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2011.8.6『学び合い』北海道  「第2回 『学び合い』を学ぶ会 in北海道」報告

 「『学び合い』北海道」は昨年3月の発足から、5回の「子どもの姿を語る会」、NECO塾(代表:岡山洋一氏)との共催によるワールド・カフェ・イベント、そして8月に行った「第1回『学び合い』を学ぶ会」、合わせて計7回の企画を行ってきました。2年目を迎え、4月からは新川高等学校・澤尻先生と星槎国際高等学校・小松先生にも事務局に加わって頂き、新たな体制で新年度をスタートしました。7月の頭に事務局会議を行い、今年度最初の企画である「第2回『学び合い』を学ぶ会in北海道」の準備を進めてきました。

 去る8月6日(土)午後、北農健保会館:芭蕉(札幌市中央区北4条西7丁目1-4)において、上記の会を行いました。広報不足もあり、極めて少人数ではありましたが、西川先生のスカイプ講演や事務局による実践発表、最後のワールドカフェ風交流まで、充実した内容で終えることができた様に感じます。今回は、標茶町の村田先生(中学校社会科)、紋別市の荒木先生(小学校)、早来町の山下先生(小学校)といった、『学び合い』に関心をお持ちの先生方が、広く北海道各地から足を運んで下さいました。加えて第3回と第5回の「語る会」に参加して下さった飯田さん(すくーるhana主宰)と、第4回に参加して下さった村山紀昭先生(中教審委員・前北海道教育大学学長・教育人間塾主宰)も来て下さり、事務局の小松先生、山田先生、笹木を交えて、参加者8名での会となりました。

 今回の企画の目玉は「第7回教室『学び合い』フォーラム2011in東京」と札幌をスカイプでつないで、西川先生の講演をお聞きすることでした。昨年も西川研究室と会場をつないで、『学び合い』に対する質問に答えて頂くコーナーを設けましたが、その時から事務局で話題にしていたのが「来年は講演を聞きたい」ということでした。今回参加して下さった方の多くは、西川先生の「『学び合い』の手引き書」に目を通していらっしゃった為、比較的理解がスムーズであったのではないかと思います。

 西川先生の講演はご自身の高校教師時代のことから始まり、ある種ライフ・ヒストリー・アプローチとも言える様なお話しでした。「どんなに実験を工夫したり、巧みな話術で引きつけたとしても、分かったつもりにしかさせられない」「大学教師になって良かったのは、生徒の退学手続きをしなくて良いこと」…「ひとりも見捨てない」との理念には、高校教師としての原体験が深く刻印されているのだと感じさせられました。大学に移って、最初は理科教育分野で認知科学に注目した数々の学会賞を取る研究を発表したが、それでも「みんながわかる」方法を見出すことはできず…。様々な試行錯誤を経て、「クラス全員で学ぶ集団をつくる」ことを目指す『学び合い』を提唱する様になられたとのこと。「『学び合い』は人間の本性であり、邪魔さえしなければ教科を通して人間関係が向上する授業が生起する」との話をお聞きして、我が意を得たりとの気持ちになりました。
 平成17年からは、学力向上と人間関係は表裏一体であり、学力を全面に押し出した方が人間関係が良くなる、との主張をしてきたとのこと。「あれかこれか」の二項対立で語られることの多い学力論ですが、この点でも西川先生の主張は注目すべき論点を提示している様に感じます。「自分」がわかるだけでなく「仲間」がわかるために遅くまで勉強を続ける子どものエピソードからは、アドラーの「共同体感覚」における「他者貢献」が想起され、『学び合い』が実現する豊かな人間関係を垣間見ることができました。講演の最後には『学び合い』研究が目指す今後の展望が語られ、クラスでの授業を越えて、学年・学校、さらには地域へと視野を広げた実践が既に開始されていることが示されていました。学習者の有能性を信じ、子どもを主体者として尊重する『学び合い』の可能性を、改めて確認する貴重な時間となった様に思います。教室『学び合い』フォーラムのホームページ http://manabiai.g.hatena.ne.jp/manabiaiF2011/には、参加者によるツイートのまとめhttp://togetter.com/li/171866.http://togetter.com/li/171143が紹介されています。併せてご参照下さい。

