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現代において「平均的であること」は、奇跡的な価値がある 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.679

特集 現代において「平均的であること」は、奇跡的な価値がある
〜〜無理して成功を求めずに、身の丈だけでうまくやっていく方法

平均値はウソをつく、というのは近年になってよく指摘されるようになりました。「平均」だからといって、それが凡庸で普通のことを指すのではありません。たとえば日本人の金融資産の平均の金額は、2人以上の世帯で1400万円ぐらい。単身世帯でも650万円あります。「うちにはそんなにたくさん貯金はない!」と感じる人がたくさんいるでしょう。ゾゾの前澤友作さんのようにひとりで何千億円も持っている超富裕層が入ってしまっているので、平均値が引き上げられているのです。

どこかの居酒屋で今飲んでいる客が20人いたとして、その平均資産額は想像の範囲内でしょう。でもそのお店に前澤さんが入ってきたら、お客さんの資産の平均額は1000億円を超えてしまうのです。

だから最近は、「中央値」のほうが適切だと言われています。最も金融資産の多い人から、貯蓄ゼロの人まで一列に並べると、その列のちょうど真ん中にいるひとは、単身世帯だと貯蓄50万円。2人以上の世帯では650万円です。だいぶ生活実感に近づいてきたのではないでしょうか。中央値なら、前澤さんがお店に入ってきても数値がうなぎ登りになることはありません。

とはいえ日本では格差化も進んでいます。アメリカと日本が異なるのは、アメリカは上位1%の超富裕層にお金が集中しているのに対し、日本にはアメリカほどの多くの富裕層がいるわけではないということ。たとえば資産100万ドル(約1億円)以上の富裕層の人口に対する割合は、スイスが10.2%、アメリカが6.1%、オランダ5.0%などに対して、日本は2.6%しかありません。これはドイツと同じ割合です。ちなみに中国では富裕層が急増しているイメージがありますが、人口がめちゃめちゃ多いので、富裕層の割合はわずか0.4%です(The Global Wealth Report 2020より)。

日本も富裕層は増加しつつありますが、より大きな問題はアンダークラスと呼ばれる平均年収200万円以下の貧困層が増えてきていることです。このアンダークラスという概念を提示した橋本健二・早大教授によると、人数は900万人以上。なんと就業人口の15%を占めるにいたっています。つまりわれわれの日本社会は、上位1%の大金持ちに富を奪われているというよりは、中流階級から貧困層に陥っていく人が増えていくという「底抜け」が起きているということなのです。

先日もCOP26にあわせて石炭火力廃止を訴えるデモが新宿であり、参加した若者のひとりが「これ以上の豊かさはいらない」とスピーチしたことが話題になりました。以前も団塊の世代の著名人が「みんなで貧しくなればいい」とメディアで発言し、批判されたことがありました。こうした発言がその都度批判されるのは、日本社会で起きている「底抜け」が発言者たちにあまりにも認識されていないことへの怒りなのだと思います。

自分の知らない世界のことは、おうおうにして想像力が働かない。だいぶ前の話ですが、たいへん優秀なA君という大学生がいて、ときどき会う機会がありました。卒業の直前のころになって彼が「久しぶりに話しませんか」と連絡してきて、「就活はしないで、いろんな会社のお手伝いをしたり自分でも起業したりして暮らしていこうと思ってます」という話を聴きました。

ちょうど「就活に失敗して大学生が自殺」というニュースが飛び交っていた時期だったので、「そういうニュースはどう受け止めてるの?」と聴いてみると、「うーん、かわいそうですよねえ。そういう人もいるんだろうなあとは思います」と人ごとのように言う。「自分の将来に不安を感じることは?」とさらに尋ねてみると「不安はないです。いろいろあるかもしれませんが、何とかなると思います」という回答。

たしかに彼は非常に優秀で、その後無事に起業し、大手からの資金調達にも成功して、順調に仕事をしているようです。そして東京には、彼のような若い優秀な起業家がたくさんいて、ゆるやかな人間関係のネットワークのようなものを形成している。そのネットワークの中で生きていると、そこでの人間関係が普通になってしまい、それが「平均的」であると感じるようになるでしょう。その「平均」はアンダークラスや田舎の平均とはまったく違う。

わたしはA君のような優秀な若者に会うと、ときどき「親は何してる人?」と軽く尋ねてみることがあるのですが、「経営者」「大学の先生」「弁護士」「医師」などとキラ星のような回答が実に多い。おまけにそういう優秀な若者たちは男女問わず美男美女で、おまけに善意のあふれた爽やかな人たちなのです。何というか、もう本当に身も蓋もありません。

地方の高校できわめつけの優秀な成績だった人が、苦労して東京の有名大学に合格し入学してみたら、自分よりもずっと優秀で文化的なバックグラウンドも高い人たちばかりで驚愕した…という話はツイッターのまとめなどでもよく出てくる話題です。地方の田園地帯と大東京は、21世紀にはすでに大きく分断されており、双方の「平均値」を語ることにはもはや意味がないように感じます。

