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天皇の政治へのコミットが、2010年代になぜ突如として期待されたのか 佐々木俊尚の未来地図レポート vol.675

特集

天皇の政治へのコミットが、2010年代になぜ突如として期待されたのか
〜〜「20世紀の神話」は今こそ終わらせるとき(第6回)

 天皇崇拝というと、復古主義的な右翼の考えだというのが以前は一般的でした。象徴天皇ではなく、戦前のように日本の君主として戴く。明治憲法の「大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」への復古です。

 ところが、最近はそういう復古主義がまったく別のところから現れてきていて、驚かされます。たとえば東京オリンピックの直前、立憲民主党の川内博史衆院議員が、こうツイートしてニュースになりました。

 川内さんはその日のうちにこのツイートを削除し、西日本新聞に「陛下を政治利用するつもりは一切なく、利用できる立場でもない。誤解されたくないので、削除して撤回した」と説明していますが、こういう「天皇の発言に期待する」「天皇を忖度する」という姿勢は今になって始まったことではありません。過去をさかのぼって追いかけてみると、2010年代になってから左派のあいだで頻出していることがわかります。

 「天皇忖度」を時系列に沿って追いかけてみましょう。

 この動きが現れたのは、2013年のことです。

 最初のきっかけは、「天皇直訴」事件かもしれません。この年の10月31日に秋の園遊会がひらかれ、出席した山本太郎参院議員が、天皇陛下に直接、手紙を手渡してしたという騒動です。福島第一原発事故での「子どもたちの被爆」などについて訴える内容だったようです。

 この行為について、左派系ジャーナリストの田中龍作さんは当時、ブログでこう書きました。「天皇陛下に手渡した手紙の内容は『子供と労働者を被ばくから救って下さるよう、お手をお貸し下さい』。まさしく平成の田中正造である」

 田中正造というのは、明治時代に足尾鉱山の鉱毒事件を訴え続けた社会活動家。馬車で移動中の明治天皇に駆けよって、直訴しようとしたことで有名なのです。警官に取り押さえられて未遂に終わりましたが、大騒ぎになりました。

 その田中正造を山本太郎さんと同一視して褒めているのですが、明治時代とちがって現在の憲法では、天皇陛下に政治的なお願いをすること自体が、天皇の国務行為を禁じている憲法の理念に反していると言えるでしょう。

 山本さんは直訴について当時ブログでこう書いています。「この胸の内を、苦悩を、理解してくれるのはこの方しか居ない、との身勝手な敬愛の念と想いが溢れ、お手紙をしたためてしまいました」

 2013年には、映画監督森達也さんの衝撃的なインタビューが朝日新聞に掲載されました。11月27日のことです。森さんは直訴事件に触れて「山本さんほど直情径行ではないにせよ、天皇に対する信頼がいま、僕も含め、左派リベラルの間で深まっていると思います」と語っているのです。

 この記事で興味深いのは、左派の天皇忖度の源流について森さんが2004年の事件をひきあいに出していることです。この年の園遊会で、棋士の米長邦雄さんが「学校で国旗掲揚と国歌斉唱させるのがわたしの仕事」と天皇陛下に話したのに対し、陛下は「強制ではないことが望ましい」と返答されました。

 この事件について、森さんはこう話すのです。

「快哉を叫んだ左は多かったと思います。明らかに天皇は一定の意思を示していて、追い詰められるばかりの左にとって最後の希望のような存在になってしまっている。倒錯しています。でも白状すると、その心性は僕にもあります」

 森さんにも「倒錯している」というご自覚はあるのですね。天皇崇拝しつつもちょっと自虐的に、次のようにも語っているのです。

「政治家も官僚も経営者も私利私欲でしか動いてないが、天皇だけは違う。真に国民のことを考えてくれている。そんな国民からの高い好感と信頼が今の天皇の権威になっていると思います。昭和天皇は遠い存在でした。遠くて見えないことが、権威の源泉になっていた。しかし今上天皇からは肉声が聞こえるし、表情もうかがえる。だから右だけではなく左も自分たちに都合よく天皇の言動を解釈し、もてはやす。いわば平成の神格化です。天皇は本来、ここまで近しい存在になってはいけなかったのかもしれませんね」

 さて、続いてこの年の12月26日には、文筆家平川克美さんのこんなツイートが登場しました。

「日銀や、NHKをはじめとするメディアは、人事介入でコントロールできると考えている安倍首相にとって、憲法遵守と平和主義の天皇陛下と、自国益第一のアメリカだけはコントロールできないやっかいな存在になりつつある」