 続いて当会事務局・山田先生による実践発表が行われました。「中学校数学科での『学び合い』」と題して、これまでお勤めになった3校での実践を振り返る形でお話し下さいました。ご自身の学生時代の学び方が、教師に教わるというよりも自分で学ぶというスタイルだったことから始まり、教師になりたての頃は「教科書に書いてあることをきっちり教える」授業を行っていたが、子どもの学習進度が様々である為、「ノートの取り方」を改善させることから取り組みを始めたとのこと。1年次に書き方を徹底して指導し、2年ではそこから「自分で作る」ノートへと発展させ、3年では「ほとんど教えない」授業へと展開していった結果、数学の力が高まったとのことでした。親切に教えた生徒が卒業後「高校の授業、わけわかんない」と言っていたことへの反省から、「教えすぎない」不親切な授業を意図的に行うことで「自ら学ぶ」力を育てる実践を展開したとのお話を聞かせて頂き、「何を育てたいか」ということこそが授業改善の核となるのだということを、改めて確認することができました。

 2校目は全校生徒が30人に満たない小規模校。小学校からの固定した人間関係の中で、言葉で伝え合うことなしに日常を送っている生徒達に、「説明する力・説明を理解する力」を育てたいとの願いをもちます。そこで1校目でも行っていたグループ学習を全面的に取り入れ、校内授業研修会で公開したのですが、先生方の理解を得られず授業研では全否定されたとのこと。その悔しさからインターネットで調べたところ、西川氏の『学び合い』を発見することになります。学術的な研究に基づく先行実践である『学び合い』と出会い、「手引き書」を一気に読んだそうです。読了後は即実践を始め、その効果に大きな手応えを感じたのでした。次年度からは少しずつ職場の同僚にも『学び合い』を紹介しながら実践を進め、その頃の授業の様子もビデオで紹介して頂きました。特に数学が苦手だった生徒が積極的に動く様になり、「分からなくても面白い」と『学び合い』を肯定的に受け止めていたとの説明が印象に残りました。資料として配布された「数学通信」からも、子ども達の充実した学びが伝わってきて、『学び合い』の効果の大きさが実証されていた様に思います。

 山田先生は『学び合い』の良さばかりでなく、難しさや課題にも触れておられました。自分が教師にほめられたい生徒には不満が残ること、自分が教えた子の方が自分より高い点数を取る場合があること、「教師に教えてもらいたい」という生徒のニーズに応えられないこと等が挙げられていた様に思います。これらの生徒の「困り感」に耳を傾けつつ、3校目の現在は「誰も困らない授業」を目指して実践されているとのことでした。具体的には、A:困った人が誰も生まれないようにする、B:困ったら誰かに助けを求める(相手は先生でも、班の仲間でも、他の班の仲間でもよい)、C:時間内に全員が教科書の問を終わらせることを意識する、D:わからなかったら解答を見ても良いが、必ず理解しなくてはならない、E:解いた問題については必ず答え合わせをし、間違っていた問題を理解する、という5つのルールを提示しているとのこと。これによって「全員の生徒が暇な時間をもてあましたり、わからなくて困って止まってしまったりすることが無くなり、しっかり活動できる授業となっている」と説明されていました。

 さらに「協力単元テスト」と名付けた、子ども達が互いに学び合うしかけを導入して効果を上げている、との報告もありました。『学び合い』を全面に出して保護者に理解されなかった2校目での経験から、現在は「外から見てもある程度許容できる範囲からスタート」することを意識しているとおっしゃっていました。紹介して頂いた今年度の実践レポートも「学びやすさを考えた授業」と題されており、『学び合い』そのものよりも「誰も困らない=学びやすい」授業を志向しているという現在の姿勢に、強く共感した次第です。授業づくりネットワークが昨年来強調している「教えやすさから学びやすさへの転換」との考え方にも重なり、私自身の実践を振り返る上でも大いに参考となる実践発表でありました。