さて、そういう平均というものがあまり意味を持たない社会で、わたしたちはどう生きていけばいいのでしょうか。「超優秀での平均」を目指すのは、凡人にはかなり無理があるのではないでしょうか。もう少し気楽に構えて、高レベルの「平均」のさらに上を目指さないで生きていくことはできないものでしょうか。

20世紀後半の日本には「総中流社会」という概念があり、たいていの人が自分の暮らしぶりを「日本全体の中では平均的だ」と感じていました。実際にはそのころにも格差も生じていたことは統計などで明らかになっていますが、おおむねの感覚としては「全員が中流」だったのです。

総中流社会は戦後の高度成長がひと段落した1970年代なかばに確立したとされています。そこから1980年代のバブルにかけてが、日本がまあまあしあわせでみんなが「自分は日本全体で見ても平均的」と思えた時代だったと言えるでしょう。しかし90年代にバブルが崩壊し、97年には金融危機が起き、経済が停滞期に入っていく中で、さまざまな軋みが生じてきます。

2000年代に入ると、就職氷河期のあおりを受けたロスジェネ世代を中心にして「就職できなくても成功を目指したい」「レールを外れても頂点を目指せるはずだ」という価値観が広まっていきました。自己啓発本が売れに売れるようになったのも、このころです。総中流の「平均的」だった人生のレールが消滅してしまい、その代替物として自己啓発本が求められたのだとわたしは捉えています。

しかし「成功しなければ」という思いは強迫観念にまで強くなってしまうと、「成功できない」ということが逆にわたしたちの人生を惨めなものにしてしまいます。アメリカの自己啓発本などにも多いのですが、「あなたの人生が改善されないのは、自分の責任だ。もっとポジティブになって自分を高めなければならない」というような考えは、自己責任論を高めるばかりで、人が安心できるよりどころにはなりません。

だからわたしは、自己啓発的な自己責任論ではなく、別のアプローチを最近は考えています。それはどういうものとかというと、「自分なんかたいした能力はない。たいした能力はないけれど、能力をいろいろ寄せ集めれば何とかなる」という考え方です。

仮に能力を、二つに分けてみましょう。ひとつは専門的な能力。もうひとつは、それを人びとにアピールしたり誰かに売り込むことができる能力です。営業能力といってもいいかもしれません。

そしてこの二つの能力は、かけ算すると総合的な能力が得られます。たとえばAさんがある分野での優秀な専門能力を持った技術者だとします。技術者の「平均」が10点だとして、Aさんは優秀なので50点の能力を持っている。しかし営業能力は平凡なので、平均の10点しかありません。すると50点×10点で、総合500点。

別のBさんは技術の専門能力が平凡なので10点だけど、アピールするのが得意で営業能力はかなり高くて、50点。すると合計は500点。Cさんは専門能力も営業能力も平均的なので、10×10で合計100点。Dさんは、両方とも素晴らしい能力があるので、50点×50点で2500点。

いっぽうでEさんは、専門能力は高く50点ありますが、売り込みが死ぬほどヘタで営業能力はゼロです。すると50点×0点=0点。またFさんも売り込みは得意で50点だけど、技術者としては全然だめで0点。するとこれも0点×50点=0点。かけ算はどれかの要素がゼロにならないことが大切なのです。

さて、ここで多くの人はDさんを目指しがちです。たしかに総合が2500点もあれば、かなり良い会社に入れて高収入も期待できるでしょう。しかしAさんやBさんは、すべての能力が非凡なわけではなく、一部の能力が優れているだけで、500点を得ている。すべての能力が平凡なCさんの100点よりもずっと多いのです。片方の能力がゼロのEさん、Fさんは論外です。

だからここで言えるのは、秀でているのはひとつの能力だけで十分だということ。そこだけうまくやれれば、他の能力は平均的か、あるいは平均より少し落ちるぐらいでも(ゼロじゃなければ)大丈夫ということなのです。

Gさんという人も考えましょう。この人は専門能力も営業能力も少しだけ人より上で、15点と15点です。それでもかけ算すると、225点になる。平均的であるCさんよりも、個別の能力が1.5倍ずつ高いだけなのに、総合では2倍以上の点差になるのです。

このGさんは実は、フリーランスとして独立した直後のわたしのことです。

わたしは新聞記者を12年、その後アスキーという出版社でパソコン雑誌の編集を3年ほどやって、2003年に独立しました。

私は新聞社時代には、周囲の同僚や上司とくらべればパソコンやインターネットの知識がずっと上だと感じていました。ところが当たり前の話ですが、その後移籍したアスキーでは、社員やそこで仕事をしているフリーライターにはコンピュータに詳しい人は山のようにいましたし、私よりもずっと深い技術的な知識を持っていました。だから「これはまったく勝てないな」と感じました。

