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2011.1.30『学び合い』北海道     「第4回 子どもの姿を語る会」報告

この会で見つけたもの

 「見つけたもの」というべきかはわかりませんが、この会を実施していつも感じている通り、様々な立場や考えの異なった方々が、「教育」という領域でフランクに語り合うことを通して、新たな視点や思考が引き出されることの楽しさを再発見したように思います。今回は教育人間塾主宰の村山紀昭先生(中教審委員,前北海道教育大学・札幌国際大学学長,哲学・日本近代思想史)がご参加くださり、加えて札幌自由が丘学園理事長の亀貝一義先生も、前回に続いて論議に加わってくださいました。教育人間塾やフリースクール・ネットワークの「熟議」を通して知り合った星槎国際高等学校の小松先生、高橋先生、『学び合い』実践を始めようとされている新川高校の澤尻先生、大学時代の先輩で音楽科やジャズ研で大変お世話になった佃さん(様似町教育委員会生涯学習課社会教育係長)、市民の立場から政治家志望であられる鈴木さん(2015年の北海道を考える会・会長)、事務局・山田先生の教え子で歯科医院勤務の浅見さん、加えて事務局2名、計10名で、多岐に渡る論点を熱く、かつ和やかに語り合うことができました。
 
 いつもの様に、各自が話題としたいテーマを付箋紙に書いていただき、ホワイトボードに貼って共有、グルーピングして3つに分かれて対話する、というスタイルで進めました。3つはそれぞれ、『学び合い』の具体について交流し深めるテーブル、「教育の目的」や「学校の役割」について議論するテーブル、地域との連携や教師のメンタルヘルス、いじめといった教育の困難を語り合うテーブルとなりました。私は高橋先生、鈴木さんと共に3つ目のテーブルで対話を行いました。鈴木さんからは「教育は国の根幹に係わること」であるが、報道に接する限り、子どもや教師・保護者の現実は憂うべきものであるとの趣旨の発言がありました。高橋先生は地域と学校をどうつなぐかとの視点で、係わっている子ども達(発達障害・いじめ・不登校経験者…)が将来的に社会に出て行った時、地域に居場所がない状況は心配であるとお話下さいました。私としては、様々な問題の根に孤立して繋がり合えない親世代の問題があり、学校は「親のニーズ」に対応することで精一杯で、それが教員の精神疾患の一因となっているのではとの指摘をさせていただきました。結論は出ませんでしたが、様々な問題は「つながりの再構成」からしか生まれないのではとの認識を共有できたように思います。

 今回初めて、中間にテーブル毎の対話を全体でシェアリングするという試みを行ってみましたが、それによって後半の対話が自然にテーブルを越えて一体になっていったことも、興味深い出来事でした。特に「教育の目的論」を論じていた村山先生を囲むテーブルと『学び合い』の具体を語るグループが一つとなり、「教育における関係性」の議論に深まっていったことは、私にとって大きな学びとなりました。特に村山先生が説明して下さった「3つの関係性:子ども=子どもの友達関係(横のつながり)・子ども=教師の権威関係(縦のつながり)・個人=集団の多様な関係(子どもも大人も)」は、単なる「コミュニケーション」や「学び合う」といった抽象概念では見えてこない、具体的な関係性を捉える視点として大変有効であると感じます。残念ながらそれぞれの関係性を具体的な子どもの姿を通して検討することは、時間の関係でできませんでしたが、是非機会を改めてしっかり深めてみたいと思いました。

 村山先生は教育人間塾のメーリングリストに次のようなコメントを寄せて下さっています。
(1/30 21:49)
(前略)今日の会でもそうした手法のことはさておいて、星槎の若い先生との、学校の目的、役割についての議論は良かったです。亀貝先生が提起した、北星余市校の校長さんの、通信制高校は集団を持たないので学校としては問題があるという発言に対して、どう考えるかという論点に関してです。星槎の先生はもちろん通信制無用論に反発していましたが、僕は、そもそも近代学校は家庭内だけでやっていた子育てを、一定の集団で学校という制度のもとに社会全体で代わって行うことから成立したもので、その点では、学校教育の意味として、子どもの社会性を集団の中で育てるということが原理的に含まれている点をふまえる必要があると話しました。簡単に言うと、学校教育の目的は、勉強、学習を通して社会性を形成するところにあるということです。ですから、通信制も、現在の公立学校とは違った形で社会性についても取り組んでいることをアッピールすることを回避するのは適切でないのでは、と問いかけました。(後略)