 会はその後、再び東京の『学び合い』フォーラムの分科会会場とつないで、『学び合い』実践者のお話しを直接聞くコーナーへと移りました。昨年発行された「クラスが元気になる『学び合い』スタートブック」(学陽書房)執筆者のお一人である、神奈川県の橋本先生(小学校)を囲む分科会とつないで、より具体的なお話しをお聞きしようとの企画です。東京とはつながったものの、分科会は小グループに分かれて自己紹介が始まってしまい、スカイプ中継では何を話しているのかほとんど分からない状態になってしまいました。そこで急遽内容を変更し、札幌でも自己紹介に続けてフロアトークを行うこととなりました。山田先生には継続してスカイプを担当して頂き、札幌の質問を東京に伝えて頂いたり、東京の発言で札幌の参加者にも関心がありそうなものを紹介して頂いたりしながら進めました。

 自己紹介に続くフロアトークでは、それぞれの現場での苦労と共に、『学び合い』への共感や疑問が語られ、大変内容の濃い語り合いとなった様に思います。荒木先生は福祉の現場(北海道家庭学校)から今年教職に移られたばかりで、外から見ていた「学校」も中に入ると勝手が違い、大変なことが多いとのエピソードを語られていました。山下先生からは、まだ教職4年目で保護者からのクレームに悩まされた時期もあり、今は子どもに力をつけるための技法・技術をたくさん学んでいる所だとのお話しがありました。村田先生からは、子どもの質が近年変化してきたことについて、細かく指示して教えないと動けない子どもが増えてきているとの指摘がありました。飯田さんには、『学び合い』の考え方と自らが実践なさっている「らくだメソッド」(平井雷太氏提唱のセルフ・ラーニング学習法)の共通性について、村山先生には「教えている教師の理解」と「学んでいる子どもの理解」のレベルの差について、それぞれ本質的な提起をして頂いたように思います。

 村山先生の論点は「教師の専門性」の根幹に関わる問題でもあり、さらに深く論議する必要があるテーマかと思います。山田先生からは「『学び合い』では課題の設定の仕方によって、ある程度理解レベルの差をクリアしている」との指摘がありましたが、時間の都合もあり、それ以上議論を深めることはできませんでした。村山先生のおっしゃる「教師が目的を持って教材に意味をこめるレベルは、単に生徒が問題を解くレベルとは別なのではないか」というのは、私も個人的に同意できる視点です。これについてさらに詳しく議論するには、「物事がわかる(理解する)とは、どのようなことなのか」「知識・技能の獲得には、どのような認知過程が働いているのか」についての認知科学的な知見が必要とされる、難しい論点でもあります。

 今回、村山先生の論点に西川氏がどのように応えているかを知るべく、改めて「手引き書」に目を通してみました。様々に参考になる記述があるのですが、特に第5節「よくある誤解」の冒頭にある「教師の専門性について」(P.123~127)という文章が、この論点に関して『学び合い』の本質をよく説明しているように思います。P.126に紹介された、中学1年・数学授業における、理科教師による『学び合い』のエピソードを引用します。

『中学校1年生の数学の時間に、TT で入っている私が中心になり授業をしました。内容は「正の数、負の数」の引き算・足し算です。中学校に入って、始めて数学を習う1時間目の授業でした。本来ならば、先生が数直線を使って教え込む授業になるのですが、私は以下のようにしました。
私:「5+3=何だろう?」生徒:「8」私:「5-3=?」生徒:「2」私:「3-5=?」生徒:「-2」
私:「じゃあ、どうして、3-5=-2になるか、小学校1年生(私の息子)に分かるような説明を班で考えてください」
生徒:(一瞬静まりかえる。こんな授業は初めてだという空気が流れる)
私:「それでは、4人班になって考えてください。時間は30分です」生徒は、いろいろなアイディアで説明を考え出していました。時計、温度計、エレベーター等、身近なもので説明しようとしていました。なかには教科書に書いてある数直線をつかったり、やり方を説明したりするものもありましたが、何よりも数学の先生が、「こんなに生徒の目が輝いている授業は初めてです。この輝きを絶やさないためにも○○先生がずーっと授業をしてください」と言われました。『学び合い』を理解すると、他の教科の学習内容のスペシャリストでなくても、授業は十分出来ることを実感しています。要は、子どもたちが勉強出来る環境を与えてやればいいだけですものね。』