彼らがテクノロジ専門能力50点ぐらいだとすれば、わたしは一般社会の平均よりも少し高いだけの15点ぐらいだったと言えます。

しかしもう少し冷静に観察してみると、もっと別の面も見えてきました。それはパソコン系のライターの取材というのは、基本的には企業の広報部を通した玄関取材であり、新聞記者がやっているような「夜回り」「聞き込み」などの経験がある人はほとんど皆無ということです。新聞記者はこういう裏口の取材については徹底的に鍛えられており、普通であればインタビューできなさそうなところへもぐんぐん入っていく技術を持っているんですね。

しかし振り返ると、新聞社には、私よりも取材力の高い事件記者はいくらでもいたのも事実です。10年以上も事件記者を続けていても「この人には絶対に勝てない」と思わせるような特ダネ記者がたくさんいて、そういう存在に私は「自分は事件記者としてはしょせんは一流にはなれない」と何度も打ちのめされたものです。

こういう凄腕の事件記者が取材専門能力50点だとすれば、わたしは10点ぐらいです。

しかしそうやって二流の事件記者がパソコン雑誌に行ってみると、二流の事件取材技能であっても、コンピュータの世界では十分に一流になれる。バカバカしいほど当たり前のその事実に突然気づいたのです。

それは、テクノロジー専門能力と取材専門能力がかけ算をする分野で、その当時はわたし以外には人材がいないとのだという事実です。

なぜでしょうか。先ほどのかけ算を考えて見てください。

パソコン雑誌の編集者は、テクノロジー専門能力は50点ですが、裏口取材の能力はゼロです。するとテクノロジー×裏口取材のかけ算の答は、ゼロになってしまう。

新聞の事件記者は、裏口取材能力は50点ですが、テクノロジー専門能力は正直言ってゼロです。これもかけ算するとゼロ。

そしてわたしは、どちらも凡庸の域を出ませんが、どちらにもそこそこの能力があり、かけ算すると15点×10点=150点。そんなに高い能力点数ではないのですが、他にやれる人がいないのだから、その点数でも十分に通用してしまいます。

そこで私がフリーランスとして独立し、最初に主に手がけたのは得意分野の犯罪報道でした。つまりはITと事件取材のかけ算のところに存在している、ネット犯罪を主に取材したのです。たとえばセキュリティの専門家として活躍していた人物が警察に逮捕された事件や、1600万円もの銀行預金が不正アクセスされて奪われてしまった被害者への取材など、さまざまなネット犯罪ものを書きまくっていました。

開発者が著作権侵害の幇助容疑で京都府警に逮捕されたファイル交換ソフト「Winny」の事件では、裁判を傍聴するため1年間にわたって京都地裁に通い詰めたのを覚えています。「匿名性がきわめて高い」と言われて摘発不能とも言われていWinnyの匿名性を警察がどう突破し、検挙にこぎ着けたのかを、警察庁幹部などへの「夜回り」まで行って、さまざまな記事を書いたのです。

情報通信テクノロジの知識があり、なおかつ捜査当局への夜回りや犯罪者への取材まで敢行できるライターなどそのころは皆無でしたから、これは独立したばかりの私にとっては大きな武器となりました。パソコン雑誌のみならず『諸君!』『月刊現代』『論座』『文藝春秋』といった総合誌でも仕事をさせていただく大きな足がかりをつくり、さらにはテレビやラジオへの出演の回数も増えて、自分の知名度をさらに高めていくことができたのです。

つまりは自分自身のさまざまな技能のひとつひとつは平均的であっても、掛け合わせればそれ以上になれるということなのです。私は事件記者としては二流だったし、コンピューターの専門記者としても二流だったけれども、「コンピューターの事件記者」としてはじゅうぶんに勝負できる立ち位置を獲得できたということなのです。

ちなみにこのころ、謎の大量迷惑メール事件というのがありました。当時としては信じられないほどの大量の迷惑メールを送出している者がおり、「これはいったい誰なんだ?」とセキュリティ業界が騒然となっていたのです。しかしその送出者を直撃取材するような人は当時はITのメディア業界には皆無だったので、わたしがさっそく足を運んで当の本人を取材しました。

なんとその人は過去に裏ビデオ詐欺で大儲けして逮捕され、しかし売上の一部を隠しておいて、出所後にそのお金で銀座に自社ビルを購入。若手技術者を何人も高給で雇って大量の迷惑メールを送出していたのです。

この「迷惑メールの帝王」物語は長いルポにまとめて、2004年にとある雑誌に寄稿したのですが、いま読むと、自分でも言うのも何ですがめちゃめちゃ面白い。当時のIT業界と裏社会のつながりとか、斬新な話がたくさん出てきます。全文を転載しますので、ぜひお楽しみください。

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