 このツイートへの内田樹さんのリプライ。

「ほんとだね。安倍首相にとって国内最大の政治的ハードルは天皇でしょう。首相の『愛国的ポーズ』に対する嫌悪感を天皇陛下はもう隠していませんから」

 つまり当時の「第二次安倍政権vs天皇陛下」という構図をえがく方向へと突き進んでいったのです。

 2015年。この年に55歳を迎えられた当時の皇太子殿下は、戦後70年の節目について我が国は,戦争の惨禍を経て,戦後,日本国憲法を基礎として築き上げられ,平和と繁栄を享受しています」と話されました。このときわたしはツイッターを注意深く観察していたのですが、次のようなツイートがたくさん現れました。

「安倍首相の『憲法9条が日本の平和を守ってきたわけではない』という発言を否定したものだ」
「皇太子さま、安倍総理をやんわりと否定」
「憲法を変えたがる国賊から日本を守っていく?」

 いくらなんでも「日本国憲法を基礎として築き上げられ」という言葉から、反アベを引っぱり出すのは無理があるのではないかと思うのですが、こういう意見がネットではひんぱんに見られるようになっていったのです。

 そして2016年には、決定的なできごとが起きました。天皇陛下が生前譲位の意志を「おことば」として表明されたのです。これはかっこうの材料だったようで、生前譲位を安倍政権への抵抗と意味づける記事やツイートが大量に現れました。

 たとえば左派系メディアの『リテラ』は『明仁天皇の「生前退位の意志表明」は安倍政権と日本会議の改憲=戦前回帰に対する最後の抵抗だった!』という記事を書いています。

「宮内庁関係者の間では、今回の『生前退位の意志』報道が、安倍政権の改憲の動きに対し、天皇が身を賭して抵抗の姿勢を示したのではないか、という見方が広がっている」

「これはけっして、妄想ではない。天皇と皇后がこの数年、安倍政権の改憲、右傾化の動きに危機感をもっていることは、宮内庁関係者の間では、常識となっていた」

 匿名の証言なので「宮内庁関係者」が実在の人物なのかはよくわかりません。しかしこういう言い分は、当時ツイッターでもたくさんありました。わたしがこのころ収集したツイートをいくつか紹介しましょう。

「今上陛下は、自民党の改憲をひどく嫌っていると聞く。陛下なりの抵抗かも」
「天皇自身の安倍独裁・憲法無視政治に対する政治的な精一杯の抵抗なのだろう。天皇が戦争法に泣く泣く親書された気持ちを考えると涙が出てくる」
「日本会議がプロデュースしてこれから制定されようとする改悪新憲法の下で天皇として在位するつもりは無いという陛下の堅い意思表示と読むことも出来る」

 そもそもそういう思いを天皇陛下がいだかれていたのかどうかさえ、判断しようがありません。だからこれらの意見はあくまで「天皇忖度」でしかないのですが、左派の人たちのあいだでは同じような意見がたくさんあり、ある種の「常識」として定着していったようです。

 この2016年の暮れには、参議院の本会議で共産党の大門実紀史さんが、「明治天皇も雲の上で怒っておられます。『共産党頑張れ』と言っているのではないでしょうか」と訴えるというできごとも起きました。カジノを解禁するかどうかの議論で、賭博を明治時代に刑法で禁止されたことに触れてです。つい20年ほど前までは共産党は天皇制廃止を綱領に掲げていたことを思うと、隔世の感があります。

 さらに2017年になると、内田樹さんが保守派の雑誌『月刊日本』のインタビューに登場し、「私が天皇主義者になったわけ」を話すという衝撃的なできごともありました。

 天皇制の存在が政権の暴走を抑止しており、その理由は天皇制がスピリチュアル(霊的な)性格を持っていて国民を統合しているからだ、という論です。こう語っています。

「選挙で選ばれた指導者などの世俗的な『国家の中心』とは別に、国家にはしばしば、宗教や文化を歴史的に継承する超越的で霊的な『中心』がある。日本の場合、それは天皇なのだと思う」

 そういう見方をわたしは否定するわけではありませんが、左派の人がこれを言ったという重みはすごいと思います。

 今年の五輪でも、「天皇忖度」が物議を醸しました。オリンピックが始まる前に宮内庁長官が記者会見でこう話したのです。

「天皇陛下は現下の新型コロナウイルス感染症の感染状況を大変ご心配しておられます。国民の間に不安の声があるなかで、ご自身が名誉総裁をお務めになるオリンピック・パラリンピックの開催が感染拡大につながらないか、ご懸念されている、ご心配であると拝察しています」