 私の講演の後の感想の中に、「私は今まで何をやっていたんだろう」というものがあります。特に、校長・教頭レベルの先生に、そのような感想を言われる方が少なくありません。このメールにある数学の先生も、そのように思ったのではないでしょうか?今まで学んできた教材の内容に関するもの、教材に関連した教え方に関するものを知らないであろう理科の先生が、自分より数学の授業を成立させているのであるから。おそらく、色々と理屈をこねてみても、目の前にいる子どもの様子が何よりの証拠です。我々は専門家を完全否定するわけではありません。しかし、それが万能であるという考えは否定します。そして、もっと大事なものがあると主張しています。

 西川氏の言う「もっと大事なもの」とは何なのか。「教育内容」に関する専門的知識・技能以上に実際の教室で大切にされなければならないのは、「学習者の主体性の担保」なのではないか。もちろんこれも、「あれかこれか」の議論では不毛です。私は昨年の秋、市川伸一氏(東京大学)の『教えて考えさせる授業』について教育人間塾で検討した折、村山先生から「『教えて考えさせる』ことと先生の強調される『学び考える』こととは、同じことの二つの側面を言っていると思うのですがどうでしょうか」との問題提起を受けたことがあります。その際私は教育人間塾のメーリングリストに、以下の様な返信を書いたのでした。長くなりますが引用します。

2010 11/22(月) 20:32 
(前略)実は今回の検討を通じて、「どうして私は『教える』ことへの抵抗感が強いのか」ということを、ずっと考えていました。簡単に答えられる問いではないのですが、今の段階で思いつく点を三つ上げておきたいと思います。
①私自身が、90年代以降の「新学力観」的な教育論の中で、自らの「指導観・学習観」を形成せざるを得なかった為。
②自分自身の被=教育体験において、「主体性を引き出す」ことを大切にする指導者に出会ってきた為。
③学習を教授の変数と捉える行動主義的な教授=学習観は、やはり乗り越えるべきものと考えている為。
 それぞれについて論じるとまた長くなってしまうので、③に関して、私がよく引用する佐伯胖氏の「学校文化の持つ勉強主義が、コミュニケーション能力の劣化の元凶であり、学びを教えの従属変数と見なす教育依存症から脱して、共感に基づく学びの実践共同体を構築していく必要がある」との言葉を、再度紹介しておきたいと思います。4年前に札幌北高でお聴きした佐伯氏の講演のインパクトは未だに強烈でして、残念ながら私の思考も実践も、まだそこから先に進めていないのだと、いつも感じています。

 村山先生のおっしゃるとおり、「教授=学習」は学習心理学においては一体のものと見なされており、授業における教師と生徒のコミュニケーションに限って言えば「同じことの二つの側面」といって良いかと思います。しかし、学校の教室においてさえ、子どもはもっと多様に、教師の指導や教授の枠を超えて様々なことを学んでいます。「教科の指導内容」といったマニフェスト・カリキュラムだけでなく、「無気力や義務感、仲間との人間関係」といったヒドュン・カリキュラムも含めてです。黒田先生が指摘してくださった「クラスで子ども同士の関係ができあがっていない時にどうするのか」 は、私が『学び合い』の会をやる時に必ず出てくる問題点です。その時私は、「学ぶことを通して、関係性が少しずつ形成されていくのだ」と説明しています。「関係性ができていないから学び合えない」のではなく、「学び合うから関係性ができていく」と見なすのです。もちろんこれを個別の「知識獲得」のレベルでだけ考えれば、不合理なことも多々ありますが、村山先生がおっしゃる「コミュニケーション論」の視点に立てば、知識は間主観的に構成されるとする社会構成主義の学習観こそ、これからの教育が目指すべき方向性なのだと思うのです。

