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自己物語探究の旅(5)

 平成29年度が終わります。今でこそ「平成」と元号を使うことを憚らなくなった私ですが、三十代までは可能な限り元号表記を避けていました。大学入試と昭和天皇崩御が重なり、歌舞音曲禁止の異様な空気を憶えているからなのでしょう。本連載(2)http://archives.mag2.com/0000027395/20171225225020000.htmlで書いた様に、平成の終わりが明示され、次年度が平成最後の年度だとわかっているが故に、何とも言えないノスタルジーを感じているのかもしれません。

 教職員組合の一員として熱心に活動していた三十代後半、私は平成天皇在位二十年の節目にあたって、次のようなエッセイを書いていました。今も治療中の胃部過形成性ポリープが初めて見つかった直後の自己物語です。

(以下引用)
2009.11.10『当事者研究』その5(在位20年雑感/私のマニフェスト)   
 コンフリクト・フリーを久々に感じる。天皇在位20年に伴う国旗掲揚。校長は「やらせていただくのでお知りおき下さい」。分会からのリアクションもなし。卒業式・入学式・周年行事などでは、あれだけ議論して反対の意志を示していたのに、2000年職務命令以降は、無批判に「やむなし」と受け容れざるを得ない風潮がある。支部の発文書を見ても「10周年と同じ」とのことで、積極的に反対を組織するわけでもない。もちろん学校現場には様々な課題が山積しているし、既に学力テストを3回受け容れているのに比べれば、「旗を掲げる」事の重要度は低いのかもしれない。ただ昭和天皇崩御の異様な空気を知るものとしては、平成の天皇制がもつ問題点に敏感にならざるを得ない。(中略)
 私自身の信条や価値観を脱構築するチャンスでもある。これは決して「転向」ではない。いずさから逃げずに、「政治的・戦略的」に進めること。上手くまとまらないが、「偶然性に身を任せ、様々に立ち現れる関係性に巻き込まれてみる」ことの実践を、自分の心と体と相談しながら無理せず進めるしかない。朝はしんどい気持ちだったが、同僚とつまらない話をしている内に大分楽になった。「何とかなるし、なんとかする」のだ。更に言えば「何ともならなくても、そういうこともある」のだ。
 私は社会的関係の束に過ぎない。「できることとできないことを見分ける」中で、今回のことも「仕様のないこと」に属するのだろう。現実はそう簡単には変わらない。出来るのは「単にやり過ごす」のではなく「向き合いつつそらす」ことなのだ。ホメオスタシス(生体恒常性)としての心理機制を上手に活用すること。「忘れる」「見方を変える」ことを肯定的に受け止めること。戦略的に「忘れたふりをすること」。
 関係性の相の下に、民主主義的な市民性を志向するならば、ハリー・ボイトの言う「組織活動としての教育」における「政治的コーディネーター」たろうとする意志が必要だ。真の意味で「パブリック」であるために、「多様な利害と権力のダイナミクスの行使」に積極的に関与すること。ボランタリズムと愛国心の政治に対して、公共空間に開かれた文化変容・人間変容を対置する教育実践を求めたい。今日この日に私に問われていることとは、「二元論ではなく異質な多様性」(小玉重夫『シティズンシップの教育思想』白澤社2003)を本気で志向する覚悟があるのか、ということのように感じる。許容しがたい現実ではあるが、こんな風に自分なりのマニフェストを書く機会をもらったことに感謝して、方向性を見失わずに坦々と、粛々と実践を積み重ねることにしたい。
(引用以上)


 この年の9月に政権交代があり、組合支持の政党が政権に就いたことから、自身の「支えとするストーリー」が政治に傾斜していたことは否めません。「できることとできないことを見分ける」と書いているのは、三十代の半ばで断酒した時(2005)に知った「ニーバーの祈り」が念頭にありました。以下、Wikipediaから原典を紹介します。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A