 『学び合い』提唱者である西川氏(上越教育大学)は「多様な人とおりあいをつけて自らの課題を達成する経験を通して、その有効性を実感し、より多くの人が自分の同僚であることを学ぶ場」というように学校の役割を定義しています。村山先生の「学校教育の目的は、勉強、学習を通して社会性を形成するところにある」との指摘は、まさに西川氏の定義と重なります。通信制高校については、高橋先生も上記の発言の中で「地域と呼べるものを持ち得ないことの困難」を語られていました。個の特性に応じた多様な学び方を保障できるのが通信制の良さかと思いますが、そこから「社会性」を身につけた個の育成も視野に入れた教育活動を展望する上で、『学び合い』の考え方にある「多様な人とおりあいをつける」という視点は有益な示唆を与えるのではないかと感じます。通信制の実態をほとんど知らない私が言えたことではありませんが、学校に代表される種々の教育機関の存在意義や目的について考えるとき、「社会性」や「関係性」が重要なキーワードになりうることを、改めて確認することができました。

 私は『学び合い』と出会う以前から、全国生活指導研究協議会(全生研)の研究的実践に影響を受け、「集団づくり」の思想と方法を学んできました。折出健二氏(愛知教育大学教授・全生研全国常任委員)は、「集団づくり」を次の様に定義しています。

 日常の学級という場を基盤として、この関係性を暴力的でなく平和的に、支配的でなく共同的に築きながら、この活動を参加・共同・自治の教育内容として具体的に構築する営みが必要となる。学級またはホームルームのもつ集団的教育作用を子どもたちの人格形成のために資するように発揮させる。これが、今日求められる《集団づくり》である。

 この文章は、昨年夏の「『学び合い』を学ぶ会」に参加して下さった奇春花さん(北大修士課程 教育臨床心理講座)の修士論文作成に協力した時、奇さんから頂いた資料にあった言葉です。奇さんとの対話の中で私は次のような趣旨のことを語ったことがあります。

 残念ながら昨今の子ども達の現実は、内藤朝雄や土井隆義らがいう「排除型いじめ」の様相を呈している。単純にコミュニケーションの大切さを謳うだけでは如何ともしがたい状況だ。その中で、共同体の「集団的教育作用」をどこまで信じることができるのか。そこに議論の分水界があるように感じる。今現在の私のスタンスは、「交流的自己」(ブルーナー)として「私」を捉えること、「私」を含めた「みんな」すなわち相互主体的な「われ=われ」として「自己」を捉えること、にある。そこから平和を志向する個人の育成が可能となるのではないか。

 今回の村山先生を囲んでの対話を通して、改めて「関係性を含んだ個=交流的自己」として学習者を捉え、その発達をいかに支援・保障するかが学校の目的・役割なのではないかとの認識に至っているところです。このことを考える上で、最近村山先生が言及されるハバーマスの「コミュニケーション的理性」を改めて参照してみることも必要かと考えています。

 会が終了し、村山先生と亀貝先生がお帰りになった後で、残った先生方で教室における「関係性」、特に教師の役割が話題となりました。私は村山先生が指摘された「縦の権威に基づく関係」だけでは、今日の多様化した子どもの現実には対応できないと考えています。村山先生がおっしゃった「コントロール(支配)」「オーガナイズ(構成)」といった機能に加えて、「ファシリテート(促進)」「コーディネート(調整)」といった役割が欠かせないということです。その点で近年注目されている「マネジメント(経営)」の発想には、どうもなじめない所があります。西川氏は著書でドラッガーの『マネジメント』を高く評価していますが、その是非も含めて、これらの概念をひとつずつ丁寧に吟味することが教室における多様な関係性について深く考えることとつながるのではないかと感じました。

 会が終わった後、事務局2名を含め計6名で、場所を移して昼食を共にする機会がありました。会の中では話し足りなかった様々な話題が交流され、大変楽しい時間となりました。特に新川高校の澤尻先生は、地域コーラスの代表をされる程の音楽愛好家で、他にも私が学生時代に認知心理学の手ほどきを受けた伊藤進先生(元北海道教育大学教授)の下で、コミュニケーション心理学分野で修士論文を書かれたということで、共通の関心事の多さに驚かされました。先生はカウンセリングに造詣が深く、QUや構成的グループエンカウンターなどに関する資格(上級教育カウンセラー)もお持ちであることから、『学び合い』に限らず様々な分野で今後もご教示いただけることと期待しております。