 「ゆとり教育」という誤解されやすいスローガンを与えられた新学力観は、その理念において「知識を自ら構築していく=自ら学び・自ら考える」社会構成主義的な発想を内包していました。これを「生きる力」と言い換え、これからも重視していくとの新教育課程ですが、残念ながらその理念を深く理解し、実践の中で確かめていこうとする意識の高い教師は、まだまだ少数であるといわざるを得ません。「確かな学び」は決して基礎基本の定着・習得だけではないはずなのに、ドリル学習を推進して事足れりというような風潮も感じます。「効果的に教えれば、子どもの力は伸びる」というのは一面で真理かと思いますが、それを「教師の基礎基本」と位置づけることには、やはり抵抗を感じるのです。

 もちろん日本の教師文化の良質な部分を「スタンダード・オーソドックス」として継承していくという論点には、私も強く賛同します。しかしそれが「教える=学ぶ」の本質論につながっていくためには、「いかに教えるか」の議論だけではなく、「人はいかに学んでいるか」という学習者分析が不可欠です。その点で市川氏の議論は「認知カウンセリング」の経験から、学習不振や不登校までもを視野に入れている点で、信頼に足るものかと感じています。村山先生が、「知る・わかる・できる・考えるの関係性」を明らかにしていくことに教育本質論の鍵を見出していることには、わが意を得たりとの気持ちです。今回お示しした私の「学習構造モデル」は全くもって生煮えで、深く掘り下げられていないのですが、改めて認知科学や認識論哲学の知見から学び、もっと精査していきたいと感じることができました。

 村山先生は「日本の教育方法の良き伝統」の例として、大村はまさんの名前を挙げていらっしゃいました。苅谷剛彦氏などは『教えることの復権』という捉えで彼女の教育論を再評価していますが、私は大村さんの最大の功績は「子どもの学びたいという関心や意欲を最大限に引き出す教え方を徹底的に追求したこと」にあると考えています。彼女の最晩年の詩に「学び浸り、教え浸る」という言葉があります。私が「教えと学びの一元化」という言葉で明らかにしようとしている世界は、この言葉と重なるように感じています。村山先生がおっしゃる「同じことの二つの側面」というのも、この辺りにあるのかもしれません。その上でなお、今日の教育をめぐる言説が「指導論」に偏りがちであることへの違和感を、まだしばらくは語っていたいと思うのです。(後略)
 
 村山先生とはその後も、様々に教育に関する対話を繰り返してきました。1月の「第4回 子どもの姿を語る会」に参加して頂いた際も先生は、「学校教育の目的は、勉強、学習を通して社会性を形成するところにある」とし、その会で出された「教育の結果は直接には、個々の子どもたち自身の中に個人的にしか蓄積されない」との論点についても、未展開ながら重要であると指摘して下さいました。今回の会においても、「『学び合い』の理念は大変良いものだが、「教えない」教育方法だと受け止められると、誤解を招くし広まらない」と仰っていました。それを受けて飯田さんは、自らが取り組んでおられる「らくだメソッド」も同様であると話されていました。
 
 「教え」と「学び」を二項対立で捉えてきたこれまでの教育論は、そろそろ新たな段階を迎えるべきなのでしょう。『学び合い』の授業観、即ち「教師の仕事は、目標の設定、評価、環境の整備で、教授(子どもから見れば学習)は子どもに任せるべきだ」という言葉も、後半の「教授は子どもに任せるべき」ばかりが強調されると「教えない=教師は何もしない」との批判を受けることになります。しかし「学習を最適化するために、教師は直接教授すること以外の役割を積極的に担っている」という点はあまり注目されません。『学び合い』における教師の役割についてさらに深く考えていくことから、「教え/学び」の二元論を越えた「学びのための教え」とでも言うべきものの探究が可能なのではないか、と新たに考え始めている所です。今回の村山先生の提起をきっかけに、『学び合い』に限らず様々な教育論を参照しつつ、「教えること=学ぶことの本質論」に迫ってみたいと思い直すことができました。村山先生始め、参加して下さった皆様に、記して感謝したいと思います。貴重な発言の数々、本当にありがとうございました。

