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自己物語探究の旅(2)

 2017年が暮れていきます。来年は平成30年…、戌年で年男となる私は、平成元年(1989)に大学に入学して、大都会・札幌での生活を始めました。「平成」が始まって30年が経ち、幼・小・中・高と過ごした「昭和」は、すっかり遠いものとなってしまいました。思えば、以前の連載(音楽・平和・学び合い)は「セルフ・ライフ・ヒストリー・アプローチ」などと称して、40代前半の視点から20代前半までの若く幼い自分を、振り返りつつ語り直す試みでありました。

 「平成」の終わりは2019年4月末と決まりましたが、それはちょうど娘の小学校入学に重なります。小学2年で新学習指導要領の全面実施となり、東京オリンピック・パラリンピックが開かれ、もしかしたら憲法改正があるかもしれないという激動の時代に、彼女はこども時代を過ごしていきます。私が小学校低学年までをほとんど憶えていないように、彼女も「平成」をほとんど記憶しないまま、新しい年代を生きていくのかもしれません。

 我が平成の30年は、学部生4年、大学院生3年、社会人(中学校教員)23年に分けられます。教員としては初任校8年、二校目6年、三校目5年、四校目1年で、その後初任者担当の拠点校指導教員となって来年で3年目です。個人的には、伴侶を得て18年、家を建てて17年、酒を止めて13年、親になって5年というのが、自身の歩んできた年月の大まかな内訳となります(細かく書けばさらに様々な節目や転機がありましたが、ここで詳述することは止めておきます)。

 40代も残すところ2年余りとなり、気づけば「テン年代」などと呼ばれた21世紀2つ目のディケイドの終わりが見えてきました。家族のストーリーにこそ、私が「自己物語探究」という言葉で迫ろうとしているコア・ナラティブがあるはずですが、それはデリケートで極私的な内容に触れざるを得ません(機を見て書ける範囲でご紹介していこうと思います)。今回は、そのぎりぎりのところで悩みつつ書いた文章を紹介します。今年度の北海道臨床教育学会紀要『北海道の臨床教育学』第6号に寄稿した拙文です。掲載原稿ではなく、あえて初校を紹介します。最終的には削除した個人的な来歴部分にこそ、自己物語の核心があるように感じるからです。学会誌ゆえ、研究の文脈が分からないと理解が難しい箇所もあるかと思いますが、あらかじめご容赦ください。ここに記された内容をさらに掘り下げていくことが、来年からの本連載の方向性となるように感じます。

 今回も旧稿の紹介で終えることをお詫びします。
 皆様、良い年をお迎えください。


(以下引用)

部会報告 「学校教育リフレクション部会」を振り返る

―「自己物語探究」の舞台(アリーナ)としての学会/部会の意義―

 北海道臨床教育学会の設立は2011年1月、未曽有の大災害であった東日本大震災に先立つこと2か月ほど前の事でした。私が本学会に初めて参加したのは、その年の7月に行われた第1回研究大会でした。当時の私の手帳(研究ノート)には次のようなメモが残されています。

「発達援助専門職の連携」という臨床教育学の視座から、自らの専門である「音楽科教育」という立ち位置と、「関わり合って学ぶ=Collaborative Learning=協働学習論」への関心を結んで、独自の研究を進めていけないかと構想する。その中で、今日の「カンファレンス型の学び(課題研究Ⅱ)」という視点は『学び合い』の考え方とも通底しているのではないか。多様なステークホルダーと敬意を持って学びあうスタイルを持続したい。(2011.7.18)

 臨床教育学との出会いはさらに遡ること3年前(2008年5月)、札幌自由が丘学園理事長である亀貝一義会員のお誘いを受け、同学園主催の教育フォーラムで庄井良信会長の語りを聴く機会を得たことでした。庄井先生はフォーラムのレジュメに、次のように書いておられました。

 学び合いは、子どもの〈声〉を聴きとることから、その〈声〉をひろげて
 語り合い、新たな〈課題〉、新たな〈希望〉をつむぎ合うこと

 当時の私は、自身のリサーチ・クエスチョンを「協働学習論」と見定め、臨床教育学的な生徒理解に基づく教科教育の在り方を追究しようとしていました。それと並行して、学会発足の前年(2010年3月)から協同学習(学び合い)への関心を共有する教員仲間と「こどもの姿を語る会」を立ち上げ、様々な発達援助専門職をつなぐカンファレンスを行う様にもなっていました。クランディニンらの「ナラティブ的探究 Narrative Inquiry(NI)」における「教室内/外の風景」というメタファーに照らせば、その両面から庄井先生が言う「学び合い」を、実践レベルで実現しようとしていた様に感じます。

 学会発足から5年目を迎えた2015年5月、第3期活動方針を受け、札幌大学の荒木奈美会員・小笠原はるの会員が中心となって本部会が発足します。当初掲げられた部会の目的は以下の2点でした。