(以下引用)
God, give us grace to accept with serenity
the things that cannot be changed,
Courage to change the things
which should be changed,
and the Wisdom to distinguish
the one from the other.
神よ、恩寵を私に与えて下さい
変えられないものを静穏に受け入れるために与えて下さい 
変えるべきものを変える勇気を
そして、変えられないものと変えるべきものを
区別する賢さを私に与えて下さい
(引用以上)

 十年近い時を経て、決して変えるべきではないと信じる憲法の平和主義が、9条2項削除という形で議論されるようになりました。アメリカ同時多発テロ(2001)を機に「第9条の会 オーバー北海道」の会員になった私としては、現在の政治状況を「変えられないもの」として「静穏に受け入れる」ことはできません。今こそ「変えるべきものを変える勇気」を奮い立たせて、上記マニフェストに立ち戻るべき時なのでしょう。

 「異質な多様性」を志向しつつ駆け抜けて来た十年。しかしながらその想いとは裏腹に、心身は決して健康とは言えません。2年前に経験した適応障害の症状は快方に向かっていますが、卒業式前日(3/14)の診断で治療中の胃に新たな病変が見つかりました。がん転移の不安を抱えつつ、慢性胃炎の痛みと折り合いをつけながら生きることにもいつしか慣れ、家族には更なる心配をかけることとなります。それでもなお(それ故に)、病を得たことに「向き合いつつそらす」生き方が今まさに求められているのだと、改めて覚悟する時が来たのだと感じています。

 明日(3/28)は、娘5歳の誕生日。そして当方が仲間と立ち上げた「こどもの姿を語る会」発足(2010)から8年目の節目を迎えます。診断を受けた日、ふと思い立ちフェイスブックで「こどもの姿を語る会」グループを立ち上げました。以下はその紹介文です。https://www.facebook.com/groups/213227305895843/

(以下引用)
2010年3月に「『学び合い』北海道・子どもの姿を語る会」として会を立ち上げ、2012年11月からは例会を行って、様々な分野の発達援助専門職が集い、語り合う場づくりを進めています。「一人も見捨てない」とのインクルーシブネスを緩やかに共有しながら、こどもの姿を通してまなざしを重ね合い、互いにエンパワーし合う場でありたいと願います。
どうぞご参加下さい。
(引用以上)
 

 私はインクルーシブ教育システム構築に携わっていた一昨年度、臨床教育学会の全国大会(2015.9.27)で「インクルーシブな学びをめざす発達援助実践」と題した実践事例研究発表を行っています。「ナラティブ的探究(NI)」を日本に紹介した田中昌弥先生(都留文科大)や、東京学芸大に移られたばかりの岩瀬直樹先生らを前にして、当時抱えていた強い葛藤を理論的に整理することも叶わず、消耗感だけが残る発表となったのでした。それでも、あの時の発表で「語りえなかったこと」や、あの学校でなし得なかったことが、「一人も見捨てない」という想いを今も諦めず心に刻んでいることにつながっているのだと感じます。

 上記「語る会」グループには、尊敬する首都圏のスクールソーシャルワーカー(荒巻りかさん)がご参加くださり、次のような交流がありました。(以下引用)
荒巻さん:ご招待をありがとうございました。私はSSWという仕事のなかでは、子どもより大人と話しているほうが多いのですが、それでも、子どもの姿はとても気になります。読むだけになるかもしれませんが、よろしくお願いいたします。
笹木:不躾な招待に応答いただき感謝です。教科研『教育』で荒巻さんのまなざしに触れ、深く共感しておりました。スクールソーシャルワークの社会的認知度は高まっていますが、残念ながら一番の壁は同僚である教員なのかもしれません。
 札幌市の「子どもの貧困対策計画」では、施策1―1「 気づき、働きかけによる相談支援体制の充実」にSSWr活用の拡充が謳われています。
http://www.city.sapporo.jp/.../documents/01keikakuan.pdf
 この困難な時代を生き抜くには、「まなざしを重ねあうこと」が何より必要と感じています。横藤雅人先生(北海道教育大学教職大学院臨床教授・元公立小学校校長)は「ざるで水をすくう」と譬えておられましたが、それでもなお、掬い取ろうという意思を持ち続けたいと思います。今後ともよろしくお付き合いください。
荒巻さん:ご丁寧に、ありがとうございました。まなざしを重ね合う…素敵な言葉ですね。SSWという仕事も、たくさんの矛盾や危うさをひめたものだと痛感しています。たくさん語り合い、互いのポジションをわかりあい、たくさんの方向から闇を照らしあい、「もっとこうありたいね」を共有しあえたら、と思っています。今後ともよろしくお願いいたします。
(引用以上)