 フロアトークは東京の分科会が終わって休憩時間になっても熱く続きましたが、次の実践発表の時間となりましたので途中で切り、会は事務局・小松先生による「他者理解への生徒の学びについて」と題された発表へと進みました。当初予定されていた演題から若干変更されていましたが、よりストレートに先生が伝えたい内容を表現したタイトルであったように感じます。「他者理解」は先生が主任を務める星槎国際高校・二学年の学年運営目標であり、一学年での「自己理解・所属感」と、三学年での「共生社会・自立」をつなぐ、重要な主題であるとの説明がありました。星槎グループは教育・医療・福祉の三者を融合する「共生・共育」を理念として掲げており、創設者の宮澤保夫氏が35年前に「鶴ヶ峰セミナー」なる私塾を始めた時の状況は、西川氏の高校教師時代の風景と重なるものがあるとのこと。小松先生は星槎の「共生・共育」と『学び合い』が目指すものの近さを強調されていました。

 「他者理解への生徒の学び」は、具体的には「世界の子どもたちの現状を考えてみよう」とのテーマで行われたそうです。最初に1時間、ユニセフによる支援について映像で学んだ後、その後は実際にアフリカ・ウガンダの子ども達を支援する活動をしておられるNPOの方を講師に招いた学習を行い、最終的にはソーシャル・スキル・トレーニングの要素を加味して、アフリカの子ども達が作ったストラップを販売する実習につなげるという内容でした。紹介された生徒達の感想には、見知らぬウガンダの子ども達に対する温かい共感の想いが綴られていました。震災の影響も感じられるそれらの言葉から、今回小松先生がねらっていた「相手を思いやること」や「相手のことを理解し、自らができることは何か考えること」といった他者理解の大切さが、十分に子ども達に伝わったことが感じられました。

 星槎高校は不登校や発達のつまづき等、様々な背景を抱えた子ども達が集う学校(広域通信制)ですが、自らの来歴に由来する「視野の狭さ」を自覚した上で、「不登校でも未来を変えられる、人は100%変われる」といった希望をもち、世界へと視野を広げる学びとなっていることに感動した次第です。『学び合い』そのものの実践ではありませんでしたが、「多様な人と折り合いをつけ」「より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ」という『学び合い』の考え方とも響き合う、素晴らしい実践であったように思います。

 実践発表の後は、当会でいつも行っている「ワールドカフェ風交流」の時間となりました。実践発表をして下さった山田先生と小松先生をそれぞれ囲んで、2つのテーブルに分かれて対話を楽しむ時間となりました。交流の中身については写真がアップされていますので、そちらをご参照下さい。20分ほどで時間を区切って、メンバーを入れ替えて語り合っている内に終了の時間となり、そのまま会場を片づけて解散となりました。参加して下さった方々、加えてお忙しい中発表をご準備下さった事務局の山田先生・小松先生に、改めて深く感謝したいと思います。

 2年目を迎えた『学び合い』北海道、次は11月26日(土)18:30より、札幌エルプラザにて「第6回 子どもの姿を語る会」を開催する予定です。これまで参加して下さった多くの方々とのつながりを大切にしながら、慌てず・騒がず・坦々と、かつ着実に、学び合いの輪を広げていければと思います。さらに様々な立場・職種・年齢の方々と『学び合い』つつ、「子どもの姿を語る」事を通じて出会える事を、楽しみにしたいと思います。今後とも『学び合い』北海道の活動を支えて下さいます様、重ねてお願い致します。長文にお付き合い頂き、本当にありがとうございました。では皆様、秋のエルプラザにて、またお会いしましょう。

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