでに内包されているのだから。だが『劇場版 呪術廻戦0』は、『劇場版「鬼滅の刃」無限列車編』に続く成功を期待された“大作”アニメ映画である。見せ場は多いに越したことはない。人気キャラは極力活躍させたい。盛れるところは漏れなく盛らなければならない。そうした足し算(大作主義)と引き算(「省略」の技術)が何ら齟齬を起こさずに両立できるはずもないだろう。

実際、このような齟齬が顕在化しているのが、禪院真希狗巻棘パンダの扱いである。原作で中心的な役割を担うこの2人+1匹はアニメ映画版でも総じて大切に扱われており、原作での登場シーンを如何に魅力的に見せるかが考え抜かれている印象がある。だがこの2人+1匹は物語の中心に位置しているがゆえに、新たに描写を盛りにくい。映画のオリジナル展開を加えれれば、原作からの逸脱や破綻が生じてしまうリスクが高まる。そのため、オリジナル展開は原作で出番のなかった(少なかった)キャラクターに集中し、原作に忠実であることを余儀なくされた2人+1匹の存在感は、相対的に弱まってしまう(前者は無数の雑魚敵相手に派手に無双しているのに、後者は数匹の雑魚敵相手に苦戦しているように見える)。棘とパンダはかろうじて夏油との戦いに見せ場を作ることができたが、もっとも割を食ったのは真希で、序盤の活躍から一転、百鬼夜行後はほぼ見せ場がないまま終わってしまうのだ。逆に言えば、この映画化でもっとも美味しいポジションを得たのは、バトルシーンなど明確に「見える」見せ場と、本編(過去編)からの場面挿入によって「予見される」見せ場、そして原作でもアニメでも描かれることのない「見えない」見せ場「存在しない記憶」のすべてを手にすることができた夏油傑だろう。

以上のように『劇場版 呪術廻戦0』は、漫画からアニメへのアダプテーションについて考える上で、非常に示唆に富むもののように思われる。漫画だからこその表現を駆使して容易なアダプテーションを許さない芥見下々と、「原作に忠実」かつ「大作」であれといった無数の要請を引き受け、実際に非常に高いレベルでそれを実現しようとしている監督・朴性厚や脚本・瀬古浩司らアニメ制作スタッフとの駆け引き・せめぎ合いが、とてつもなくスリリングな映画だ。何度見ても面白いし、何度見ても学べるところがあると思う。

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