 この交流があった日、私は冒頭に紹介したエッセイ執筆時に中学3年生であった生徒と、卒業以来の再会を果たしました。当方の旧稿(「音楽・平和・学び合い」10/18)で紹介したバンプ・オブ・チキン『ギルド』を聴く実践で、そのクラスの学級代表を務めていた男子です。上記グループページ開設のちょうど1年前(2017.3.14)、私が旧稿をまとめたホームページを公開した時、彼は即座に応答してこんなコメントを寄せてくれていました。(以下引用)
 拝読した記事に、「5分間鑑賞」について私のいたクラスのことと思しきエピソードが綴られており、とても懐かしく、そして自分たちが評価されていたことをとても嬉しく思いました。我がクラスの再生は、間違いなく生徒の意識が変わったことによって起きたと思います。しかし、笹木先生や当時の担任の先生を始めたくさんの先生方のご指導なしにはあり得なかったと強く感じています。そして、あのクラスを色々と前例のない形で引っ張った経験が私の中でかなり活かされていることにも、顧みて気付かされました。そして、今の進路を決定付けたのも中学校での国語の先生との出会いでした。実習期間中ではありますが、次札幌に戻った際に先生とお会いできることを心待ちにしております。
(引用以上)

 実習中だった昨年5月には都合が合わず会えなかったのですが、今回8年ぶりの再会を果たして、懐かしい話題に花を咲かせました。彼は都留文科大学の国文学科で学び、この4月からは名古屋大学大学院に進学しながら、高校の非常勤講師を務めるのだそうです。2時間あまりの歓談は飛ぶように過ぎ、別れ際の改札前で最後に交わした言葉は、やはり「いのち」と「いのり」に関するエピソードでした。彼が国文学を学ぶきっかけとなった中学時代の国語科教師(当方の元同僚)は、退職して震災後の福島に渡り、その地での筆舌に尽くし難い体験を胸に刻みつつ、今は札幌にて学習支援の仕事についているとのこと。その恩師とも先週末再会し、深く人生を語り合った様子でした。彼は叔父の死に触れた先月の本連載(4)を読んで、すぐに当方のフェイスブックに次のようなコメントを寄せてくれました。
(以下引用)
2018.3.2
 笹木先生 私も1月に父を亡くしましたので、「死ぬってどういうことなんだろう」「死んだ後はどうなるんだろう」ということを考えていました。得た答えは、ひとまず「死後の世界や輪廻転生には保証がない」ということです。だからこそ、自分自身が多くを学び、それを受けて自分がどう考えたか、自分なりの真理とは何かを考えるべきで、それを少しでも後世に伝えていくべきなんだろうと思うに至りました。
(引用以上)