1 学校教育の現場で先生がたがふだん何気なく感じるような違和感やわだかまりを、少しだけ現場から離れて臨床教育学的視点から問い直すための、静かな時間を共有する。

2 学校教育が直面しているさまざまな問題を臨床教育学的視点から問おうとする学生や研究者が、現場の先生がたの声を直接聞くことで自らの知見を広げる機会を提供する。

 私は本部会に第1回から参加し、2016年度末までの2年間20回を数える実施において欠席は4回のみという、事務局の荒木会員に次いで最も参加の多い会員かと思われます。第6回研究大会の自由研究発表(実践事例研究部門)において本部会の実践を紹介する機会を得た時、私はそれを自身のフェイスブックで以下の様に報告しました。

(前略)第5分科会の司会を務め、報告者含め15名参加で、充実のカンファレンスとなりました。「コメンテーター」も兼任でしたが、私にはそんな役割は難しく、安心して聴きあい、語りあえる場を提供するコーディネーターであることを意識しました。
(中略)「『教育』を読む会」常連のSさんがこの分科会に参加してくれて、本質的かつ鋭い質問をしてくれました。目的や有用性とは別の意義を追究する部会でありたいと、改めて感じました。当方はしばらく「リフレクション部会」への参加を継続して、「聴きあい、語りあい、振り返ること」についての臨床教育学的探究(思索)を少しずつ深めていきたいと思います。(2016.7.17)

 学会発足から6年(それは震災後とほぼ重なります)、この間娘が生まれ、父親として新たな発達援助の日常を生きると共に、仕事では勤務校が3回変わり、役割も担任・研修担当から副担任・研修部長:人権教育推進(ピア・サポート)、転勤して研究係:インクルーシブ教育システム構築(授業ユニバーサルデザイン)、更には初任者担当拠点校指導教員と、毎年のように「支えとするストーリー stories to live by」を変えざるを得ない状況を体験しました。それに伴う強い葛藤から心理的危機(適応障害)も経験しましたが、本部会で丁寧に自己物語を聴き取って頂く機会を得て、その都度「生き、語り、語り直し、生き直す」というNIのプロセスそのままに、何とか生き延びることができています。

 現在の私は自身の問いを「自己物語論」に見出し、それを当事者研究の文脈で再構築する作業に取りかかっています。20代前半(修士課程在籍時)、家族の精神病発症と自身のうつ体験から1年半大学院に通えず、一文字も一音符も書けなかった経験を持ち、30代半ばでは内臓疾患のために断酒し、40代後半に差しかかるところで再び人生の岐路crisisに立ったとの「病いの語り illness narratives」も、臨床教育学との出会いが可能にした「自己物語の語り直し/生き直し」です。「弱さ weakness」や「傷つきやすさ vulnerability」を研究的概念として大切にする本学会だからこそ、自らの痛みを語り、それがかけがえのない一回性の生 lifeとして受け止められ、その意味を共同で紡ぎ合い、解釈学的に自己を再構築することが可能となったのだと受け止めています。

 本学会での6年/部会の2年を振り返れば、自身の問いが「協働・共同の学びCollaborative Learning」から「自己物語探究 Self-narrative Inquiry」へと移行/変容してきたことに気づかされます。部会でのカンファレンスを通して自己リフレクションが深まった故の必然と言うことも可能でしょう。それは又、私にとって葛藤の物語conflictive storiesを語り直す「アリーナ:闘技場」であった様にも感じます。シャンタル・ムフの言う「闘技的民主主義」の様な利害対立調整があるわけではありませんので、「舞台」くらいがメタファーとしてより適切でしょうか。

 本部会を参加者の声が多声楽的に交響する舞台(アリーナ)と捉え、互いに安心して「自己物語探究」を紡ぎ合うフィールドとして大切に育てたいと考えます。当事者性(木村敏氏の言うactuality)をもって積極的に学会に参画し、それを臨床教育学の更なる発展につなげたいと思います。第7回大会では、本部会発の企画(課題研究・ラウンドテーブル)も予定されています。会員の皆様には、是非とも本部会の活動に関心を持って頂き、互いに「聴きあい・語りあうNarrative Conference」ことを通した「自己の振り返りSelf Reflection」を味わっていただきたいと強く願っています。

(2017.3.11 大震災から6年の節目に、
 未だ続く惨禍に想いを寄せつつ記す)

参考資料:川俣智路「第1回大会報告(課題研究Ⅱ)教員養成・研修と臨床教育学の展望 当事者体験を聞きとる〈カンファレンス型の学び〉の可能性を考える」北海道臨床教育学会編『北海道の臨床教育学 第1号』所収  
                              (2012)庄井良信「人をはぐくむ」札幌自由が丘学園教育フォーラム資料(2008)
田中昌弥「臨床教育学の課題とナラティブ的探究-教師の専門性と子どもの世界を読み開く」日本臨床教育学会編『臨床教育学研究 第0巻』所収 
                           群青社(2011)シャンタル・ムフ「政治的なものについて
 ―闘技的民主主義と多元主義的グローバル秩序の構築」明石書店(2008)木村敏「心の病理を考える」岩波書店(1994)

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