 私事ではありますが、私と妻が付き合いを始めるきっかけを作ってくださったのが佃さんで、結婚式でベースを演奏していただいた10年前からお会いする機会がないままであったのですが、今回遠路はるばる私たちの会に参加してくださり、社会教育の視点から学び合う関係性について多くの有益な指摘をしてくださったことにも深く感謝したいと思います。真摯に学び続けていれば、必ず縁のある方とは繋がり合うことができることの証明であるようにも感じます。つれづれと会の内容とは関係ないことも書いてしまいましたが、今後もこの会を通して様々な方々と出会えることを楽しみに、事務局として少しでも充実した企画となるよう力を尽くしていきたいと思います。参加してくださった皆様との出会いこそ、私が「この会で見つけたもの」であると書かせていただいて、会の振り返りに代えたいと思います。
 
 会についての感想・要望
 事務局としては毎回様々な分野の、教育に関心をお持ちの方々が集まって下さることを大変嬉しく思っておりますが、残念ながら、「次回も参加しよう」と思えるような会となっているかどうか、若干の疑問が残ります。唯一のリピーターであった亀貝先生からも、このようなオープンエンドの語りではなく、テーマを決めた討論の方が深まるのではないかとの貴重なご意見を頂きました。テーマを設定したディスカッションの必要性は、私自身も感じていた所です。しかしながら「参加者全員が互いに持ち寄った話題について対話を重ねる」(neco塾代表の岡山氏はホール・システム・アプローチにおける「OST(オープン・スペース・テクノロジー)」に近いと指摘してくださいました)というこの会の趣旨に照らせば、「ディスカッションではなくダイアログ(詳しくはお渡しした「研修部便り」の第17号の裏面をご参照ください)を」というのが、「子どもの姿を語る会」が目指すものであります。「論点を大胆に参加者全員の共通のテーマとして進める」との具体的な提案を前日にメールでいただいていたのですが、そうすると各自が話題としたいことを拾えないということがあり、試行錯誤する中で現在のようなスタイルを採っております。今後は「子どもの姿を語る会」についてはこれまで同様、参加者がそれぞれの関心に沿って自由に語り合うというスタイルを大事にし、それとは別のスタイルの学習会(昨年夏の『学び合い』を学ぶ会のような形式)を企画する中で、テーマ追求型の討議ができれば良いのではないかと考えます。ご理解いただければ幸いです。

 亀貝先生同様、村山先生も教育人間塾のMLに、「熟議」との対比において小グループでの討議形式についての懸念を語ってくださいました。断っておきたいのですが、今回のテーブルトークは『学び合い』そのものとは根本的に狙いも形式も違います。村山先生は「学び合いという一種のグループ討論」という認識を持たれたようですが、本来の『学び合い』はグループを指定しませんし、明確な課題を提示して全員で問題解決にあたるという点で、今回の会とは対極的なものです。資料として「授業づくりネットワーク」の協同学習特集をお渡ししましたので、そちらをご参照いただければと思いますが、近年多く提唱されている多様な「協同学習」の中のひとつの形が『学び合い』であるにすぎません。私は提唱者の西川氏も言う通り、「授業方法の一流派」として捉えるのではなく、その根底にある「考え方」に共感を持っているのであり、「授業法のひとつとして学び合いの手法を実際に練る」というような教育方法学的なアプローチには、実はあまり関心がないのです。『学び合い』の方法面に関心を持って参加された方々には申し訳なく思うところですが、私個人としては今後も『学び合い』の思想的背景(なぜ関わり合って学ぶのか)に、様々な「協働の学び Collaborative Learning」との比較を通して迫る試みを続けて行きたいと思っています。
 