 以下が私の応答です。
(以下引用)
 コメントに感謝します。今回の記事の中に「悲しみを悲しみのまま受け止め」という言葉を書きました。吉野淳一先生が講演で、岡知史氏らの論文(2010)から「悲しみはケアされようがない」という言葉を引用したことが念頭にありました。若い頃は悲嘆回復段階説の立場から「悲しみを悲しめるようになると良い」などと言っていたが、実際はそんな簡単なものではないとのこと。私自身は両親とも健在で、本当の意味で深いグリーフを経験しているわけではないのですが、姉が精神病で長く社会的入院を強いられていることから、「喪失」は自身のコア・ナラティブを形成する重要なテーマとなっています。
 「自分なりの真理とは何か」との問いは、そのまま私の「自己物語探究」に重なります。義父の死(2009.3.5)から書き始めた「研究ノート」(2017年4月から「Inquiry Notes」と改題)は、明日で66冊目になります。最初のページにひな祭りの喜びを綴った後は、義父の命日と同じ日に逝った恩人の7回忌、そして8回目の3・11を経て、娘5歳の誕生日が巡ってきます。私は特定の宗教を信じるものではありませんが、それでも「いのち」を巡って語り継がれる物語に、敬意を払い続けたいと思います。謹んで、ご尊父のご冥福をお祈りいたします。
(引用以上)

 月並みながら、私たちは皆「別れ/出会い」の物語を様々に紡ぎ合いながら生きて行きます。最後に勤務校の生徒会誌(若い樹 第42号)に寄せた原稿を紹介して、今回の記事を終えます。またもまとまらず、徒然と引用を散りばめた雑文になってしまったことをお詫びします。皆様、健やかな春をお過ごしください。

(以下引用)
2017.11.30「出会いの物語を紡ぎながら生きる」
 縁あって、この新川中学校で一年を過ごすことができた幸運を、深くかみしめています。着任式の校歌を聴いて心が震え、今でも「わがゆく道は遠けれど」の部分を口ずさむ度に泣きそうになります。
 「拠点校指導教員」という若い先生を支える仕事に就いて2年目ですが、私自身の初任時を知る先生方(校長先生はじめ5人おられます)と出会い直せたことが、心地よく過ごすことのできた一因でしょう。この一年、生徒の皆さんが誠実に学ぶ姿や、担当した初任の先生のひたむきな仕事ぶりに接しつつ、自身の若き日々を省み、これまでの歩みを振り返ることが多くありました。
 教員になった22年前、何もわからず、ただひたすらに、がむしゃらに毎日をやり過ごしていた当時の私には、遠く未来をイメージすることなどできませんでした。それでも多くの人々との出会いの中で、物語を紡ぐように日々を味わって生きてきた果てに、この新川中での豊かな一年があります。一つ一つの出来事を丁寧に味わいながら、これからも出会いの物語を大切に紡いでいきたいと思います。
(引用以上)

参考資料:笹木 陽一「自己物語探究の旅(2)」(2017)

      http://archives.mag2.com/0000027395/20171225225020000.html

       〃  「自己物語探究の旅(4)」(2018)

     http://archives.mag2.com/0000027395/20180228215933000.html

       〃  「音楽・平和・学び合い(10)」(2011)

      http://archive.mag2.com/0000027395/20111129225816000.html

       〃  「音楽・平和・学び合い(18)」(2015)

      http://archive.mag2.com/0000027395/20150213001000000.html

       〃  「インクルーシブな学びをめざす発達援助実践
          ~中学校教員としての『自己物語の探究』を通して」           
     『日本臨床教育学会第5回研究大会発表要旨集録』所収(2015)  
       〃 「こどもの姿を語る会」フェイスブックグループページ 
          https://www.facebook.com/groups/213227305895843/  小玉 重夫「シティズンシップの教育思想」白澤社(2003)
Wikipedia「ニーバーの祈り」https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%A5%88%E3%82%8A
教育科学研究会編『教育』
           No.850「特集2 親と教師は出会えるか」(2016)       
     〃     No.857「特集1 相模原事件は問う」(2017)
                            かもがわ出版札 幌 市 「子どもの貧困対策計画案」(2018) 
        http://www.city.sapporo.jp/.../documents/01keikakuan.pdf
横藤 雅人「子供たちからの小さなサインの気づき方と対応のコツ」
                          学事出版(2006)

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