 これだけでは今上陛下がオリンピック開催に反対なのかどうかはわかりません。「感染防止をきちんとしてほしい」とおっしゃってるだけとも解釈できると思いますが、ネットなどには「陛下は反オリンピック」という忖度の意見がまたも溢れかえりました。そしてこのあとに、冒頭に紹介した立憲民主党川内議員の「陛下が開会式で『大会の中止』を宣言されるしか、最早止める手立ては無い」がやってきたのです。
 
 それにしても、なぜこのような「天皇忖度」が21世紀のいまになって突如として湧き出してしまったのでしょうか?

 わたしはこの潮流の背景には、左派の人たちやメディアが「何をバックにして政権を批判するのか」という、その「何を」が揺らいできた問題があるのではないかと考えています。

 日本のマスメディアは、主語のない批判が得意です。

 たとえば「……という批判はまぬがれないだろう」といった書きかたがありますね。これって「誰が批判してるのか?」という主語が消失してしまっています。「私たち○○新聞社はこの政策を批判する」って書けばいいのに、なぜか書かない。

 じゃあ「批判はまぬがれないだろう」と書くときの主語って、本当は誰なのでしょうか? それは「世間」とか「市民」という抽象的で漠然とした主体です。

 ところがこの「市民」「世間」は、もはやあまり信頼されていません。それはしばらく前に、本メルマガでも書きました。

「市民」とか「世間」といっても、その判断は必ずしも正しくないし、人びとは他者に対してかんたんに過酷になってしまいます。そんなものを気軽にほいほい主語にしてしまっていいのかという問題があります。

 さらにはインターネットの普及で、だれもが議論に巻き込まれるようになって、自分自身の主体性みたいなものが問われるようになったということもあります。いまのSNSでは「人ごと」みたいに言うような意見は、賛同を得られないことが多いのです。「わたしはこう思います」としっかり発言する人のほうが、当事者性があって信頼感がある。

 つまりメディアが言うような「批判はまぬがれないだろう」というような言い回しは、現代のSNSにはまったく合わないということなのです。

 「太宰メソッド」なんていうネットスラングもありますね。これは太宰治の小説『人間失格』で、主人公が友人から「それは世間が許さない」と批判されたことに対して、「世間じゃなくて、あなたが許さないのでしょう?」と内心で反論する場面から来ているスラングです。自分が嫌いなだけなのに、まるで社会全体が批判しているかのように「太宰メソッド」を振り回す人は、たしかにツイッターでもひんぱんに見かけます。

(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)

 このような世間や市民のような漠然とした主語が、21世紀になって急速に批判を浴び、無力化してきたという流れがあります。

 そこでは、「政権は批判をまぬがれないだろう」と気軽に言いにくくなってしまっている。そういうステレオタイプな批判をしても「誰が批判してるの?」と反論されてしまうのが、いまのインターネットなのです。

 そこで天皇が、求められる「主語」として登場してきたのではないか?というのが、わたしの見立てです。

 実際、太宰メソッド的な政権批判の「世間が許さない」を「天皇陛下が許さない」に置き換えれば、すんなり入れ替えられてしまいますね。何を主語にして批判するのか?という難題を突きつけられて、そのつらさに耐えられない状況の中で、「主語」を勝手に天皇陛下に負わせるという心象が生まれてきているのではないでしょうか。

 しかしこれは明らかな「天皇の政治利用」であり、非常に危険な方向です。そもそも左派の人たちは「護憲」を標榜しているのであれば、たとえ憲法擁護に役立つからといって、天皇の発言をて政治利用すべきではないというのは、原則中の原則ではないでしょうか。

 そういえば、先ほどの内田樹さんの「首相の『愛国的ポーズ』に対する嫌悪感を天皇陛下はもう隠していませんから」というツイートに対しては、以下のようなリプライもあったことを記憶しています。

「なら護憲派は『象徴たる天皇は、憲法に基づき選挙で選ばれた首相の政治方針に、好意も嫌悪も表明すべきでない!』と怒るべきなのでは?『偶然陛下が我々の思想と一致するのは嬉しい。だがこれは我々の問題だ』」

 まさにこの通りだと思います。

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