 また、これまで『学び合い』北海道として6回(neco塾との共催含む)の企画を実施してきましたが、それらを振り返って共通して感じるのは、「本当に『子どもの姿を語る』ことができているのか」ということです。今回、山田先生の下で『学び合い』を経験した浅見さんが会に参加して下さいましたが、最も生徒の立場に近い年齢である彼女に、もっと安心して語ってもらえる場とするにはどうすれば良かったのか。ワールドカフェで使われる「対話のエチケット」を各テーブルに置かせていただきましたが、私も含めて「話すこと」が優先して「聴くこと」の重要性が共有されていなかったのが、その一因であるかと振り返っています。「子どもの姿を語る」といいつつ、具体的な子どもの姿よりも抽象的な教育論になりがちな対話を、いかに「子どもの事実」に立ち返りつつ紡ぐか。ここで参考になるのが「臨床教育学」のアプローチでしょう。お渡しした「研修部便り」の1学期分は、庄井良信氏や福井雅英氏(共に北海道教育大学教授)の議論を紹介しつつ、臨床教育学の知見を参照しながら「自己肯定感」の問題に迫る内容です。その中で私は庄井氏が札幌自由が丘主催の講演会で語った「学び合いは、子どもの声を聴き取ることから、その声をひろげて語り合い、新たな課題・新たな希望を紡ぎあうこと」との定義を何度か引用しています。村山先生も、去る1月29日に発足した「北海道臨床教育学会」に参加されていると聞きました。再び村山先生のMLへのコメントを紹介させていただきます。

clinicというのは、もともとギリシャ語で(kilinikos)ベッドの中にいるという意味だそうですが、弱者に視点をすえて、癒しをキーワードに相手に寄り添った学びや育ちの方法を開発しようとするのが臨床教育学のようです。ただ、まだ日本では学問として十分認知されていなく、これから庄井さんがその中心になり全国展開するということなのでしょう。これまで教育学は、現場に即するといっても、おうおうにして結局は自分の研究のモデルケースにしたり研究材料にしたりするのが多かったのですが、それらとは発想が違う点、注目しています。得意とする発達障害や障害児教育だけでなく、授業方法や学級作り、さらには学校論、教育制度論、政策論などにどのように展開されていくかですが、まだしばらく時間がかかるでしょうね。
(1/30 19:46)

 私もこの学会への参加を検討しており、先日の設立総会の案内を送っていただきました。そこに同封されていた「設立趣意書」には、「カンファレンス的な学び合い」「教育者・発達援助者の生活史や実践史の吟味」「『学び』あるいは『授業』と臨床教育学という研究領域」という言葉があります。村山先生の「授業方法や学級作り、さらには学校論、教育制度論、政策論などにどのように展開されていくか」との指摘と響きあう素晴らしい内容です。『学び合い』の西川氏も、自らが志向する学問領域を「臨床教科教育学」と名づけています。「子どもの事実に立ち返る=臨床的に語り、聴き合う」ことを志向しつつ、我々の会としても慌てず・騒がず・坦々と、あるべき教育・人間発達援助のあり方を、その目的を真摯に問い続けながら考えていきたいと思います。
 
 今回教育に関心を持ちつつ、北海道の未来を憂いて政治を志しておられるという鈴木さんともつながることができました。食事会の席で鈴木氏は「卑怯」ということを教えられない現実に触れ、教育勅語の内容を評価すべきとのお話をされていました。その背景にある福沢を含む明治期の思想について是非一緒に学びませんか、と教育人間塾にもお誘いしています。立場や思想・信条の違いを越えて多様な声が響き合う場、言い換えれば、正対する思想をも包み込む「対話の場」を創り出すことはできないか。ハバーマスが言った意味での本来的な熟議(deliberative democracy)即ち「市民的公共的な討論」に立ち返りつつ、好き嫌いに基づく趣味の共同体ではなく、福沢の言う「高尚なる論」(サンデルなら「善ありし正義」と呼ぶでしょうか)を誠実に求めたいと思います。

 サンデルの政治哲学について、小林正弥氏(千葉大学教授)は次のように説明します。
(前略)特定のコミュニティの枠を超えて、私たちは対話によって善を探求し、それとの関係において正義を探求することが必要になる。これは新しい思想的挑戦に他ならない。(『サンデルの政治哲学』平凡社P.95)
 政治を語ることは本会の趣旨ではありませんが、「対話」ベースの真に豊かな人間関係や社会像を模索する上で、今後も様々な方々にご参加いただき、様々な話題について「学び合う」会であり続けたいと思います。今回のご参会に深く感謝申し上げるとともに、末永く本会を支えてくださいますよう、重ねてお願いいたします。皆様,本当にありがとうございました。またお会いしましょう。

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