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東浩紀さんによる落合陽一さん批判から考えるテクノロジーの方向性 佐々木俊尚の未来地図レポート Vol.707

特集 東浩紀さんによる落合陽一さん批判から考えるテクノロジーの方向性
〜〜AIがもたらす新たな「エリートと大衆」階層化論は正しいのか

月刊「文藝春秋」の5月号で、東浩紀さんが落合陽一さんへの批判を書いています。


この指摘はかなり重要な内容をはらんでいます。上記の文春オンラインへの転載では、5ページ目の部分です。ここで東さんは落合さんの2018年の著書『デジタルネイチャー 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』(PLANETS)を引いています。

同書は、AIによっているや社会がコントロールされていくことによって、低コストでパーソナライズされた最適化社会が実現すると説いています。そういう社会では、人々の生き方はベーシックインカム(BI)的とベンチャーキャピタル(VC)的に二分されていくといいます。

AIが進めばベーシックインカムが必要になるかも……というのは、実際によく議論されているテーマです。AIが多くの人の仕事を奪う結果になっても、企業がAIを使って生産活動を行って商品やサービスを提供し、それらを消費する人がたくさんいれば経済は回り続けます。しかし人々の仕事は奪われているのだから、無人化する企業は労働者に給料を払わない。だったら企業が得た利益を法人税として財源にし、人々にベーシックインカムを支給すればいい。ベーシックインカムによる収入で人々が商品やサービスを購入してくれれば、経済は持続するはずです。

従来:企業→労働者に賃金を支払う→労働者が消費者となって企業からモノを買う→企業の売上が立つ
未来:企業が国庫に法人税を納める→国庫からベーシックインカムを消費者に支給する→消費者が企業からモノを買う→企業の売上が立つ

上記のように循環が変わるという可能性ですね。現実に政策としてそれが設計可能かどうかは別として、思考実験としてはおもしろいと思います。

ところで、ここで問題になってくるのは、もし生活費の全額をベーシックインカムによって成り立たせるようになるとしたら、一般社会の人々の「人生への期待」はどうなるのでしょうか? 古代ギリシャのように、奴隷(つまりAI)に仕事をさせて空いた時間はみんなで広場に集まり、民主主義の議論をするということになれば素晴らしいですが、実際には一日じゅうスマホのゲームをただ遊び続ける人もいるのではないか、という指摘もされています。

そしてこの二つの方向が生まれてくることを、落合さんは同書では肯定的に描いています。落合さんはデジタル化された社会は「AI+BI」型の人と「AI+VC」型に二極分化していくと言います。以下は引用です。

「AI+BI型の社会は、成功した社会主義に近くなる。社会の構成員に等しくタスクが振り分けられ、その対価も等しく分け与えられる。それに対して、AI+VC型の社会の中では、一部の人は挑戦的なビジネスに取り組む。次々にプラットフォームに技術が飲み込まれる中で、その向こう側の領域をシリアルアントンプレナーとして生み出していく世界だ」

「この両者の価値観の共存は難しいため、AI+VC型の社会についていけなくなった人は、AI+BI型の社会に移住して余生を過ごすことになる。市場の拡大を目指す人間と、市場拡大の恩恵をゆるやかに受ける人間が、明確に分けられた世界だ」

落合さんのこのような二極分化ビジョンを、東さんは月刊文藝春秋で強く批判しています。

「ぼくにはこの未来社会像はあまりに夢想的すぎるように思われるし、そもそも実現するとしても悪夢にしか思えない。それは人類を選良とそれ以外に分ける社会像にほかならないからである」

「しかも厄介なことに、落合は同書で、デジタルネイチャーは人類をまさにそのような古い道徳観や倫理観から解き放つものなのだと主張し、そんな懸念を振り払ってしまうのである」

「落合は『デジタルネイチャー』で、来るべき世界においては『人間』の概念こそ『足かせ』なのであり、人々は『機械を中心とする世界観』に対応しなければならず、『全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる』のだから『誰も不幸にすることはない』とはっきりと記している。行政にかかわる人間が抱く思想としては、これはいささかひとを不安にさせる」

東さんはここからさらに、落合さんやユヴァル・ノア・ハラリ(『サピエンス全史』『ホモ・デウス』の著者ですね)のようなテクノロジーを背景にした「夢想的な文明論」を批判し、パンデミックや戦争をテクノロジーでは克服できていないではないか、という論に持って行っていますが、わたしはこのテクノロジー批判にはあまり同意していません。それとは異なる考え方を持っています。

落合さんの言うように、AIが究極に進化していけば、産業や社会、日常生活などが最適化されていくというのは間違いないでしょう。そしてそのような最適化社会は、とても安逸だと思います。実際、グーグルやフェイスブックなどビッグテックの提供している検索や地図やSNSなどのサービスは、個人データを吸い取られるかわりに無料や安価でサービスを受けられるというメリットもあるからで、お金に余裕のない人にとっては福音です。

「監視資本主義」という批判もありますが、この監視資本主義批判は実のところ「金持ちの道楽」的言説であるという面も否めません。個人データを収奪されていることを気持ち悪いと思うのは個人の自由ですが、いっぽうでそれによって無料や安価なサービスを受けられている人たちがいるということも忘れてはなりません。

自由を愛する人は「プライバシーを集めて利用するなんて」と怒ります。でも明日の食事にも困っている人は、無料で動画やゲームが楽しめ、友人に無料でメッセージを送れるのなら「プライバシーなんて要らない」と思う人は少なくないでしょう。

つまりここには、「安逸な暮らし」か「支配されない自由」かという二者択一があるわけです。現在の情報通信テクノロジーを議論するうえで難しいのが、実のところこのポイントなのです。

ビッグテックのプラットフォーム支配を肯定すれば、それは安逸な暮らしを受容することになるけれども、いっぽうで支配を受け入れてしまうことになる。しかし支配を受け入れてしまうことは、それは個人の自由を失うことになりかねず、リベラリズムの根幹の問題につながってくる。

そこでこの二者択一を解消するための考え方のひとつとして、「安逸な暮らしを選ぶ人もいれば、支配されない自由を求めてアントンプレナーになる人もいて良いのだ」という二極分化を描いたのが、落合さんの『デジタルネイチャー』だったと言えるでしょう。

このテクノロジーにおける「二者択一」の問題は、20年以上も前に、ある名作SF映画で見事に描写されています。知らない人はいないであろう、あの『マトリックス』です。

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